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第10話 心だけはそばに
帰宅すると紀子にしこたま怒られた。もちろんこんな時間まで一人で外にいたことについてだが。心配の裏返しなのはわかるので、何も言わずにひたすら謝った。その様子を見ていた哲郎が、「坊ちゃんはしっかりしているから大丈夫だと思ってましたけどね」なんてちゃちゃを入れてきたのを、紀子の眼力が黙らせた。理一郎と征二が廊下の角からこちらを嗤いながら見ていたのは癪に障るが、それよりも僕の心は見晴台にあった。まだ花火の音が響いている。聡一とヒロコはまだあの場所にいるのだろう。
紀子は、ため息を一つついて、
「晩御飯は?入りますか?」
と、聞いてきた。氏神祭で買い食いをしておなかがいっぱいかどうかと聞きたいのだろう。時間的に今から自分の分の準備をさせるのは忍びないので断ろうとした瞬間に、腹の音が返事をしてしまった。本日二度目の腹の主張に、僕は羞恥心でうつむいた。今度は確実に聞かれてしまった。
紀子はあきれるように二度目のため息をついて、居間へ行くように促してきた。
「座って待ってなさい」
「はい」
くすくすと笑う二人の間を一瞥もせずに通り過ぎ、僕は居間へ入った。広い座敷机に、自分の分だけ箸置きが置かれていた。利吉が自身の席で夕刊を広げている。僕が入ってきて一瞬こちらを見たが、また利吉は夕刊に目を落とした。僕は自分の箸置きが置かれている場所に座った。
「ただいま帰りました。遅くなってしまってすみませんでした」
緊張で身を固めながら、利吉に声をかける。紀子の次は利吉から叱られるのかとげんなりしながら、僕は自分の箸置きをじっと見つめて叱責を待った。利吉が眼鏡をはずし、夕刊の上に置く。僕は箸置きからその眼鏡に視線を移して、待つ。だがしばらくしても、利吉は声を発しない。夕刊は見ていないはずなのに、いったいどうしたのかと僕はおずおずと利吉の顔を見る。とうの利吉は僕のほうをじっと見ていた。
こんなに利吉が自分のことを観察するように見たことなど過去にあっただろうか。少なくともここ最近の記憶にはない。利吉の表情からは相変わらず何も読み取れないが、僕はまっすぐこちらを見る利吉の目に居心地の悪さを覚えつつも、努めて目を反らさずに見返した。よくわからないが、利吉がそれを望んでいるように感じた。
「……祭りは」
利吉がやっと声を出した。少しのどに絡んだのか、うんと咳払いをして、また続ける。
「祭りは、楽しかったか」
「……いい経験をさせていただきました」
僕は正直散々だった祭りを思い出したが、返した答えに自分で驚きながらも的を得ているなと感じた。すべて初めての経験だったわけで、次は知っているから、きっと楽しむことができるだろう。できることなら、次こそは聡一と行きたい。聡一に前回はこんなことをしていたのだと話しながら。
「そうか」
利吉の目元が少し緩んだ。この人はこんな表情もできるのか、などと思ったが、それもつかの間、いつもの利吉の顔に戻ってしまった。利吉はまた眼鏡をかけて、
「母さんに心配だけはかけないように」
そういって、また夕刊を読み始めた。
「はい、そうします」
答えに反応は返って来なかった。
花火の音はもうしない。聡一の分の箸はおかれていないので、聡一は祭りで食べてくると答えたのだろうか。そうこうしていると、紀子が温かい蕎麦を運んできてくれた。出汁と刻まれた葱の香りが食欲をそそる。僕は手を合わせて、そばをすすった。冷えていたらしい体がポカポカと温まる。来年までに、少しは体力をつけよう。そうじゃないと、聡一とあの祭りを楽しむことは出来なさそうだ。
蕎麦を食べ終えると、利吉が夕刊をたたんで居間を出て行った。もしかして僕が蕎麦を食べ終わるまで待っていてくれたんだろうか。利吉も紀子も、もうちょっとわかりやすくなってくれてもいいと思うんだが。空になった器を持って台所へ行くと、ちょうど前掛けをとって畳んでいた三四がいた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした。お祭りはいかがでしたか?」
器を受け取りながら、三四が僕に聞いてくる。僕は利吉に対するのと同じ返答をしようと思ったが、どうしても先に聞きたいことが出てきてしまって、答えずに質問で返してしまった。
「……ねぇ三四。聡一兄さんが今日一緒にいた女の人って知ってる?」
「ご覧になったんです!?」
僕の質問を聞いて、三四はぱっと顔を輝かせながら僕に詰め寄ってきた。突然のことに、僕は気圧されながら三四の答えを待つ。三四は腰に両手を当てて胸を張りながら、
「絶対好い人だと思ったんですよねぇ! なのに聡一さんときたら、『そんなんじゃないですよ』なんて言って普段着のまま行こうとなさるから、慌てて奥様に声をかけて着替えさせたんですよ」
やはり余計なおせっかいを回した人がいたのかと安堵しつつも、僕はヒロコのことを考えた。好きな男が着飾って会いに来てくれたら、脈ありだと思うに決まっているだろうに。恋敵とは言え、少し同情してしまった。適当な相槌を打ちながら、三四が話すのをうながしす。三四は上機嫌で、
「先輩の妹さんらしいですけどね? 今年の神輿行列で助けた縁って言ってらしたから、たしか隣町にある料亭の娘さんですよ。器量もよくて女学校での成績も優秀っていうんだから、とてもいいご縁ですよ!」
と目を輝かせながら話してくれた。僕はヒロコを思い浮かべながら、なるほど料亭の娘かと思った。確かに品が良さそうであった。どんな話し方をしたかまではわからないが、所作に丁寧さがあったのは確かだ。ただ、やはり聡一の呼び出し方であったり、『甘き恋』に沿った状況にしようとしたりと、見えない強かさがあるのだから、騙されてはいけない。
「どんな人でした? 綺麗な方でした?」
詮索癖が出ている三四が距離を詰めてくる。全く困ったものだが、そんなところも三四の魅力の一つなのだろう。僕は腕組をしながら、どう答えようか考えた。
「そうだね。聡一兄さんの好みは知らないけど、きれいな人だったよ。」
泣かされてたけど、なんて言っちゃうと根掘り葉掘り聞かれそうなので飲み込んだ。三四は小さく黄色い歓声を上げながら、
「美男美女で絵になるでしょうねぇ」
なんて言い始めるものだから、僕の胸がちくりと痛む。その通り過ぎて苦しい。隣に立っていたのが僕だったとして、ただの兄弟にしか見えないのも重々承知している。
「……聡一兄さんは、いつ帰ってくるとか言ってた?」
「花火が終わったら送って帰ってくると言ってましたので……もう少しあとじゃないですかね?」
「わかった。ありがとう」
僕は台所の蛇口をひねって、手ぬぐいを濡らした。昼間に汗をかいた分、体を拭いておきたい。できうる限り固く絞って手についた雫を払い、部屋に戻った。
いつもの2階の角部屋に入ると、やっと帰ってきたという心地がした。一気に足の重さを感じる。疲れてそのまま横になりたい気持ちをこらえて、服を脱いで体を拭く。濡れた肌に秋の空気が少しひんやりとするが、汗がへばりついていたところが少し清められた気分になる。もちろん風呂にはかなわないが。そういえば銭湯にも行ったことがないなと思いながら、どういう作法があるのかも知らない自分が一人で行くのはやはり勇気が必要だ。かといって、聡一と風呂に行くのも少し恥ずかしい。
拭き終わった手ぬぐいを部屋の隅にある座卓に放り投げて、僕は寝間着に着替えた。少しすっきりした体で布団を敷いて寝転ぶが、眠りに落ちていかない。しばらく突っ伏していたが、僕はまた起き上がって、窓を開けた。ひんやりとした夜の風が動いている。いつもの空を見上げ、想像で花火を思い浮かべた。聡一たちばかり見ていたせいで、きちんとした想像ができない。
ヒロコと祭りに行った聡一は、楽しむことができたんだろうか。ヒロコと行った祭りが楽しかったら楽しかったで悔しいが、聡一が楽しくないよりはましだ。
「早く帰ってこないかな……あに様」
見えない花火の代わりに星を追いながら、僕は頬杖をついた。
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