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第52話 執着燃えて身を滅ぼす

 初夏の割には強い日差しを浴びながら、僕はとぼとぼと歩いていた。胸を押さえ、さっきの出来事を思い出す。強く吸われた箇所が少し痛む。今日、林と銭湯に行く予定だったのに、さすがにこれでは行けそうにない。独占欲を満たすために利用されて、気持ちがどんどん虚ろになっていく。 聡一はそんなことしない、そうじゃないと思いたい気持ちがまだ残っているのが我ながら未練がましい。嗤えてくる。  さて、林にはなんて言い訳しようか。銭湯に行けないと言うべきか、行きたくないと言うべきか。いっそ聡一とずっと体だけの関係を続けていたことを明かしてみようか。襲ったのも誘ったのも突っ込んだのも自分なのだから、軽蔑されて終わるだけか。結果的におめおめとヒロコに搔っ攫われているのだから、笑ってくれるだろうか、などと考えて自暴自棄になってる自覚がある分、幾分かマシだと思いたい。  そんなことを考えて歩いていると林の家はすぐに到着してしまうわけで、結局言い訳は思い浮かばないままだ。ドアの前まで行こうとすると、ちょうど中から林の母が出てきた。いつもの割烹着姿ではなく、僕は少し驚いた。 「あら! 早いわね。もうお祝いは終わったの?」 「こんにちは。いえ、まだなんですけど来ちゃいました。退屈ですし。あ、これ引き出物です」 口から滑るように言い訳が出てきて、我ながらここ数年で社会を学んだように感じる。林の母に引き出物の餅を渡して、にっこりと笑った。林の母は「あらあら気を遣わせて」と言って受け取り、中へ招き入れてくれた。 「お構いもできなくて申し訳ないんだけど、お店の方でちょっと問題が起きたみたいで……すぐに出なくちゃいけないの」 「え、大丈夫なんですか?」 問題があるから泊まるのは無理だと言われたらどうしようかと考えを巡らせるが、林の母は困ったような表情を浮かべながらも笑顔で「大丈夫」と答える。 「帰りはちょっと遅くなると思うんだけど、お祝い膳を食べてきてたらおなか一杯よね?おにぎりだけ握ってあるから、おなかがすいたら食べてね」 そう言って林の母は餅を台所へ持っていくと、すぐに玄関に戻ってきた。 「じゃぁ、鍵は持っていくから閉めておいてね。いってきます」 と言って急ぎ足で走って行ってしまう。「いってらっしゃい」と見送って、僕は内側から鍵をかけた。  一瞬、これは別の意味でまずいのでは? と考えたが、いや、別にどうでもいいかと頭を振った。玄関で草履を脱ぎ、林の部屋に向かう。ドアは開いていたがノックをしてから入った。 「いらっしゃい」 林がそう言って両手を広げてこちらに向かってくるので「いい、いらないいらない」と言って拒否をした。林は唇を尖らせると広げた手でわざとらしく肩を竦めてみせた。 「せっかく慰めてやろうと思ったのに」 「はは、そうだね」 そう言って僕はいつもの定位置に座る。林が少し戸惑ったようにこちらの様子を見てきたが、すぐ林の定位置に座った。 「……やっぱり落ち込んでるじゃないか」 林がこちらの顔を覗き込んでくる。僕は力なく笑って、座卓に突っ伏した。 「なんか、疲れたな」 「だから僕にしとけばって言ってるのに」 「そうだね」 反射的にそう返した。あ、この返し方はだめだった。そう思った後に、なんで? と自暴自棄な自分が思考に割り込んでくる。顔を上げて否定するべきか逡巡していると、林が心配そうにこちらを見ていた。 その顔を見ると、僕の中のどろどろとした感情が口をついて出てきてしまう。 「諦めないといけない。でも、諦められないし、諦めさせてもらうこともできなかった。苦しい。林、苦しいんだ。毎日苦しい。幸せを願ってあげられない、苦しい。選んでもらえない、苦しい」 言い終わったあとからどんどん息が上がってきて、呼吸が激しくなる。呼吸を抑えることができなくなり、指先がちりちりと震え始めた。自分でもおかしい事がわかるのに、体が空気を求めるように大きく吸おうとする。 「……花村? 花村!?」 林が僕の頭を自分の肩に押し付け、抱きしめ始めた。僕は自分の体がどうにも制御できなくて林に縋り付く。 怖い、怖い。何が起こっているのか分からない。助けて、誰か―― 一番最初に思い浮かべる人物が、もう自分のものにはならないという事実に、涙も出始める。 「花村、落ち着け。大丈夫。ゆっくりだ。ゆっくりでいい。空気は逃げない。僕もいる。大丈夫だ。よし、よし」 林が僕の背をゆっくりなでる。そのなでる間隔に合わせて、呼吸を繰り返す。最初はできなくても、徐々にできるようになってきた。しだいに呼吸が落ち着いてくると、体の緊張が解けて一気に脱力した。 「無理に話そうとしなくていい」 林が僕の体を支えながら、ゆっくり畳の上に寝かせた。枕を持ってきて、体を横向きに転がされる。しばらくすると体も楽になってきて、指先の震えがなくなった。 「……林」 「ん?」 一緒に横になって、自分は肘枕をしながら僕の背中をさする林に僕は声をかけた。 「わがままついでに、このまま眠ってもいい?」 「――やっぱり寝てなかったのか。いいよ、このまま寝とけ。寝るまでこうしておいてやるから」 背をさする林の手は優しく、僕は久しぶりに感じる誰かの体温に少しうつらうつらとし始めて、そのまま意識を手放した。 「まっさか、弘子がそんな馬鹿なことを提案したとはな……」 小坂先輩が呆れて物も言えないと額に手を置いた。  皆が寝静まった頃、俺は寝間着で縁側から外に出て敷地の外で待っていた小坂先輩と合流し、「待ちくたびれたぞ」と言う小坂先輩に平謝りしたあとに事の顛末を伝えた。小坂先輩の反応は至極当然で、俺はそれを聞きながら何も言わずにただ地面を見つめていた。 「そして、お前がそれを承諾する程の阿呆だとも思っていなかった」 「全く持ってその通りすぎて、反論の余地もありません」 淀みなく答えると、小坂先輩はさらに深いため息をついた。 永太の現状を知らず、また自分も永太を求めていたと認めた今となっては、何を愚かなことをしたんだと思っている。ただ、あの見合いの席では、確かに自分だけが我慢すればすべて丸く収まる良い案だと思ったのだ。全て今更遅いと言わざるを得ないが。 「小坂家の皆々様にも、申し訳が立ちません」 「絶対言うなよ、誰にも」 「言えませんよ。こんな馬鹿みたいなこと」 自嘲気味に笑って、俺は自分の手首を強く握った。流石に言えない。こんな大それたことを計画しているなんて。 小坂先輩は俺の方に向き直る。 「……この賭け、お前勝てるのか?」 俺はうーんと唸りながら、笑って見せた。 「弘子さんの兄である先輩に言うのもなんなんですけど、勝ちますよ、俺」 「……勝算は?」 「9割9分9厘」 先輩は目を丸くした。いや、そうなるよなと俺は思ったが、先輩は「何を根拠に……」とぽつりと呟く。俺は乾いた笑みを浮かべながら、口を開いた。 「先輩、誰にも言ったことのない秘密、特別に教えますよ」 「…………なんだよ、なんか怖いな」 小坂先輩がたじろぐ姿を初めて見た。俺は「何の自慢にもならないですよ?」と前置きしてから答える。 「俺、据え膳食えないんですよ」 「………………は?」

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