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第9話 告白、花火、そして
祭囃子が聞こえ始めて、人の流れが変わり始めた。氏神神社の参道に山車が立てられ、和太鼓や笛、鉦鼓を奏でられているようだった。なるほど楽しそうな音が鳴っている。それとは裏腹に僕の心は沈んでいた。人混みに疲れたのもあるが、どうにもこうにも楽しもうとしていた気持ちが萎えて復活しそうにない。
氷水を買った後も、何とか楽しめるように努力はしたのだ。当たらない射的をしてみたり、果物を水あめでくるんだものを買って手がべとべとになったり、今はさすがにご飯のようなものも食べねばならぬかと探して炭火焼の焼きおにぎりを買って、参道脇の杉の木にもたれかかりながら一口かじったところだ。決してまずいわけではなかったが、以前三四が作ってくれた焼きおにぎりのほうが好きだったりと、なんだかうまくいかない。
貸本屋まではとても気持ちが高揚していたし、幸せだったのに。ため息が一つこぼれる。遠くに聞こえる祭囃子を聞きながら、焼きおにぎりをまた一口かじった。咀嚼をしながら、空を見上げる。秋の空は暗くなるのも早い。今何時かはわからないが、もうあと少しでとっぷりと暮れてしまうだろう。
もうすぐ、聡一たちは来る。もうとっくに家業を手伝う時間は終わっているし、きっと聡一の性格上、先輩の妹を迎えに行っているはずだ。祭囃子や終われば、もう祭りも終わりを迎える準備に入る。花火の最中に屋台の食べ物はすべて詰められ、花火が終わると帰りの客に声をかけて買ってもらうのだと、去年聡一が土産を広げながら言っていたのを思い出した。それを知っている聡一が、祭囃子が終わるタイミングで来るとは到底思えなかった。まったくもってお人好しのいい男である。
すっかり冷えてしまった残りの焼きおにぎりを半分に割って、一口分には少し大きいそれを悔しさを紛らわすようにほおばった。目頭が若干熱い。咀嚼もそこそこに飲み込んで、食道をゆっくり落ちていくおにぎりの存在を感じながら、また残りのおにぎりを口に放り込む。手についた焼きおにぎりのたれを首にかけていた手ぬぐいで拭いつつ、杉の木から背を勢いをつけて離した。花火を見るなら、もう少し見やすいところから見るだろう。待ち伏せて、先輩の妹とやらの顔を拝んでやろうじゃないか!
見晴台へは参道の脇道を行く。丸太で段をつけてある登り道をゆっくり進んでいくと、祭囃子はどんどん遠くなっていった。体力のない自分が頂上までくると息が軽く弾んでしまうが、健康体であれば汗一つかかずに到着するだろう。花火を見る定番の場所ではあるが、やはり早めについているためか人はまばらであった。人が増えてくれば聡一に見つからずにこっそり様子をうかがうことができるだろう。
陽が沈むにつれて心がどんどん落ち着かなくなってきて、見晴台の入口は見えるが自分はすぐに隠れられるような場所を探してうろついたり、見下ろす景色の中に聡一の姿を探してみたりと、せわしなく動いてしまう。入口から声が聞こえれば自然に人の陰に隠れて誰が来たかをこっそり見る。聡一でないことを確認してほっとする。そんなことを繰り返していると、あっという間に見晴台は人がいっぱいになってきてしまい、あまり身動きはできなくなってきてしまった。入口がぎりぎり見えるような場所で首を伸ばしてなんとか見張れるかどうかという状態で、首がつるのが先か、聡一たちが来るのが先かといったところだ。気を張り過ぎると余計に首の疲れを感じてくるため時々頭を回すが、そのたびに見上げる夜空はとにかく広く深かった。角部屋から見上げる夜空よりも、見晴台の視界が開けた空はとても新鮮で、こんな時でなければもっと眺めているだろう。だが、眺めていては聡一を見逃してしまうかもしれないと言い聞かせるようにして視線を入口に戻す。
周りの浮足立っている老若男女の声を聴くたびに、聡一も先輩の妹と楽しくこちらに向かっているのだろうと考えるととても惨めな気持ちになる。なにやってるんだろう。最初の意気込みすらも尻すぼみしてしまい、諦めて帰ろうかと思った時だった。見晴台の入口に、聡一の姿を見た。深い藍色のしじら織の縞模様。あの縞模様には銀糸がところどころに入っていて、雅な仕立てになっていることを僕は知っている。帯は利吉に借りたのだろうか、聡一のものではなさそうだが浴衣に負けずきれいな灰色の帯で、明らかに気合の入った身なりだった。その聡一の一歩後ろを、薄い桃色の地に葡萄色のよろけ縞と牡丹が描かれた浴衣の女性が手を引かれて歩いている。結い上げられた髪には白色のつまみ細工の簪を挿して、こちらも気合の入りようは言わずもがなである。先輩の妹は、きれいな人だった。誰もが絶賛するような美人かといわれるともちろんそうではないだろうが、こんな人から好意を寄せられたら男としては決して悪い気はしないような、そんな人だった。二人歩いている姿は、とても絵になっており、誰がどう見てもお似合いの二人だった。
全身の血が下がっていくのを感じる。先ほどまでは感じなかった空気の冷えが体に刺さった。僕は奥歯を噛み締めながら、聡一たちのあとをそっとつける。人がたくさんいる上、子供の自分には二人に見つからないように近づくのはとても簡単だった。聡一の視界に入らないように、二人の背後に回り込みながら、近づきすぎないように注意しつつ移動する。
聡一の表情を見て取ることはできないが、先輩の妹は終始微笑んで聡一を見ている。どんな会話をしているのかはわからないが、雰囲気が悪くなさそうなのが腹が立つ。
「ヒロコさん」
聡一が先輩の妹に声をかけるのだけがふと耳に入ってきた。先輩の妹はヒロコと言うのか。内容は周りの声が多すぎて聡一がそのあとに続けた言葉はわからないが、自分が立っている位置からかろうじてヒロコが話している単語が「大丈夫」「聡一さんは」だったので、聡一がヒロコを何か気遣った言葉を発したのだろうということはわかる。
しばしの沈黙。聡一は空を見上げ花火を待っているようだったが、ヒロコはずっと聡一を見ている。耳を澄まして聞いている僕は、喧騒の中でも遠くになっていた祭囃子が消えたのがわかった。もうすぐ花火があがる。僕はより集中して二人を注視した。
「聡一さん」
はっきりとヒロコが聡一を呼ぶ。来た。僕は緊張で自分の襟元を握った。冷えた指先が固くこわばる。聡一がヒロコのほうを見た。ヒロコの顔は真剣そのもので、二人の間にさっきまでの穏やかな雰囲気はもうない。ヒロコが濃い桃色の帯の前で巾着の紐をぎゅっと握りしめながら、大きく息を吸った。緊張で手が震えているのがよくわかる。聞こえた単語をつなぎ合わせて僕は補填した。
――今年の神輿行列で助けていただいたときから、お慕いしておりました。
耳を澄ませても、聡一の声は聞こえてこない。二人の間に再び沈黙が下りる。聡一はどんな表情をしているのか、何故返事をしないのか。僕がいるところからはどうしてもわからない。ヒロコの瞳がすがるように揺れている。
ヒューンと甲高い花火の笛の音が響く。人々が空を仰ぎ見る中、聡一もヒロコも、僕も空に咲く光に照らされた顔を見るばかり。何発かの低く響く花火の音で、聡一の声はまったく聞こえなかった。ただ、きっと聡一は何かを伝えたのだろう。ヒロコの唇がきゅっと結ばれた。ヒロコが少し視線を外してうつむいてしまったので、ヒロコの表情を読み取ることすらできなくなってしまった。聡一が頭を掻いた。僕は聡一が困っているのがよく分かった。何年も見てきた姿だから。聡一が空に視線を向ける。ヒロコも空を見上げるがその目は細く、決して花火を見ていないだろうと思った。何発か打ちあがる花火を見送った後、ヒロコはまたうつむいてしまった。聡一はヒロコのほうにまた視線をおろす。花火に全然集中できてなさそうだった。
突然ヒロコが聡一の胸の中へ飛び込むように身を預けた。聡一はヒロコを受け止めながら、両手の置き場所を迷うように手を空中で止め、そのままゆっくりと降ろした。
僕は花火の音よりも自分の胸が打つ自身の鼓動の音しかもう聞こえなかった。二人の熱にあてられたように顔が火照って苦しく、僕は後ずさりしてそっとその場を離れることしかできなかった。
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