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第57話 一番大事なこと

花村家と小坂家に激震が走ったのは、卒業式を目前に控えた二月の終わりだった。突然ヒロコの両親が花村家に乗り込んできたのだ。その日は高校入試のためたまたま学校が休みの日で、貸本屋に出かけようとしていた僕とヒロコの両親が玄関で鉢合わせた。花村屋ではなく母屋に声をかけたのは、外聞を気にしてのことだろう。前触れがあれば座敷に火鉢を入れておいたが、突然だったため僕はやむを得ず温かい居間にお通しした。そのまま花村屋の裏手に回ってそっと紀子に耳打ちし、台所へ取って帰った。湯を沸かし、お茶を淹れる準備をしていると、利吉へ声をかけ終わった紀子が台所へやってきた。 「ありがとう。あとはやります」 そういった紀子の顔は緊張で固まっていた。いきなり息子の義両親がやってきたら、それはそうなるだろう。 「茶菓子はどうします? 表通りの店で買いますか?」 僕が聞くと、紀子は頷いた。紀子としてはあちらのご両親が好きなものを用意したかっただろうが、致し方ない。僕はそのまま財布を持って五軒隣の和菓子屋に入った。最低4つあればいいが、せっかく来たので自分の分もと数があるものを選ぶ。僕は梅の形を模した練り切りを5つ買い、すぐに戻った。 紀子はちゃっかり自分の分を買ったことについても何も言わず、そのまま僕の分は台所に残して居間に入って行った。僕は残ったお湯と出がらしで茶を淹れて、湯呑を持って暖を取りながら、廊下で居間の様子を伺う。そういえば練り切りを持ってくればよかったと思ったが、話を聞き漏らしたくなくて諦めた。 僕が居間を覗いたときには、茶を出し終えた紀子がヒロコの両親から手紙を広げて読んでいたところだった。 「……『このたび、夫・聡一さんと離縁することを決めました』……?」 紀子が手紙の一文を読み上げ、口を押えた。その後はただ黙って目が右へ左へと動いて手紙を読み進めていく。義両親が暗い面持ちで炬燵から出ると、一歩下がって手を着いて頭を下げ始めた。 「このたびは、弘子がとんだことをしでかしてしまい、誠に―――」 「どうか顔をあげてください。きっと聡一にも何か問題が―――」 僕は何が起こっているのか分からず、口を押えた。聡一が離婚? 何故? 察するにヒロコが何かしでかしたということしか分からない。 居間が大変な騒ぎになって収拾がつかなくなっているときに、玄関の戸がガラリと開く音がした。こんな時に誰だろうと思って玄関まで早足で向かうと、そこには小坂が立っていた。 「え、小坂先生?」 「永太か。うちの両親は――」 そう小坂がこちらを見て話し始めているのに、玄関の戸が勝手に閉まった。小坂の後ろに誰かいる。僕は鼓動が期待で早くなるのが分かった。小坂の後ろの人物は小坂の背後から顔を覗かせた。 渦中の人物である、聡一がそこに立っていた。 僕は居間に二人を案内した後、二人分のお茶を新たに淹れて、自分の分に買っておいた練り切りを、小坂先生用に準備した。聡一の分は無いが、おそらく今から問い詰められるだろう聡一は菓子など食べられないだろう。盆に載せて居間に入ると、聡一と小坂がちょうど読み終わったヒロコの手紙を座敷机の上に置いたところだった。僕は二人にお茶を出した後、そのまま居間の隅に座った。しかし、聡一はそのお茶に手を付けることなく、座布団から降りて頭を下げた。 「すべては私の不徳の致すところでございます。大変申し訳ございませんでした」 「弘子は? 何故一緒じゃないの?」 ヒロコの母の声が震えている。自分のわが子がこの場にいない上に、何故か様子を見に行った兄が一緒になって帰ってきたのだから、それはよくわからないだろう。 聡一は義両親に向き直ると、何故か小坂も聡一の隣に座った。 「彼女に寂しい思いをさせたままにしたことにつきましては、私に責があるのは重々承知の上でございますが、責を共に負う覚悟として、彼女はご実家には戻らず、自立の道を選びました。自らも覚悟を持って人生を歩もうとする決意故と存じます。どうか、彼女の意思を尊重していただけましたら幸いです」 聡一の陳謝に続いて、今度は小坂が手を着いた。 「本来であれば弘子自身がこちらに参上し、皆さまに謝罪申し上げるべきところを、私の力及ばず、同行させることができませんでした。大変申し訳ありません。弘子の今後に何か問題が起こった際には、私が責任をもって対処し、花村家にご迷惑をおかけしないよう尽力いたします。誠に勝手なお願いではございますが、平にご容赦いただきますようお願い申し上げます」 二人の男の謝罪と懇願は両家の親同士の頭の下げ合いに発展し、最終的に利吉がヒロコを案じる一言をこぼしたことで、花村家としては小坂家を糾弾する意思がないことを見せ、聡一は直接謝罪したことにより小坂家はそれを受け入れて話し合いは終わった。 ヒロコが結婚した理由を知っている分、僕にはヒロコが他の男に走ったというのは全く腑に落ちなかった。  夕餉の時は紀子からさらに聡一への非難は続いたが、聡一はただ謝るだけで何も語らずに終わった。 僕は風呂から出た後、部屋に戻る際に覗いた居間には誰もおらず、さすがに今日は酒は飲まないらしい。離婚の報告にきた長男の前で飲めないか、と思って階段を登った。部屋が見えてくると、自室の襖から明かりが漏れている。明かりは消して出てきたはずなので、僕は中にいる人物のことを考えて襖を開くのを躊躇した。僕を待っている。あの祝言の日に、僕に嫉妬の痕を残して何も語らずに去って行った張本人が。  襖の前に立って、僕はしばし考える。自室だが声をかけるべきだろうか。いや、そんなことより何を話せば――。 そんなことを考えていたら目の前の襖がすっと開き、手を引かれて部屋の中に誘われた。腕の中で固まる僕を尻目に、腕を引いた張本人の聡一は襖を閉めた。 見上げた聡一は、少し寂しそうな目をしながら僕を見ている。風呂上がりとはいえ冬の空気は寒く、聡一の腕の中は温かい。 「……背、伸びたな」 聡一の言葉に、僕はそっと頷いた。聡一の背にはまだ少し及ばないが、確かにこうやって見ると自分の成長具合を実感する。聡一は頭を振った。 「いや、そんな話をしたくて来たんじゃない。色々、俺が意気地なしだったせいで言えなかったことを、伝えに来たんだ。何から話そうとか、考えて……。でもお前の顔を見たら全部飛んでしまった」 僕を抱きしめる腕に力がこもる。聞こえる鼓動の音が、僕のものなのか聡一の物なのかもわからないぐらいうるさく、耳にかかる聡一の声が熱い。 僕は聡一の両肩の寝間着をぎゅっと掴んだ。 「だめ、言って。もう僕は待つつもりはないよ。一番大事なことを、ちゃんと貴方の口から聞きたいんだ」 僕の言葉に聡一が大きく息を吸った。聡一の腕と胸に挟まれ、僕の息も苦しかった。 「……永太」 「目を見て、お願い」 緊張からか、聡一の息はだんだん浅くなっていた。背中に回っていた手は僕の肩を掴み、少し聡一との距離が開く。聡一の綺麗な瞳が僕を捉えた。耳まで真っ赤な聡一の顔を見て、僕は答えを促すように微笑んだ。 「永太、もう遅いかもしれないけど――――愛してる」 聡一の口から紡がれた言葉は、僕の心にじんわりと沁みこんで、胸に確かな火を灯した。 「遅すぎだから」 僕はそう言いながら、聡一の唇に噛みついた。僕の口元が聡一の熱を奪うたび、やっと僕は生きている実感を得た。

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