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第11話 それぞれの今日の終わりに
体がすっかり冷えたころ、通りに聡一の姿が見えた。浴衣姿の背筋が伸びた姿は、遠くから見ても見惚れてしまう。上から聡一の姿を追っていると、聡一が母屋の勝手口に回ろうとしたところで目が合った。聡一がじっとこちらを見ているので手を振ると、普段は振り返してくれる聡一が周りに人がいないことを確認してから、こちらを意味ありげに指をさしてから母屋に入っていった。なんだろう。今から行くから大人しく待っておけと言いたげなあの顔は。紀子の次は聡一に叱られるのだろうか。聡一に叱られるのは正直やぶさかではない。
しばらく待っていると、聞き慣れた足音が近づいてくる。襖が開くと、まだ浴衣姿の聡一が入ってきた。
「夜は」
「窓を開けない。すみません」
聡一の一言に僕は自ら続けて謝り、窓を閉めた。内心にやついてしまうが、見透かされてしまったらより怒られてしまう。窓を閉めて振り返ると、聡一は疲れたと言わんばかりに畳に座り込んだ。
「お疲れ様。妹さんを送ってきたの?」
お茶でも出してあげられたらいいが、あいにくそんなものはここにはないので労ってあげることができない。あぐらをかいたうえに膝で頬杖をついて、聡一はじっとりとこちらを見てきた。
「永太、お前、見てただろう」
聡一が言う。自然と視線が泳いでしまうが、僕は平然を装って答えた。
「何が?」
「花火」
「綺麗だったね」
「そうだな」
「ヒロコさんもね」
「見てたんじゃないか!」
聡一が目を覆うように顔を隠し始めた。もう可愛さが溢れて自ら暴露してしまった。仕方がないだろう、この可愛さの前ではもう隠すことができなかった。
「お断りしたんだね」
「……あぁ」
言葉を続けようとしない聡一の近くに膝を寄せて、聡一の顔を覗き込もうとした。耳まで真っ赤になっている愛おしい聡一を見ていると、腹の中におさめておきたかった惨めな言葉が口をついて出てきてしまった。
「……僕がお願いしなかったら、断らなかった?」
聡一がぱっと顔を上げる。意外にも聡一は真顔であった。
「いや、それはない。というより、本当にそんなつもりもなかったし。お前に言われてても、正直半信半疑だった」
「全否定だったくせに」
「いや、うん、まぁ、全否定だった……かもしれないけど」
聡一は後ろ頭を掻きながら、言葉を選んでいる。別に信じないつもりはないけれど、やはりあの綺麗な、お似合いの女性を袖にする理由がどうしてもわからなかった。
「少しも、なびく気持ちがなかった?」
聡一は腕組をして首を傾げ始めてしまった。信じたい気持ちと信じられない気持ちが合わさって、聡一を困らせてしまっているのではないかと思うと、僕の気持ちがしょぼくれ始めてしまった。
「今、正直それどころじゃないっていうのが強い、かな。学校もそうだし、家の手伝いも覚えることが多くて」
「……そっか」
溜飲を下げるしかないのだろう。これ以上疑ってもいいことはきっとない。弟分としてかわいがってもらっていることに甘んじるしか、今はないのだろうか。
聡一がなんとも言えない表情でまた頬杖をついているので、その姿を黙って見ていた。聡一の中でまだ何かが整ってないようでしばらく黙っていたが、彼の中の言葉がまとまったのか、また口を開いた。
「泣かれるとは、思ってなかった」
その一言に僕は言葉を失った。この心優しい男は懺悔をしに来たのだ。もしかしたら叱責が欲しかったかもしれないし、慰めてほしかったのかもしれない。ただ僕がこの件について彼に何かを言える立場でもなく、黙って頷いてあげることしかできなかった。
「もっと丁寧に、返してあげれればよかったんだろうか」
「……関係ないと思うけど」
自分には女心なんてものはわからないが、聡一がそんなにひどい返事の仕方をしたとも思えない。自分の好意を袖にされてその場で泣き出してしまうというものが、逆に下心でもあったのではないかと勘ぐってしまう。断られて泣く理由は与り知らぬが、聡一はこうしてヒロコのことを考えている。彼の心に傷を作ることが目的だったと言うならば、成功したといっても過言ではない。
「しかしなぁ……」
男はすべからく、女の涙には弱いということなのだろう。聡一が姿勢を正して頬杖をやめたとき、手で隠れていたものを見て僕は自分の中の血が熱く燃え始めるのを感じた。
「あに様」
僕が自分の唇の横を指さすと、聡一が不思議そうに手で自身の顔に触れた。聡一がはっとした瞬間口元を覆うので、僕は全身の毛が逆立つのを感じた。唇からわずかにずれた赤い紅色。もしそれをつけた唇と頬につけようとしたのなら、きっともう少し上の部分についているはずだが、場所が場所なだけに、反射的に唇にされるのを避けた結果だろう。つまり、お互いの合意の上のそれではなかったということだ。
「……ゆ」
「ゆ?」
僕がもらした言葉に、聡一が続ける。
「許せぇぇぇぇぇん!おのれ許すまじヒロコぉぉぉぉぉ!!」
「え、永太!声抑え――」
思わず叫んだ言葉に聡一が慌てて僕の口を塞いだ。我に返ったときは、遠くから誰かが走ってくる音が聞こえた。聡一が僕の口を塞いだままなので、代わりに聡一の口元を手で塞ぎ返したときに、部屋の襖が素早く開いた。
「何事ですか」
寝間着姿の紀子が廊下から怒りを込めた冷ややかな声色を発した。互いに口を塞いでいる僕達は答えることができない。なんとも言えない沈黙が降りて、しびれを切らしたのは紀子だった。
「……時間を、考えて、戯れてくださいね?」
眼力の強さを受けて、二人で深々と頷いた。冷ややかな視線を残して、紀子は襖を閉めた。足音が遠ざかっていくのを聞いて、二人でため息をついて手を離した。
「……ごめん、あに様」
「いや、気をつけよう」
「はい」
聡一がごしごしと手で口元を拭っている。伸びて消える紅色を見ながら、僕はまたふつふつと湧く怒りを必死に抑えた。
「他の人には言うなよ」
「言わないよ。でも、許せない。勝手にそんなことするなんて」
怒る僕を笑いながら頭を撫でる聡一に、更に僕は拗ねた。なぜヒロコをかばうのだ。やっぱり悪い気はしないんじゃないか。
「いきなりだったから、きちんとかわせなかった俺が悪いから」
「何が悪いもんか。するほうが悪い」
「まぁまぁ」
消えたかな?と擦る手を何度も確認する聡一が僕をなだめようとする。それもなんだか気に入らない。むかっ腹が立つが本人が角を立てないようにしているんだから、その件については僕も何も言えなくなってしまう。
「先輩の力を借りて、付き合おうとかしてこない?」
僕が流石にこれぐらいは言っておかねばと思って伝えるが、聡一は笑いながら答える。
「そこについては心配ないよ。そこまでのことを強いてくる人じゃない。今回の件は、まぁ、ずっとお礼を断ってたっていうのもあったしな」
恋路についてはなかなか鈍い男だが、その先輩という人はきっと聡一も本当にお世話になっている人なのだろう。もしかしたらその先輩の姿を通して見たから、ヒロコのこともそんなに悪いように見ていないのかもしれない。そう考えると、理一郎や征二を通して僕を知る人は、僕もあの二人と同じよう見ているのだろうか。そうだったなら甚だ遺憾である。
「とまぁ、とりあえず報告な。氏神祭、一緒に回ってやれなくて悪かったな。どうだった?祭りは」
聡一がいつもの調子で朗らかに笑うので、僕の毒気も抜かれてしまった。
できるなら、そんな格好いい姿をしている聡一の隣を歩きたかった。僕はそんな雅な浴衣なんて持ってないけど、かといって征二の浴衣のお古とか着たくないけど、兄弟にしか見えないけど、聡一と一緒に今日祭りを回るのは僕であってほしかった。
「……今日ね」
僕は今日の情けなくなるような冒険譚を、ぽつりぽつりと聡一にこぼした。
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