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第55話 好きになってよかった ※微
「――――弘子さん、もう止めましょう」
なんとかしようと動かしていた手に、聡一は手を添えて言ってきた。添えられてきた手を振り払い、私は聡一の顔をキッと睨みつける。
隙間風が甲高い笛のような音を立てて廊下を吹き抜けていく。私は布団を被りながら、寝間着をはだけさせた聡一の前に跪いていた。様々なことを試した。それでも自分の中を穿つほどの硬度にならないそれを、今日こそは何とかしたかったのに。
私は聡一から手を離して、悔しさのあまり布団のシーツを握り込んだ。聡一は何も言わずに私の寝間着を整えたあと、自分の寝間着を直し始める。
「……なん、で……なんでよ!」
私は自分にかかっていた掛布団を聡一に投げつけたが、聡一は受け止めようともせず、ただ黙してこちらを見ていた。
「不能なんて聞いてないわよ!」
半年間、供に過ごしたこの男は自分に全く落ちてくれない。最悪、子さえ生せれば一生この男を縛って置けると思ったのに、それすらもできないなんて。
聡一は足元に落ちた布団を横に置いて、眉根を寄せてこちらを見てくる。
「……なんとか言いなさいよ」
私は怒りに任せて、取り繕いもせずに言い放った。聡一は目を伏せてからもう一度こちらを見てやっと口を開いた。
「弘子さん、残念ですが、俺は不能ではありませんよ」
聡一が乾いた笑みを浮かべている。何が面白いと言うのだ。現に全く反応もしなかったくせに、この男は何を言っているのだ。
聡一は自嘲するように答えた。
「相性……と濁すのはあまりにも酷ですね。――正直にお話します。俺、好きな人にしか勃たないんですよ」
聡一の一言を咀嚼して、飲み込むまでに時間がかかった。いや、そんなことはありえるものなのだろうか。いざというときに意気込みすぎて勃つものも勃たないなんていう話は聞いたことがあるが、さすがにそこまでは聞いたことが無い。それだけ精神的なつながりが深いものなのかもしれないが、外的な刺激すらも受け付けないというのはいったいどういうことだ。もし本当にそうなのであれば、この男、あまりにも拗らせ過ぎではないだろうか。
弁解するように、聡一はさらに続けた。
「あー……自分ではできますよ? 好きな人を思い浮かべてするだけなんで。……でも、そこまでしてあなたを抱かなければいけませんか? そもそも、そんなことされて嬉しいですか?」
この半年間の努力を無に帰された瞬間だった。「なんで今更」と唖然とする私に、聡一は言い訳のように続ける。
「最初から言ったところで、納得はしなかったでしょう?」
「……検証は、したんですの?」
努めて冷静に質問をするが、聡一は困ったような笑みを浮かべた。
「どうすれば納得していただけるんでしょう? 不貞行為をするつもりはありませんよ」
「では、ご自身でなさってみてください」
「……やって、見せろと?」
聡一は不快そうな顔をしてこちらを見てくる。私だって別段見たいわけではない。ただ、私が見なければ結局検証にも何にもならない。私が頷くと、聡一は深いため息をついて立ち上がった。棚から一番古そうな手拭いを持ってきて、諦めたように私の前に腰を下ろした。
「正直、見てて気持ちのいいものではないですからね。わかってます?」
「ごちゃごちゃ言わなくていいから、どうぞ」
私の言葉に、聡一はじっとりとした目でこちらを見た。素知らぬ顔でどうぞどうぞと掌を見せて促す。苦い顔をしながら聡一は下履きを脱いで自身を握り込んだ。目を瞑って上下に擦り始める。速さも私が擦った時と同じぐらいのもので、別段変わったことはないはずだ。それでも聡一の下半身はみるみる硬さを帯びているのがわかる。先端が充血しはじめ、聡一の呼吸が荒くなる。最後が近付くにつれて、左手が手拭いの準備を始めた。
「っ……っ……! くっ!」
小さく呻き声を上げた最後は、とても呆気なかった。露出した聡一の先端は手拭いがかけられ、擦る手が徐々に緩やかになる。大きく何度も息を吐いて、聡一が手拭いを取ると、まるで漁港にいるときのようなにおいが漂った。
聡一が息を整えながら気まずそうにこちらを見ている。私は何も言わず、聡一を見返した。がたがたと風が窓を揺らし、廊下をまた風が走って行った音がして、先に視線を切ったのは聡一の方だった。
「納得は、されていないようですね」
聡一が下履きを直しながらそう言った。何か言い返したいのに、言葉がまとまらない。何が違うのだろう。自分が聡一に与えた刺激ではだめだったのだろうか。強すぎたか? いや、逆に弱すぎたのか?
納得と言うよりは、認めたくないという気持ちの方が強い。認めてしまったら、半年間この男をなんとかしようとした自分があまりにもみじめじゃないか。
それを知ってか知らずか、聡一は尚も続ける。
「弘子さん。俺が貴女を好きになることはありませんよ」
ぴしゃりと言い放たれ、私はびくりと体を震わせた。聡一は先ほど横に置いた布団を拾い上げ、私にまたそっと被せてきた。そして、また口を開く。
「……さすがに、こう何度も婚姻当初に話していた意図と違う行動があれば、少しは考えますよ。何故俺に執着するのかはわからなくて、事情があるのかもしれないと様子を見ていました。その結果、こうやってお伝えするのが今日になってしまったのは、俺の落ち度ですね。すみません」
聡一の言葉に、私は今「諦めろ」と言われているとやっと理解した。この鈍感な男にすら悟られてしまう程、私は余裕なく縋っていたのかと思うと情けなくなる。
「就職活動が上手くいかないせいなのかとも思いましたが……どうやら俺の勘が当たっていたようですね」
全て見透かされている。就職先については、昨日やっとタイピストとしての仕事が見つかったところだった。週明けからの仕事開始となっており、まだ聡一には話していなかった。余計に情に訴え安いと思っていたのに。
「こうなった以上、もう閨を共にしようとするのはやめてください。いいですよね?」
一方的にそう言われたが、私は頷くしか無かった。完璧な失恋だった。この男を狂わせた女と比べて、私は何が足りなかったんだろうか。こんなに惨めな気持ちになるなら、欲をかかず、素直に聡一に説明した通り行動しておけば良かった。馬鹿ね弘子。大馬鹿者だわ。これじゃ、また兄に呆れられてしまう。
「……慈悲もないなんて、ほんと、つれない人ね」
ただの負け惜しみだったが、聡一は両手を広げて苦笑した。
「ご覧いただきました通り、慈悲を施せないものでして」
「そうでしたわね」
二人で顔を見合わせて、噴き出した。友人としてなら、きっといい関係を築けただろうに。あぁ、本当に勿体ないことをしてしまった。
私は聡一の隣に敷いてある布団に横になりながら、ふと芽生えた悪戯心のまま口を開く。
「なら、できる慈悲ならいいのかしら」
聡一が自分の布団を整える手を止め、首を傾げながらこちらを見てくるので、私はそのままにっこりと微笑んで伝えた。
「キスしてくださいませんこと?」
「キッ!?」
初めて聡一が動揺した姿を見た気がした。いや、初めてではない。私があの氏神祭の日の晩に唇を奪おうとして失敗した時も、同じような顔をしていた。
「少しぐらい、私のために傷ついてくださいませ。旦那様」
そう言うと、露骨に嫌な顔をした聡一に私は声を上げて笑った。
「冗談――」
「ではないですよ? 綺麗な思い出にしたいのです」
間髪入れずに口をはさむ私に、聡一は後頭部をがりがりと掻いた。そりゃ嫌だろう。好いた人がいるにも関わらず、契約結婚した相手に自ら口付けるなど。
聡一は悩みながらも、こちらに耳を傾けてくれる。
「それは、貴女にとっても傷にはなりえませんか?」
最後の最後までこの男は本当に甘い男だ。好きになってよかった。この男に好かれる人はが心底羨ましい。
「どうでしょうね。……ならば、それでもし傷がついたのなら、その傷から、一皮剥けてご覧に入れましょう」
私がにっこりと微笑むと、聡一は観念したようにこちらに近付いてきた。私は聡一を迎え入れようと両手を広げたが、最後の最後まで、聡一は悩んでいたようだ。
「……これっきりで、お願いしますよ」
「ええ」
私が燃やした恋心は、相手にも自分にもしばらく消えない傷をつけて、終わった。
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