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第54話 語られなかった愛情
生徒会室は、高校の三階にあった。最上階の窓辺から見る景色はどこまでも遠くを見られたが、最近はどんよりとしている空が視界を陰らせ、世界を鮮やかには見せなかった。
高校三年の冬、年も越して卒業も目前となり、生徒会の仕事も現在の二年生に引継ぎがほぼ終わった。花村屋も師走から年明けは忙しくしており、誰も僕に構える人は居なかったが、卒業を前にして就職先が決まらない僕には無言の圧力以外の何物でもなかった。
聡一たちは、年の暮れに帰省しなかった。汽車が雪の影響で止まってしまい、帰省できそうにないという連絡が入った。正直、弘子と聡一がそろって帰省する姿を見なくて済んだのは僕にとってはこの上なく好都合だった。
生徒会室の石炭ストーブはほぼ放課後しか使われないこともあり、今日はついておらず皆外套を羽織ったまま仕事をしていたが、さすがに今日はもう雪も降りそうなので解散することにした。林がストーブの周りに燃えやすいものが無いか点検し、最後に僕が生徒会室の鍵をかけた。
去年の夏に過呼吸になった僕を見て、林の過保護具合に磨きがかかった。高校三年時は同じ学級だったのもあり、厠に行くにも一緒についてきた。さすがに息が詰まると文句を言ったが、「きちんと眠れるようになってから言え」と一蹴された。
二階にある職員室に生徒会室の鍵を返しに行った帰りに、小坂と鉢合わせた。就職活動もあるため、三年は秋に皆退部するので、小坂と会うのは非常に久しぶりだった。
「お、義弟」
小坂に初めてそう呼ばれて、僕は苦笑した。聡一が結婚したことで、僕には義理の兄が増えたのだった。すっかり失念していた。
「お義兄さん、とお呼びした方がいいですか? 先生」
「いや、なんかそれはそれで聡一に恨まれそうだからやめてくれ」
突然出た聡一の名前に、過剰に反応してしまった自覚はあったが遅かった。はっとして林の顔を見ると、林もこちらを見ていた。林の目の奥に深い無力感が見え、特にこの半年間を支えようとしてくれた歪な親友の心を深く抉ってしまったのがわかった。どうにも囚われ続けている自分に、好意を返してあげられない狡い自分に自己嫌悪が止まらない。これでは、まるで聡一が自分にしたことと同じではないか。
「義弟、ちょっとだけ内密に話したいんだが、時間もらえるか?」
僕は小坂と林の顔を交互に見た後に、静かに頷いた。林は小さく「正面玄関で待ってる」と言って走って行ってしまった。それを見送ってから、僕は小坂に向き直る。
「ここは落ち着かんな。少し歩きながら話すか」
そう言って当てもなく二人で歩き始めた。冬の校内はそれこそ人は少ないがいないわけでもなく、生徒と教師――しかも柔道部の顧問だけの臨時講師が立ち止まって話すには確かに少々目立つだろう。
「最近、また保健室通いが増えたみたいだな」
「もともと肺が弱いので、風邪を引きやすいんですよ」
言われると思っていた話題に触れられて、用意していた答えを口から出す。すると小坂は納得していないように「ほぉ」と呟く。
「秋の用水路に落っこちても風邪ひかなかったやつがなぁ。昔の方が自己管理が行き届いていたみたいだな」
聡一は小坂にそんなことまで話していたのかと思うと、聡一が小坂に寄せる信頼は大きいのだなと実感する。そして、そんな昔の話を今更聡一がするわけもないので、それを覚えている小坂の記憶力に僕は苦笑いした。覚えている理由が聡一に関わっていることだからというものならば、僕は少し小坂を憎く感じてしまうかもしれない。
「お恥ずかしい限りです」
思わず気持ちの籠ってない返答をしてしまう自分の大人げなさを痛感する。小坂はやれやれといった風に首を傾げた。
「花村家ってのは、そう背伸びしないとやっていけない環境なのか? ……まぁ、いい。今日話したかったのは、お前の近況について聡一が知りたがってるってことだ」
「……は?」
意味が分からなくて、取り繕うこともせずに聞き返してしまった。だが、小坂は気にも留めていないようで話を続ける。
「お前が手紙に一切自分のことを書かないから、『無理してないか』『大丈夫なのか』って俺のところに手紙が来ている」
話の内容があんまり過ぎて、僕は額に手を当てた。何をやっているんだあの人は。仮にも嫁の兄に自分の義弟のことを聞くか? 生まれて初めて聡一という人物像が分からなくなった。
「た、大変ご迷惑をおかけしております」
「いや、最初に俺がお前のことを漏らしたのが発端だ。だがさすがにお前の話を聞かずに伝えるのも違うと思ってな。……お前ら、仲がいい兄弟だっただろ? 何があった? そんなに長引くような喧嘩でもしたのか?」
言われて僕は、この状況をどう切り抜けるかを考え始めた。馬鹿正直に「僕が聡一に懸想して、聡一もまんざらじゃなさそうなのにはぐらかすばかりで、僕の気持ちに応えてくれないばかりか、貴方の妹と結婚してしまって、諦めさせてほしいのに何故か僕に執着してくるんです。意味わからないですよね」なんて言えるわけがない。簡潔に頭の中でまとめても、本当に――――
「くだらないこと、ですよ」
そう自嘲した。小坂は「言いたくないなら聞かない」と引き下がってくれたが、
「お前からちゃんと腹割って話すか、俺から伝えるか、どっちがいい?」
「……自分で伝えます」
小坂は僕からその一言を引き出したかったようだ。なんだかんだ言って愛情深い人なのだろう。
遠回りをしながら二人で下駄箱まで来たところで、小坂が「そういえば」と話を切り出した。
「聡一の好きな相手って、お前も知ってる人か?」
言われて心臓が跳ねた。どういうことだ。小坂はどこまで知っている。そしてヒロコと結婚した聡一が妻以外の人を好きであるということを容認しているような言い草に、僕は頭が混乱した。
小坂は「やっぱりな」と笑った。それを見て、今自分が試されたのだということが分かった。
「お前、聡一に心に決めた人がいること知ってたんだな。だから弘子と結婚した聡一が許せなかった。違うか?」
微妙にずれた推理に、僕は閉口して頷いた。そのまま勘違いさせておくのが一番楽だ。話を合わせておこう。僕はそのまま聞き返した。
「何で知ってるんです? 聡一兄さんに好きな人がいるって」
「……弘子がな」
言うのを迷いつつ、小坂は口を開いた。
「なんか、ちょっと聡一の逆鱗に触れたらしい」
「逆鱗? 兄さんの?」
あの人に逆鱗なんてあったのか。僕は頭をひねるがどうにも想像がつかない。
「隠してあった簪を見つけて勝手に触ったらしい。表面上は冷静だったのに、あれはかなり怒っていたと。絶対想い人にあげる予定だった簪だったんだろうってさ。それをあげずに持って拗らせてるのが意味が分からないと愚痴っていた。わざわざ店に公衆電話から電話してきたんだぞ」
その一言を聞いて僕の胸が苦しくなった。勝手に灯り始める胸の火に、違う違うと鎮火にかかる。あれは実父の形見なのだ。僕が送ったからという理由じゃない。勘違いをして傷つくのはもうごめんだ。
「違うんじゃないですか? それに関しては」
「いや、確かな情報だよ」
勘違いを、してはいけない。
「弘子が聞いたらしいからな。『好いた方のものですか?』ってよ」
「……なんて、答えたんでしょう」
聞きたいけど、聞きたくない。胸の鼓動が早くなって、期待するなと理性が働きかける。
「――『そうですよ』って、悪びれもなく答えられたってさ」
小坂の言葉に、僕は胸に燃える灯が業火となって身を焼きつくそうとするのを、必死に収めた。
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