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第53話 契約の温度差

聡一様  お手紙ありがとうございます。暑い日が続きますが、お元気ですか。 新しいお住まいでの暮らしは、不都合などありませんか。奥様との日々にも、ようやく落ち着いてこられた頃でしょうか。  こちらは相変わらずの毎日です。父も義母も、兄たちも元気です。どうぞご心配なく。聡一兄さんこそ、無理はされておりませんか。  結婚の前後で何度も無理をして休みを取って帰ってこられたとのこと、どうか無理はなさらないでください。遠くで頑張っている聡一兄さんの姿を思うだけで、僕は充分です。  年の暮れには、奥様とともにまたお会いできることを楽しみにしております。 永太  永太からの返信は、昨年の春にもらったものよりも簡潔にまとまっており、おそらく俺が送った手紙を受け取ってすぐに筆を執ったのだろうと思う早さで届いた。俺は永太に元気か聞いたのに、永太は自身のことを一言も書いていなかった。無理をするなと書けば、こっちのことを気遣われて終わる。加えて俺が秋口に一度帰ろうと思っていることを書いたら、やんわり年越しまで帰ってくるなときた。 俺は読んだ手紙を抱きしめながら、居間の畳に倒れこんだ。この家に越してきてからまだひと月。まだ見慣れぬ天井を見ながら、しっかりと永太に引かれた線に自分の業を思い知りため息をついた。 俺は自分の給金でなんとか生活を維持できる一軒家を借りた。少しでも周りに人がいないところに住みたかったので、郊外の住処を探したところ、たまたま小ぢんまりとした一軒家があったのだ。建物は古いが二階もあり、荷物が増えたとしても問題ない。女性は何かと物入りだろうという配慮もあったが、可能であれば寝室も分けたかったからだ。 「何をされてらっしゃるの?」 弘子が俺の顔を覗き込んでくる。俺は手紙の余韻に浸っていたのを邪魔されて、眉をひそめた。体を起こして、弘子を見る。 「手紙を読んでいただけですよ」 「あぁ、永太さんから届いた手紙ですね。なんて書いてあったんです?」 弘子が微笑みながらこちらの肩に手を添えて手紙を覗き込もうとしてくる。俺は手紙を畳んでちゃぶ台の上に置いてから弘子の手をやんわりとどかすと、弘子は少しむくれた。 「つれない人!」 「そういう間柄ではないでしょう」 俺は冷めた目で弘子を見るが、弘子は肩を竦めたあとに体を寄せてくる。 「結婚した間柄でしょう?」 「契約的な、ね。まさか、約束を反故にするつもりはありませんよね?」 「……まさか。女に二言はありませんわ」 そう言いつつも、俺の腕にしがみついてくる。柔らかい体の感触が腕に伝わるが、それでも俺にはなんの感情もわかなかった。  見合いの席で交わした約束、それは一年間の契約結婚だった。もちろん今のご時世で離婚などという話はほぼ聞かない。例えば相手の不貞行為があったとしても、世間体を重んじる世の中では両家の話し合いの上そのまま夫婦を続けている家族はごまんといる。それぐらい離婚というのはしないのが普通といえる世の中だ。 一年で、弘子は一人で生活するための基盤を整える。そして俺にとっては「一年で離婚するような男」という傷がついて、次の見合いなどは来ないだろうということ。結婚する気もない、恋を成就しようとも思っていなかった俺にとっては全く問題のない話だったのだ。 ――「聡一さんが誰を想っていても私は介入いたしません。私を隠れ蓑になさいませ。もちろん、私としては心移りしていただいて、結婚生活を続けていただいてもよろしくってよ? 私は私の邪魔をしない方と縁をつなげれればそれでよいのです」 そういった弘子の言葉に、心が揺れた。永太を想うことが許され、永太の将来の邪魔にもならず身を引ける。一番いい形だと思ったあの時の自分を殴りたい。  式を挙げてから約1か月。弘子は何かにつけて自分と関係を持ちたがる。「結婚しているのにも関わらず、生娘のまま放り出す気ですの?」ときたものだ。頭が痛くなる上に煩わしいことこの上ない。しかし、勃たないものは仕方ないだろう。 「仕事は見つかりましたか?」 俺はにこやかに返すと、弘子は明らかに白けた顔をして離れて行った。  挙式の後、お座敷に敷かれた二組の布団は間を開けることなくぴったりとついており、私の心は躍った。おろしたての肌触りの良い寝間着を着て、布団の上に正座をして夫となった聡一を待っていたのに、聡一は私を抱こうともしなかった。 「俺たちの関係に、そんなものは必要ないでしょう。明日の汽車も早いんですから、早く床に就くべきです」 そう言って薄手の肌掛けをかぶって寝てしまった。そう宣ったくせに、夜も更けた頃にふらりとどこかに行ってしまった。厠の割には帰りが遅く、私は不貞腐れて眠った。  聡一との出会いはもう何年も前に遡る。夏空に響く神輿を担ぐ男衆の声の中に、聡一はいた。一目惚れだった。どこの誰かもわからない一人だったのに、あまりの暑さに目の前が暗くなって地面に伏せた私に誰よりも早く駆け寄って木陰に運んでくれた。私を運ぶ腕の力強さ、見上げた時の真剣な優しい眼差し。私の心を攫って行った癖に、なかなか会おうともしてくれない硬派な姿にも、好感を覚えていた。当時にはあまりなかった女性から積極的に働きかける内容の恋愛小説を読んで、この方法で落ちない男はいないだろうと思った。そのあとは兄に頼み込んで何とか約束を取り付け、想いを伝えたのに、この男は受け取ってくれなかった。玉砕したあと、少しでもこの男の心に何かを刻みたくて唇を奪おうとしたのに、それも叶わなかった。  月日は流れ、男性から恋文をもらうこともあったが、どうしても聡一と比べてしまう。秘密のお付き合いをしてみても、体の芯がじんと痺れるような甘さも感じない人とどうして添い遂げようと思えようか。そんな中で女性週刊誌の小さな記事に心を打たれた。働く女性の輝く姿を見て、これだと思った。仕事に生きればいいのだ。男に頼らずとも良い、自分が目指す姿がそこにあった。しかし、家からの反対は強く、舞い込んでくる見合いは家に入る良妻賢母としての自分を求めるものばかり。せめて外で働かせてほしいと言っても、生活を支える男としての矜持が許さないという頭の固い男ばかりだった。そんな男と結婚するのであれば、私は私が好きな人と一緒にいたかった。  そんな中、風の噂で聡一が花村家を出たことを知った。奇跡だと思った。私が求めたものを全て兼ね備えていた。手を伸ばさずにはいられなかった。何としても、自分のものにしたかった。どんな言い訳をしても構わない。とにかく結婚まで漕ぎつければ、あとはどうにでもなると思っていた。それだけ自分に自信があったのだ。――あの箱の中身を見るまでは。  それを見つけたのは、秋になり郊外にあるこの家の周りに生えている木々も色付き始めた頃のこと。三番目の兄から届いた文を開けるのに封筒切りを借りようと聡一の小物入れの引き出しを開けると、手紙の束の下に薄い木箱を見つけた。それは菓子でも入っていたのだろうかと思うような木材でできており、興味本位で紐を解いて木箱を開けた。手ぬぐいの上に、到底木箱には似合わぬ綺麗な簪がある。思わず手に取り、翳して見た。雅な紅珊瑚がつるりと光り目を惹く、見事なものだった。 何故こんなところにこんなものが? まさか聡一が私のために用意してくれたのだろうか。 胸が擽られ、髪に刺してみようかと思った時に、聡一が部屋に入ってきた。もともと聡一の部屋であるのだからもちろん声などかかるわけもなく襖が開いて、その音で私が振り返ると、鋭い目つきの聡一が立っていた。 「勝手に触れないでください」 丁寧な口調の裏に込められた怒りの色に、思わず身が固まった。聡一はゆっくり近づいてきて私の手からそっと簪を抜き取ると、宝物を扱うようにそっと木箱の中に収めて蓋を閉めた。寂しそうに紐を巻いて封をする姿に、私の想像が膨らんでいく。 これが、聡一の愛しきものか。嫉妬に狂う熱が心の中で燃え盛った。

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