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第58話 浮世渡らば ※
頭がじんと甘く痺れる。一滴も飲んでいない酒に酔ったような熱い吐息を奪い合うように、角度を変えながら足りない渇きを満たそうとして唇を重ねる。幾度も繰り返される口付けに息が上がり始めると、永太は俺の寝間着の衿元をずらして首筋から肩口にかけて唇をおろしていく。自分の口から吐息が漏れて、はっと気付く。
「永太、俺、他にもお前に話さにゃならんことが――」
「うん、聞いてるよ」
そう言いながら、永太はそっと俺を押して部屋の中央へと押しやる。敷いてあった布団で足がもつれて、俺が尻もちをついた。永太は俺に熱い視線を送りながら、肩に手を置いて、また口付けてくる。先ほどずらされた寝間着の隙間からそっと手が入ってきて、寝間着が肘まで下げられた。冷えた空気が肌に当たったせいか、永太の手によるものか、ぞくりと背中に走る感覚につい流されそうになる自分を引き留めた。
「いや、だから――」
俺が待ったをかけようとしているのに、永太は「続けて?」と言って話を促しながらも、自らの行為を止めることはない。話をしたくて、俺の体に唇を滑らせるように落とし続ける永太に手を伸ばすと、永太はその手を取って愛おしそうに掌にも唇を押し付ける。俺の人差し指の先を甘噛みしながらこちらを見下ろす永太が、あまりにも綺麗で目が眩む。
「話していいよ」
人差し指と中指を舐りながら、永太が更に促してくる。こんな状況で何を話せばいいというのか。俺を見ながらちゅっと音を立てて指を吸い上げ、俺の人差し指と中指を温かい口内へ吸い入れて、出したり入れたりを繰り返される。指先から感じる舌の滑らかさと官能的な行為に、喉が鳴った。期待で自身が勃ちあがるのを感じる。
指から口を離して、濡れた二本指を俺の口の中に押しこみながら、永太は意地悪そうに笑った。
「大丈夫、ちゃんと全部言ってもらうから。ヒロコさんとの情事も全て」
さすがにそれはひどいと俺が指を咥えながら笑うと、永太も破顔しながら自分が俺の口に突っ込んできた指を引き抜いて、また自分の口の中に収めてしまう。絡まった俺の唾液を全て舐めとって上書きされるのを見ながら、俺もふと気になったことを聞いた。
「んじゃ、俺も聞いていいのか? 林君とどこまでシたのか」
ぶふっと噴き出しながら俺の指を吐き出して、永太は顔を真っ赤にしながら口元を手で拭った。俺はジト目で永太を見ながら「へぇ?」と意地悪く聞くと、永太は可愛い顔で俺を睨んだ。
「ちょっと、下手な勘繰りはやめてよ」
「は? お前、去年の夏に俺になんて言ったか――」
「あーあーあー言いましたッ! 言いましたけどッ! 何もないですぅー! あに様とちがって!」
「なんっ!? 俺は結婚したんだから仕方ない部分もあるだろ! お前はたまに痕つけて帰ってきたりしてたくせに何もないとか言わせないぞ!」
二人で言い合った後、永太はむくれながら俺に軽く口付けたあとに、そっと左の首筋と鎖骨に唇を落とした。
「されたのはここまで」
「あいつ殴っていいかな」
「やめてよ。僕が強請ったのにそこでやめてくれたんだよ」
その一言で、俺は心にもやもやとしたものを抱えた。しかし、永太は少し悲しそうな顔をして言い訳を続けた。
「寝ぼけて、あに様に強請ったつもりだったんだ。……言ってなかったけど、あんまり、眠れてなかったときがあって……ごめんなさい」
素直に謝られた上、責任の一端が自分にあることを知らされると思ってなかった俺は、さすがに溜飲を下げるしかなかった。俺はしょげている永太にため息をついて言った。
「お前、もう俺以外の前で寝るの禁止」
「はい」
聞き分けのいい返事を聞いて、俺は永太の頭をなでた。永太はその手を取って頬ずりを始める。殴るべきは独占欲ばかり強くて永太を安心させてやれなかった過去の自分か、と思っていると、永太がまたむくれながらこちらを見てきた。
「……で?」
「ん?」
「あに様は?」
俺は閉口した。どうしても言わなければならないかと永太を見るが、その顔に確実に言わないと許してもらえないことを察して、俺は観念した。
「先に言っておくぞ。最後まではしてない」
「……は?」
永太は意味が分からないという顔をしながらこちらを見てくるが、俺は構わず永太自身を下履きの上から触る。永太の体がびくりと跳ねた。すでに少し勃ち始めていたそれを柔く擦りあげるだけで、はっきり形がわかるほど硬く主張を始める。永太の下履きを脱がせて直接触れると、永太は恥ずかしそうにしながらもこちらを見ていた。触ってほしそうに先端を濡らす永太を口に含んで上下に擦り上げると、永太から聞いたことのない喘ぎ声が聞こえて俺は少し悦に入った。
「……嫉妬で、狂いそう」
永太がこぼす言葉一つひとつが俺を喜ばせる。俺はニヤつきながら一度口を離して永太を見る。
「絶対イクなよ。大分長くされたから」
「……意味が、分からない。なん、で、あに様、最後まで、シなかっ、たの?」
あ、それを聞くか。俺は口を付けずに手はそのまま擦り上げながら、どう答えるべきかを考えた。永太にそれを証明する術がない。永太の前で勃たなかったことがないから。しかしあんまり黙すると、また永太が曲がった答えを出してしまいかねないので、俺はとりあえず素直に答えた。
「勃たなかった」
「……っ……一度、も?」
「一度も」
信じられないと顔に書いてある永太に、俺は苦笑しながらまた口を付けて舌でしごき始めた。射精を促すように吸い上げるたびに、永太は苦しそうに喘ぎながらも、疑問が解消されないのか困ったように眉根を寄せている。
「へ、た……だった、とか?」
「!? フッ!」
大変失礼な発言をする永太に、俺は咥えていたのに笑ってしまった。腹がよじれるほど笑ってしまい、さすがに口も手も離してしまった。
「だ、だって、そうじゃないと説明がつかないじゃないか!」
永太が言い訳をするが、俺はもう弘子には絶対聞かせられないなと思いながら爆笑し、口元を手の甲で拭いながら永太を見た。
「そう、だな。お前の方が上手いよ」
永太は腑に落ちていない様子だったが、俺から永太の唇に口付けてから左の首筋、鎖骨へ唇をおろしていくと、永太は小さくため息をついた。
「……騙されてあげる」
「本当なんだけどな」
また俺が永太のそれに口を付けようとしたら押し留められた。永太の顔が近付いてきて、また深く口付けられる。永太はそのまま俺のことを布団に押し倒した。舌が俺の口内に侵入し、執拗に舌を絡められる。互いの唾液が混ざり合って口の中に溜まっていき、永太の唇が離れたところでそれを飲み下す。媚薬でも飲まされたのかと錯覚を起こしそうな程、体が火照り始めている。こういうやり取りは嫌いじゃないが、肉体的にお預けが長くて俺は疼き始めていた。俺を見下ろす永太は、じっと顔を覗き込むだけでその先に進もうとしない。何を考えているのかわかりかねて、俺も永太の顔をそのまま見ていた。
「で?」
永太が意地悪そうな顔で聞いてくる。何を聞かれているのか分からなくて、俺は眉を顰めた。
「他に言いたいことは?」
永太の手が俺の頬に添えられる。昔よりも大きくすこし筋張った指の感触に、期待が膨らむ。話さなければいけないことは多々あるが、今はそれよりも体に溜まった甘い疼きをなんとかしてほしかった。
永太の指が唇をなぞり、点と点を結ぶように顎から喉仏と線を描く。
「言ってくれないと、わかんないよ? ちゃんと『聞く』から。『言って』よ」
永太の指がするすると胸の上をすべる。胸の頂の周りをなぞるでもなでるでもない、ぎりぎりの愛撫で刺激される。俺はやっと永太が何を言わんとしているかが分かった。曰く、「どうしてほしいか、きちんと言え」と。
俺が永太の意図を汲み取ったのが分かったのか、鈍い愛撫は続いていく。真綿で首を絞められるような感覚に、まるで俺は小さく悲鳴をあげるように懇願した。
「……頼む、永太」
永太は素知らぬ顔で首を傾げる。どこまで羞恥心を煽れば気が済むのか。
「さ……触って、くれ」
「何を?」
顔から火が出そうだ。しかし永太はどうやら簡単に介錯するつもりは無いらしい。羞恥心に悶えながら、俺は意を決して永太の手を取り、自分の股間に持っていく。永太の手に自身を握りこませてから、反対の手で永太の後頭部を押さえて永太の唇を奪う。
永太は嬉しそうに笑いながら俺の口付けを受け入れた。今度の回答は及第点だったのか、永太の手が俺を擦り上げてくる。腰から上がってくる快感に思わず吐息が漏れる。永太は唇を離して、
「相変わらず、ずるいなぁ」
嬉しそうに笑う。自分のずるさぐらい自覚はあるが、さすがに年上としての矜持ぐらい保っておきたい男心も分かってほしい。骨抜きになってて矜持も何もあったものではないのも分かっているが。
永太の刺激に耐え切れなくなってきた頃、永太が手を緩める。まさか焦らされると思っておらず、永太に非難の目を向けるが、永太はくすくすと笑いながら、「好い顔してる」と言って俺の唇をついばむ。そしてまた言うのだ。
「さ、『言って』? どうしたい?」
無言のぬるい懇願は聞かないという態度の永太に、俺はもう限界だった。
「えい、た……っ!」
「なぁに?」
妖艶に笑う永太に、俺は我ながらずるいと思う一言を言った。
「すき、だ」
永太の顔が幼い時によく見たようなあどけない表情になって、俺はにやりと笑った。永太は次の瞬間またむくれ始めた。
「ずるいってば!」
そう言って、永太は俺を口に含んで擦り始めた。自分でも笑い声なのか嬌声なのか分からない声を上げつつ、込み上げる幸福感を永太の口に吐き出した。
胸の内からあふれ出る多幸感に意識が遠のきそうだったが、まだ永太を求める欲深き獣が体に巣くっている。
「永太、挿れてくれるか」
素直に口から出てきたことに、正直自分でも驚いた。永太は口の中のものを飲み干してから、にっこりと笑う。小物入れから油の入った小瓶を取り出して、そそり立つ永太自身と俺の穴に塗りたくっていく。久しぶりの感覚に、体に心地よい緊張感が走る。永太の指が出たり入ったりするたび、体が喜んで反応する。
「は、やくっ」
「だめだよ、ちゃんと慣らさないと」
求めるものよりも遠い刺激に、体が焦れに焦れて腰が揺れる。体の芯が熱くて堅く、早く貫いてほしい気持ちが逸る。自分がこんな風になるなんて全く思っていなかったのに、そんな自分も嫌いじゃないのがなんともおかしい。
「頼むって、永太」
懇願すると、永太は困ったような顔をしながら、自身を俺の穴に当てがってゆっくり挿入してきた。
「あ、あ……あ……」
壊れたように、小さく漏れる声を噛み締めるでもなく、そのまま放出する。
「だい、じょうぶ?」
永太がこちらを気遣って声をかけてくるので、俺は無言で頷く。なのに、永太は先端までしか挿れてくれない。体が求めるまま、俺は永太を見るが、永太はこちらを見ながらまた微笑んだ。
「次は、だめ。もっと口汚くお願いされないと、あげない」
「ぅ、ぅ、なん、て……」
涙目になりながら、期待ばかりする体を持て余す。永太自身も興奮しているのか、息を荒げながら、こちらに熱い視線を送ってくる。
「じゃぁ、僕に続けて、言って」
永太の言葉に、小さく頷いて続きを促す。永太は満足そうに頷いた。
「『もっと』」
「もっと」
「『奥に』」
「お、くに」
「『頂戴』」
「ちょう、だ―――ぁあっ!」
言い終わる前に、永太が俺の中を穿つ。求めていた刺激が、獣が咆哮を上げるが如く体を駆け巡る。声を押さえるだけの理性のかけらも残っていない自分に、永太が自身の唇でそっと俺の口をふさいでくれた。頭に火花が散って何も考えられない。永太が俺の中に存在を主張するように動き、体の芯が解れていく。どろどろに溶けて混ざって、このまま永太と一つに成れればいいのに。
しだいに永太の存在感が、俺の中で大きくなっていく。あぁ、もうこの時間も、終わってしまう。俺は永太の背に回した手で寝間着を強く握りしめながら、名残惜しさを抱えつつ、それでも早く永太の熱が欲しくて、言葉を紡いだ。
「……なか、にっ、くれ……」
汗が噴き出している永太の顔が、喜びに満ちていた。永太が大きく腰を打ち付けて、俺の中に熱を吐きだした―――。
「……信じられない。離婚目的で結婚したってこと?」
体を綺麗に拭いて、さらには中の物も掻きだして、二人抱き合いながら布団に転がり事の顛末を話した。やはりといってはなんだが、永太の予想通りの素直な反応に俺は思わず苦笑いした。
「しかも理由が僕から兄さんを遠ざけるためって、本当に意味が分からない」
憤慨しながら俺に背を向ける永太が可愛くて、離れていく背を追いかけて後ろから抱きしめた。それ以上逃げようとしない7つ年下の恋人に、「ごめん」とまた謝った。永太はまたこちらに向き直り、俺の唇に軽い口付けをした。
「ってことは、やっぱりヒロコさんのかけおちって話は嘘だったんだね」
「あぁ『とある人のもとに身を寄せて』とか『心の支えとなっている人』とか書いてあった手紙のことか? あれ、弘子さんの同僚の親戚のこと。利吉さんより年上ぐらいの夫婦で、早くに子供は亡くなってて、部屋が空いているから間借りさせてもらってるんだよ」
俺の説明に永太は目を丸くしながらも、少々呆れ気味に笑った。
「物は言いようと言うけれど……それに兄さんがのっかって、あの謝罪ってことか」
「嘘は言ってないからな」
「……その神経の図太さ、どこで養ったの?」
永太の切り返しに、俺は思わず声をあげて笑った。そういう意味では、俺は弘子にいい影響を受けたのかもしれないと思ったが、また永太の嫉妬心に火がついても困るので、そこには触れないでおいた。
「ではその神経の図太い俺から、さらに厚顔無恥なことを言おうかな」
先ほど少し離れたせいで永太の体に布団がかかっていないところを直しながら、俺は言った。永太がきょとんとした顔をしながらこちらを見ている。
「どうぞ、元嫁と暮らしていた家で、一緒に住んでいただけないでしょうか? 愛しき人よ」
永太の目がまっすぐこちらを見据えている。その瞳の奥に、きらきらと瞬く幸せそうな光が見えた。永太は、ふはっと笑いながら息を吐いて、
「だから、僕への手紙に『いざとなったら俺が何とかするから、就職活動はほどほどに』って書いてあったのか。僕、針の筵だったんだからね! 生徒会長まさかの卒業後無職って!」
と言った。俺はかわいそうなことをしたなと思いながらも、釣られて笑った。永太の目尻にうれし涙が滲んでいて、俺はそれをそっと指で掬った。
「……明日の朝、皆に言うね」
「俺も一緒に頭下げるわ」
「こっち帰ってきてから下げっぱなしだね」
「下げて通る話なら、何度でも下げるさ」
やっとつかんだ幸福を逃がさないように、俺たちはぎゅっと抱き合いながら眠った。
あれから月日は流れて、夏。緑に囲まれた郊外の古い一軒家に、僕たちは住んでいた。もう気の早い蝉が鳴き始めるぐらい暑い日が続いていて、僕は実家から持ってきていた風鈴を窓辺に下げようとしていた。
僕は、高校卒業と同時にこの家にやってきて、春から聡一と同じ職場で働いていた。なんだかよくわからないが、客からの受けがいいとかで事務兼作業員という形で雇われており、鉄工所と事務方の仕事両方をこなす毎日だ。給金は聡一より安いが、有難いのは聡一よりも少し早く帰れるので、夕飯の準備に早めに取り掛かれるところだろうか。
なんとか風鈴をつけ終わって振り返ると、聡一が立っていた。手には一枚のはがきが握られており、苦い顔をしながら文面を読んでいる。
「林君宛てか」
「あ、勝手に読まないでよ」
僕が書いたはがきを聡一がこちらに突き付けて、面白くないとでも言わんばかりに聡一が言う。
「なんだよ。『盆には帰る予定なので、また一緒に銭湯に行ってラムネでも飲もう』って。浮気か」
「親友と銭湯に行くのを浮気にしないでよ。気になるなら兄さんも一緒に来れば? そういえば林、兄さんの体どんなのか気になってたよ。中二のときの話だけど」
僕がはがきを取り返しながらそう言うと、聡一は自分の体をひねりながら見て、ぽつりと「鍛え直すか」と言った。この兄、ついてくる気満々である。卒業時に、林にはきちんと聡一と恋仲に成れたことを報告し、複雑そうな顔をされながらも祝福してもらえている。それは聡一も知っているはずなのだが、やはり気になるものは気になるらしい。
別段出ていない腹を触りながら難しい顔する聡一の頬に、僕は軽く唇をつけて、「そのままで充分かっこいいよ」と言うと、まんざらでもない顔をしながらも、聡一は「男心は複雑なの」と宣う。そんな聡一がおかしくて僕は笑い声をあげた。
あの二階の角部屋から始まった恋は、紆余曲折ありながらも、今は幸せに満ちた古い一軒家で愛を育んでいる。
笑い声に満ちた僕たちを祝福するように、一条の夏風が風鈴を鳴らした。
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