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第7話 冒険心に火をつける
秋晴れのまぶしさを二階の角部屋から見上げ、僕はぼんやりと考え込んでいた。昨夜のなんとも情けない願いに、「付き合うつもりはないといっているのに」と半ばあきれつつ了承してくれた聡一は、今は店の手伝いをしている。氏神祭の日の特別な仕事の段取りを覚えるためには、どうしても休めないのもわかる。
窓辺で鬱々としながら今度は視線を下げると、視界に店が入った。週末だというのにも関わらず、なぜか今日はとても忙しそうだ。祭りの品の卸し関係で出入りの客が多いのかもしれない。あの慌ただしさの中で働く聡一の姿を想像して、心がきゅっと締め付けられる。甘く苦い、幸せで辛い。なんという不安定さだろう。それに輪をかけるように、例の先輩の妹とやらが今日はちょっかいをかけてくるというのだから、腸煮えくりかえる気持ちでいっぱいだ。
手の中で紙幣がつぶれる音がして、慌てて手の力を抜いた。今朝、紀子がくれたお祭り用の小遣いを無意識に握りしめていたようだ。紙幣を伸ばしながら、いつ出発しようかなと考えると、本当だったら聡一と楽しく行けるはずだったという気持ちが頭をよぎって思考が停止してしまう。忙しそうな店に行って『甘き恋』の続きを読むにしても、まず哲郎に声をかけること自体が迷惑になってしまうだろう。ほかの兄弟、理一郎と征二なんかはお昼ご飯を屋台で済ますといってお小遣いを握りしめて颯爽と出かけてしまっている。もちろん僕に声はかかってなどいない。かけても欲しくないのでそこは決して問題ではないのだが。わかっている、単純にないものねだりで手に入らなかったことに不貞腐れて暇を持て余しているだけなのだ。
小遣いを財布に入れて懐に収め、窓辺からまた空を見上げた。どう表現すればいいのかわからないが、夏のそれとはまた違う透明感のある青をただ綺麗だなぁと現実逃避のように眺めるのは、なんだか惨めな気持ちになってきてしまった。
僕は胡坐をかいた体勢のまま、ゆっくり後ろに倒れこんだ。当たり前だが後頭部がそのまま畳にあたり、鈍い音を立てた。畳だからと高を括ったが、ちょっと痛かった。やってみたけど後悔した。なんでやろうと思ったかもない、本当になんとなくだった。全くどうしようもないやつだ自分というやつは。
「はー……出かけるか」
深いため息とともに、僕は滲んだ視界を擦りながら立ち上がった。外套はいるだろうかと一瞬考えたが、めんどくさくて鞄だけを肩からかけた。昼の時間はとっくに過ぎて、腹も減り始めた。そろそろ屋台が混み合う時間も過ぎただろう。本番の夜に向けて足りなそうなものは、今からでも補充が間に合うか花村屋へ聞きに来る得意先もあるかもしれない。そんな時に自分の分の昼ご飯を用意してほしいなどと言えるわけがない。普段からあまり散財もしないので、小遣いは充分に足りている。問題なく、聡一と先輩の妹とやらが会う時間まで外で時間をつぶすことができるだろう。
足取りは重いが、部屋を出て階段を下りる。少し耳を澄ませてみても、母屋に人の気配はない。それでも誰もいなくなるわけなので、念のため家人に出かけることを伝えようと、さらに気乗りしないが花村屋の裏口へ回った。バタバタと走り回る従業員。庫内の隅のほうで父と聡一が帳面を片手に二人で話し合っていた。父の涼しげな表情と裏腹に、聡一の眉はわずかに寄って難しそうな固い顔をしている。帳面を真剣に見つめる聡一を、父は少し誇らし気に見ていた。僕はまた少し足がすくんでしまう。
聡一が首の後ろを掻きながら視線を上げた瞬間、ぱっとこちらを向いた。こういう時にすぐ僕を見つけるのは、いつも聡一だ。その視線を追うように父もこちらを見つけ、
「出かけるのか」
僕に声をかけてきた。僕は背筋を伸ばして答えた。
「はい。祭りに行ってまいります」
努めてはっきりと声を出してみたが、正直うまくいったかはわからない。父の表情は聡一に向けていたものとは打って変わって、相変わらずの無表情であった。
「そうか。気を付けて行ってきなさい」
「はい。行ってまいります」
僕は一礼をして、そのまま逃げるように走ってその場を離れた。緊張でどうにかなりそうだった。聡一が僕のほうを心配そうに見ていたことが、唯一の救いだった。
さて、とりあえず母屋が不在になることはこれで伝わっただろう。こちらは予定通り動くしかない。
僕は氏神祭へと歩を進めた。初めての氏神祭。少し緊張もするが、冒険心がうずく。いったいどんなものがあるだろうか。必然的に学び舎の方向へ歩くので、緩やかな坂道となっているわけだ。昼飯前につかれるのも嫌だし、座って食べることなんてできないだろうからゆっくりと歩いていく。
さすがに同じ学級の子もいるだろうが、そんなに仲のいい子がいるわけでもないし、積極的にかかわったこともないので、きっとあちらから声をかけてくることもないだろう。普段見ることもない通学路も、休みの日なのでゆっくり眺めることができる。
ふと、裏路地に目が行く。いつもなら行かないようなところも、冒険心にあふれた今の自分にはすべてが魅力的に感じてしまう。昼間なのに軒下との間隔が短いせいであまり日が入らず、なんとなく薄暗い雰囲気のその路地は、あまり活気に満ちているとは言い難かった。心の赴くままに裏路地へ歩を進める。表通りの喧騒がいっきに遠ざかる。あたりを見渡しながら進んでいると、手書きの看板が目に付く。子供が殴り書いたような「本・買います」という黄色い看板の裏側には、「貸本」と達筆で書かれていた。
僕は勇気を出して薄いガラスの格子戸をひいた。滑りがよくないのかがたがたと音をたてながら横にずれていく。薄暗い店内に人ひとりがすれ違うのもやっとな距離で本棚が設置してあり、あふれた本がさらに木箱の上に平積みされている。埃っぽいようなカビくさいような、何とも言えない紙と印刷物の匂いにあふれた店内の奥に店主と思われる老人が座っている。店内に入った自分をじっと見た後、手元の本に視線を戻した。
本棚をちらちらとみると、見たことのない本がたくさん所狭しと並んでおり、子供の自分では目的物を見つけるのも一苦労だ。
「……こんにちは」
振り絞るのは勇気なのか肺なのか、肺が縮こまるのを感じながら僕はなんとか店主に声をかけると、店主は小さくため息をこぼして本にしおりを挟んだ。何を言うでもなく、僕のほうを興味なさそうに一瞥する。
「すみません、『甘き恋』はありますか」
そういうと、店主の目にやっと感情が宿ったようだった。目を見開いて老眼鏡を直しながら、僕の顔から足元までなめるように見定め軽く咳払いをしてから、
「んんっ……坊主が読むのか」
そう聞いてきた。僕は、まぁ確かにこんなもやしのような体格の小学生が興味をもって読むようには客観的にみても思われないだろうなぁとは思った。失礼なことには変わりないが。
「はい。実は……近所のお兄ちゃんに借りて少し読んだんですが、最後のほうを読めてないんです」
「ほぉ? 面白かったかね」
「正直に申し上げて、恋愛ものを読んだのは初めてです。面白いかどうかというのは僕にはわかりません。ただ、続きが読みたいと思いました」
そう正直に言うと、老人はくっくと笑った。
「なるほどなるほど。『甘き恋』はね、今貸し出し中だよ」
「そうですか……」
老人の答えに僕は心底がっかりしたが、老人はつづけて言う。
「どこまで読んだんだ」
「主人公が退院して――」
「本当に最後のほうじゃないか」
「そうなんです。時間がなくてどうしてもそこまでしか読めなくて」
そう答えると、老人は手で膝を打ちながら高らかに笑い始める。
「こりゃぁいい。いや、すまなんだ。おい坊主、この後時間はあるのか」
「夕方までは時間があるよ……あります」
老人のさっきまでとは違った気さくな雰囲気に、思わず敬語が外れてしまった。それを咎めるでもなく、老人は自分の足元を探り始め、一冊の本を手に取ると、表紙を手で簡単に掃ってから僕のほうに差し出してきた。表紙には『甘き恋』と書かれている。
「私物なので、これは普通に君に貸そう。ただし、ここで読んでいくのが条件だ。どうする?」
老人が微笑んで、僕に提案してくれた。僕は喜んで受け取った。
「もちろんです。ありがとうございます!」
老人は自分の隣の丸椅子を示すので、僕はそこに腰かけて『甘き恋』を開いた。
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