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第56話 未来のための毒

 後輩たちが一人もいない生徒会室には、石炭ストーブが熱を吐きだす低い音が響いていた。ストーブの上に置かれたやかんは注ぎ口から白い湯気を上げて空気を潤わせていたが、僕は林との間の緊張感を解すには至らなかった。林と僕は机を挟んで、二人で向かい合って座っていた。まるで林の部屋の定位置のように、当たり前に。  林は僕の顔をじっと凝視していた。僕はそれを静かに受け入れて、林と視線を合わせていた。 「……最近は、眠れてるみたいだな」 沈黙を破ったのは林だった。いつだって僕が話しやすいように、こうやって場の空気を整えようとしてくれる。そうやって僕は林に甘え続けた結果が今に繋がっている。 僕は静かに頷いて、また林を見つめる。林は少し寂しそうな顔をしてため息をついて、おどけて見せてくる。 「お役御免って、とこ?」 肩をすくめて首を傾げて見せる林に、僕は苦笑した。最後の最後までこいつは僕を甘やかそうとしてくる。 「そうやってしれっと毒を吐くところ、好きだよ」 正直に思ったことを話そうと決めていた。誠実であろうとした不誠実に決着をつけなければならない。そうしないと、僕も林も先に進むことができない。 目を丸くする林に、僕は続けた。 「君が中二の時に言い出したあの賭けに……林の好意に、僕は何度も救われた。甘えさせてくれてありがとう。好きになってくれてありがとう。大好きだよ、今でも」 僕の一つひとつの言葉に、林の顔がくしゃくしゃになっていく。 「友達として、だろ。ひっでぇや」 「……林の戦略は成功していた。陥落寸前だったよ」 林の涙を見たのは、いつぶりだろうか。僕は林の前であんなに泣いていたというのに。僕の弱さを林は全部包んでくれた。ここまでこれたのはどう考えても林のおかげだった。 報われなくてもいいと、仮初の恋人であろうとしてくれた歪な大親友を、僕は何度刺せば気が済むのだろうか。 「作戦も、何も、あったもんじゃない。花村が、勝手に弱ってくれたから、効いただけ、だろ」 林はしゃくりあげながらも、僕から視線を外さない。何度も手の甲で目を擦ってはこちらを見てくる。僕を決してなじってこない林に、頷いて返すことしかできない。 「聡一さん、嫌いだ。花村を壊すのも治すのも、いつだって聡一さんだ。苦しめるだけ苦しめる癖に、幸せにしようとしない」 「そうだね本当に。まるで、僕みたいだ」 林は首を振って否定してきたが、僕はその否定を否定した。同じことだ。僕は林を壊して利用だけして、幸せにしようとしていない。 「林、ごめんね。僕は聡一兄さんを追うよ、ずっと。だから、君のもとには行けない」 嗚咽を抑えようとしている林に、僕は何もできなかった。 もう肩を組み合って隣にいることはできないだろう。本当は、最初からそうすべきだったのに、ここまで林を巻き込んで引きずってきてしまった。被害者である林に、加害者である僕ができることなんてあるんだろうか。 「嫌だ、そんなこと、言うなよ」 林が初めて拒否をした。いつも僕の言うことは全て受け入れていた男の反抗に、僕は少し面食らった。林が涙をぬぐって無理やり笑顔を作って言ってくる。 「花村、僕は君とずっと仲良くしていきたい。僕のわがままを聞いてくれると嬉しい」 林の言葉で、僕の脳裏に懐かしい木漏れ日が揺れる。それは中学二年の梅雨の晴れ間、僕の罪の始まりの日をなぞった台詞だ。僕は両目を手で覆ったが、林は尚も続ける。 「花村が僕を呼ぶたびに、僕の耳には甘く響くよ。でも、応えなくていいよ。君が幸せでないのに、どう諦めろって言うのさ。諦めさせたいなら、先に幸せになれよ。なってくれよ花村永太。そうしてようやく僕らは、正しく親友でいられる。そうだろ?」 賭けのやり直しの提案。どこまでも僕にしか有利に働かない、甘美な毒。僕が幸せになったら、林は親友になると言ってくれている。僕が求めていた未来を、林が提示してくれた。どこまでも僕に甘くて優しいこの男の毒を、飲んでもいいものだろうか。 「簡単に、僕の友達を辞められると、思うなよ? 永太」 僕は顔を上げた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔の林が笑っている。僕はポケットから手拭いを取り出して林に渡す。 「わかったよ……俊雄」 僕はその毒を飲み干した。甘くてすこし苦いそれが、いつか正しく友情に昇華されることを願って。  約束の期限まであと四か月ほど残っているというのに、弘子は早々に次の住居を決めた。女性一人で住むのは危険だし、加えて仲介業者からも敬遠されやすく、最終的に弘子の同僚の親戚で、子供が早々に他界し老夫婦が住んでいる家を間借りさせてもらう形で落ち着いた。流石に離婚予定の俺だけが新しい住所を知っているというのも無責任な話になるので、小坂先輩に頼んで一度こちらに来てもらった。小坂先輩からは再三頭を下げられてしまい、俺もその度に頭を下げ返した。それを見た弘子が「二人して何やってらっしゃるの?」などというものだから、小坂先輩から「お前が言うな!」と叱られていた。 「義弟……ともう呼べなくなるのか。永太、元気になったぞ。よくわからんけど、仲直りでもしたのか?」 小坂先輩は首を傾げながらも、気にしていたのか永太の近況を教えてくれた。俺は笑いながら、 「永太からも、元気であると連絡がきました。あと、先輩を使うなと叱られました。ありがとうございます」 と伝えた。小坂先輩は「後輩思いのいい先輩だろ?」と笑っていた。全くもってその通りで、きっと俺は一生この人に頭が上がらないんだろうなと思った。 「で? お前はいつ想い人に気持ちを伝えるんだ?」 噴飯ものの話の切り出し方に、俺は思わず弘子の方を見た。俺は小坂先輩に「契約結婚すること」は伝えたけど、「想い人がいる」ことは言っていない。弘子は視線を逸らして素知らぬ顔で小坂先輩の後ろに隠れた。 にやにやとしながらこちらを見下ろす先輩に、俺は誤魔化したくて笑いかけた。 「せ、先輩もお好きですね、恋愛話」 「さすがに弘子を振ったんだから、それぐらいするのがけじめだろう」 「そうですわよ! 早く簪をお渡しなさいませ!」 小坂先輩の背の後ろから、弘子も囃し立てるが、俺は「ん?」と首を傾げた。俺の反応が意外だったのか、二人とも俺と同じように首を傾げる。 「俺、簪を『渡せなかった』って言いましたっけ?」 俺の言葉に小坂先輩が弘子を見る。弘子は考えた後に、反対の方に首を傾げた。 「……言ってはいませんでしたが、でも普通、そう思いますでしょう? 違うんですの?」 当然といえば当然の問いに、藪蛇だったかと思いつつも、まぁいいかと思って答えた。 「あれは……もらったもの、なんですよ」 「うん? 想い人から? 簪を?」 男の俺が? という言葉が後に続きそうな勢いで弘子がさらに首を傾げるが、小坂先輩だけがふと思い出したように呟いた。 「あぁ、だからアイツ『違う』って言ってたのか」 「どういうことです?」 簪の存在を知っているのは、ここにいる人を除いて永太しかいない。小坂先輩はしれっと言ってのけた。 「ん? 永太にその簪を弘子が勝手に触って怒られたとき、『想い人にあげる予定だった簪を勝手に触ったから』って言ったら、『それは違う』って言われたんだよな」 俺は胃がヒヤリと冷えた。まさか永太にその話題が振られることがあると思っていなかった。俺は恐る恐る小坂先輩に尋ねた。 「え、っと。そのあとはなんて?」 「ん? そのあと?」 「そのあと、なんか……言いました?」 「言った、とは?」 察しがいい小坂先輩があとを続けないことに俺は内心ほっと胸をなでおろした。 「いや、別にそのあとなんの会話もなかったならいいんです」 「あぁ、『好いた方のものですか?』って弘子が聞いて、お前が『そうですよ』って答えたっていう話ならした」 俺は頭を抱えてうずくまった。

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