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第8話 落ち葉の上に、寂しさを溶かす

 『甘き恋』のあとがきまで読み終わって、満足感を噛み締めながら本を閉じてはっとした。外の日の当たり具合を見てほっと胸をなでおろす。夕方よりは少し早いぐらいの時間だろうか。やはり知らない漢字があると調べて読み進めるので、少し時間がかかってしまう。辞書もお借りできたのはとても幸いであった。  僕が店主に視線をやると、店主も僕の視線に気づいたようで手元の本からこちらへ目を向けた。老眼鏡を直して僕の反応を待っている。 「ありがとうございました」 「読み終わったのか」 「はい」 僕が満足気に頷くと、店主は目尻に皺を寄せながら、 「そうか」 と短く言うと、また手元の本に目を落としてしまった。僕は椅子の上に借りた『甘き恋』と辞書を置いて、思案した。お礼をどうしよう。こんな見ず知らずの子供に私物を貸してくれた大人に僕はどうお返しすればいいだろうか。 「あの、何か、僕にできることは」 「気にせんでいい」 今度は本から視線を外すことなく、店主は短く答えた。そういうわけにもいかないような、でもいいんだろうか……こういう時の正しい行動を僕は知らない。腕組をして頭をひねるが、妙案など出てくることもない。 「……また、来ます」 そう絞り出すのが精いっぱいだった。老人がしおりを本に挟んで閉じる。ゆっくりと立ち上がって腰を伸ばしてから、 「本は、好きか」 絞り出すように聞いてきた。僕は考えた。好きか嫌いかと問われたら、嫌いではないが好きと言っていいほどのものなのかもわからない。でも、 「好きだと言えるぐらい、これから読んでいきたいと思います」 素直にそう答えると、店主は歯を見せながら噛み締めるように笑った。 「生意気な奴め。さ、店じまいだ。出た出た」 楽しそうに笑う店主の声を背で受けながら、僕は店を出た。振り返ると店主が戸締りをしようとしているところだった。店に向かって一礼をする。しばし店主はしばらく動かなかったようだが、やがて窓かけを閉める音が聞こえてきたので僕は頭を上げた。ガラスの格子戸の向こうには、日に灼けた白かっただろう窓かけしかもう見えなかった。  突然、めったに聞かない自分の腹の音で昼食を食べていないことを思い出した。誰にも聞かれてないことを願いながら僕は足早に氏神祭へ向かった。表通りに出ると、時間帯もあってか帰りたくないと駄々をこねる子供の声が聞こえたり、すでに疲れて親に背負われて眠る子供の姿もちらほらと視界に入ってくる。時間的にまだ屋台が閉まってしまうことはないだろうが、混み合ってしまうと吟味する時間や余裕がなくなってしまうのが惜しい。急く気持ちに呼応するように駆け足になる。もともとの体力のなさに緩やかな登り坂で息が早々に切れてくるが、今回ばかりはそのまま歩みを緩めずに進んだ。肺が引っ張られるような痛みも苦手だし、もちろん息苦しいのも嫌いだ。頭や背中や脇から噴き出す汗の感覚も、どんどん疲れて重くなっていく体も、どうにも好きになれない。しかしながら、自分の体がきちんと動くようになってから、自分の体を言い訳に何もしてこなかったのも自分だ。それが悔しいなら聡一のように自分でできることをしておけばよかったのだ。わかってるが、苦手なことを気を奮い立たせて行うだけの勇気や支えが自分の中にはないのだ。気が進まないなんてあたりまえじゃないか!  そう言い訳を自身にしながら氏神神社についたころには、疲労困憊で立っているのもやっとの状態だった。膝がかすかにふるえているのを感じながら鞄から手ぬぐいを取り出して、額から首から次々に吹きだす汗を拭くが、なかなか収まりそうにない。何か潤せるものはないだろうか。  辺りを見渡しても道にぎっしりと並んだ屋台にはどれも人が多く、どんなものがあるのかは匂いを手繰るしかない。甘い菓子や海鮮物を焼いたようなおいしそうな香りに混ざって、煙草の匂いや遠くのほうで鳴っている爆竹と思われる火薬の匂いがする。内から出る暑さに茹だりながら大人たちの間から屋台を探し見る。  少し他の空間と比べると、空いているように見える屋台の看板に、一瞬「氷」という字が見えた。秋の空気を感じる中でもやはりあったかと、人の合間を縫うように氷の字めがけて進んでいく。とにかく渇きを潤したい。その一心で屋台の前までくると、思った氷の商品ではなかったが、予想に反した結果に僕は心の中で小躍りした。見えていた氷という文字は「氷水」の頭文字で、品書きには簡単に「氷水 アカ・ミドリ」としか書かれていなかった。キイロもあったが、すでに完売御礼の札がかかっている。品書きの隣に置いてある大きな3つのガラス瓶に、それぞれ赤、緑に色づいた水が半分ほど入っている。残り一つには雫を集めたように底に少したまった黄色の水が入っていた。これが噂に聞く甘い色水かと、思わずまじまじと見てしまう。いかにも飲んだら舌の色が変わってしまいそうな色のそれは、さながらかき氷にかける氷みつを薄めたもののようであった。さて、味は甘いということしかわからないが、舌を覗かれたときにより衝撃的なほうはと考えると、やはりミドリであろうか。いったいどんな味がするのだろうか。 「すみません。ミドリをください」  声が少し上ずる。だが、貸本屋の店主に声をかける時ほどの緊張はない。法被を着た屋台の女性がきびきびとした動きで紙コップに大きめの氷をことりと入れた。目の前にある瓶を開けて、お玉で緑色の水を紙コップに注いでいく。代金を払って紙コップを受け取り、屋台を離れた。道行く人に当たらないように、こぼさないように移動し、人混みを抜けて手の中にある揺れる氷と緑色に目を落とした。生まれて初めて買った、濁りのない鮮やかな緑色をもう少し眺めていたい気持ちもあったが、のどの渇きに耐え切れず口をつけた。上唇にあたる氷をよけて舌の上を通り過ぎる冷たさを感じた瞬間、目から耳から圧が抜けるような衝撃的な甘さときたら、以前聡一が買ってきてくれた東通りにある菓子屋『たばた』の落雁よりも、冬に食べたおしるこよりも、なんなら塩と砂糖の違いが判らなくてこっそり舐めてみた砂糖よりも甘い。鼻へ抜けるよくわからない果実の香りも、すべて得体が知れない。なんだこれは。なんだこれは!  はっとして手元を見ると、紙コップの中は角が取れた氷しかなかった。コップの底をくるりと回してみる。隠れるように残っていた緑色が氷を追いかけるように跡を残しながら垂れて、また氷の陰に隠れていく。喪失感に近い空虚な感覚をどう処理していいかわからず、またくるりと氷を回す。くるり、くるり。手首を固定してどんどん速く回していく。走るように回る氷を見ながら思考が飛んでいく。聡一がもし一緒にいてくれたなら、こんなことをしている自分を「何やってるんだ」って一緒に笑ってくれるんだろう。むしろ聡一は氷水を飲んでどんな反応をするのだろうか。染まった舌を二人で見せ合って、笑って、絶対楽しいだろう。どんなに幸せだったろう。自分にとって初めての経験を享受してほしい人は、目の前にはいない。 「一緒に飲みたかったな」 ぽつりとつぶやいた瞬間、回り続けていた氷は制御を失って紙コップの淵から飛び出した。 「あっ!」 飛んだ氷を目で追う。氷は軽く弧を描き、重なった落ち葉の上に落ちた。人に当たらなくてよかったと胸をなでおろす。こんなことをしても叱ってくれる人も今はいない。一緒に来てほしかった人は、例の先輩の妹とここに来る。落ち葉の上で溶け始めた氷を見下ろしながら、こんな嫌な気持ちも紙コップで回して飛ばして、溶けて消えてしまえばいいのになんて思った。

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