51 / 58

第51話 別離の祝

 その年、聡一はやれ見合い後の交流だ、やれ顔合わせだと何度も帰ってきたが、僕と一緒にいる時間はほぼなかった。あの見合いの前日のやり取り以降聡一とのやり取りはぎこちなく、視線が合えば僕は微笑むだけだった。褥を共にすることもなくなり、これが正しい事なのだと言い聞かせて、僕は毎日ちょっとだけ泣いて眠った。聡一の匂いが消えていってしまうのが、毎日恋しさを募らせた。  氏神祭も終わって杉林の木々も葉をすっかり落とした頃、聡一とヒロコの結納が行われた。ヒロコの実家が料亭ということもあり、会場はもちろん「季ノ路」だった。本来であれば直系親族である兄弟も参加をと言われたが、ヒロコの兄弟が料理を作るというので、満足に顔を出せないのであればとこちらも兄弟の参加を辞退した。僕としては聡一とヒロコの結納なんて見たくもなかったので、願ったりかなったりだった。  話はそのままとんとん拍子で進んでいき、僕が高校三年の初夏、氏神神社で式が執り行われた。社殿から降りてくる聡一とヒロコの姿は美男美女とお似合いで、参列者全員がため息をついた。僕は、聡一の顔に「いい夫」の仮面がはまっていないことが不思議でならなかった。何も嬉しそうでもない、感情の伴っていない真顔。 聡一の幸せを願っているのに、この瞬間だけは、聡一が笑っていなくてほっとした自分が情けなかった。 そのあとは、氏神神社に近い花村家で婚礼の宴が開かれた。近所の人も次々に来られ一時人がごった返し、様々な料理が振る舞われた。笑顔を張り付けるのが疲れたころ、僕はそっと会場を抜け出して、自分の部屋に引っ込んだ。詰襟を脱いで、汗を拭いた。下に着ていたのが薄手の物だったとしても、やはり季節がら蒸す。汗を吸っただろう詰襟を振って鴨居にかけ、さっさと一人だけ単衣に着替えた。 僕は階段から聞きなれた足音が聞こえてきて身構えた。 「永太」 聡一の声が聞こえる。自分の部屋で襖越しに聡一の声を久々に聴いて、心が震えた。落ち着かせようと軽く息を吸った。 「……はい」 僕が答えると、紋付姿の聡一が襖の向こうから現れる。なるべく近くで見ないようにしていた聡一の姿は、やはり惚れ惚れするほど綺麗だった。しかし当の本人は僕の姿を見て驚いている。 「お前……その恰好」 「……林の家に、行くので」 「は!?」 聡一が驚愕の声を上げる。僕は聡一の顔が見られなかった。聡一が襖を閉めて部屋の中に入ってきて、僕の肩を掴んで続ける。 「どうして」 それはまるで裏切られたとでもいうような声で、僕は何故責められなければならないのか分からなかった。震えそうな声を振り絞って、平静を装って答える。 「だって……今日は、初夜でしょう」 肩を掴む聡一の手がびくりと跳ねた。 心が疲弊してどんどん醜く黒くなっていく。祝いの席で見せたくなかった。こんなにどろどろな感情に支配された僕を見せたくなかったのに。 「僕に、そんなところにいろって言うの? たまんないよ、そんなの」 涙と嗚咽を必死にこらえながらそう伝えると、聡一は肩を掴む手に力を込めた。こんなに力を入れられたのは久しぶりだった。いつも痕になることを聡一は気にしていたから。 「林君の家に、泊まるってことか?」 怒気を孕んだ声に、僕は苛立った。何故怒られねばならないのか。怒りたいのはこちらの方だ。無様に泣き叫びながら思いの丈をぶつけてやりたいのはこちらの方だ。 僕は鼻で笑って聡一を見た。 「僕が林に抱かれるかもしれないって? 不満? なんで? 自分はヒロコさんを抱くんでしょ? 別にいいでしょどうでも、僕のことなんか放っておい―――っ!」 足元に衝撃が加わって僕は体勢を崩した。足を払われたと言うのはすぐにわかった。二人して畳の上に転がって、聡一が僕の衿を強引に開いた。さっきまで暑かったために肌着を着ておらず、胸が露わになる。 「!? 止め――っ!」 胸の中央やや左側に聡一が口をつけて強く吸い上げる。痛みに声を上げそうになるのを我慢した。聡一の唇が離れて、全身の緊張が解けた。胸を見ると、くっきりとうっ血した痕がついていた。 聡一は何も言わずに立ちあがり、自身の両目を隠すように手で顔を覆った。僕はゆっくり上体を起こして、衿を掛け合わせた。 聡一が結婚を望んでいないことはわかっていた。でも、今までの聡一なら、それでも清濁併せ飲んでヒロコに尽くすと思っていた。それがどうだ。明らかな執着の痕をつけ、自分の感情を抑えられなくて立ち尽くしている目の前の男が、林に嫉妬している。 「ずるいって」 「わかってる」 「あに様」 「ごめん」 謝る聡一に僕の怒りは頂点に達した。明確な言葉もくれず黙りこくったままの聡一を尻目に僕は手早く衿を直し、用意していた鞄をひっつかんで走って部屋を出た。 「永太! 行くな!」 聡一の声を背中で受けながら、それでも僕は止まらなかった。走るのは苦手だったけど、前よりも足も速くなったし長く走れるようになった。祝いの席でほろ酔いの聡一が追いかけてきたところで絶対に捕まらない。全力で走った。玄関まで来て、後ろを振り返っても聡一は追ってきてはいなかった。行くなというなら追いかけてきてほしかった。でもそれをしないところがずるいと言うのだ。 涙を必死にこらえながら草履を出す。こうやって試さないといられない自分の弱いところに反吐が出そうだ。草履に足を入れたところで、自分の視界に影が差す。ふと顔を上げると、見慣れた人物が僕を見下ろしていた。 「小坂先生」 「永太、どっか行くのか」 小坂は自分を下の名前で呼ぶ。花村と呼ぶと聡一とどっちを呼んだのか分からなくなるとか言っていた。僕と聡一が二人一緒に小坂にあったことなどないというのに。 「……はい、林の家に」 「林……あぁ生徒会の? 祝いの席なのに?」 小坂が当然そう思うだろう質問を投げかけてくる。僕は荷物を持ち直しながらどう答えるのが角が立たないか考えたが、何も良い案が出てこなかった。 「えぇ、まぁ、はい」 曖昧な答えを返していると、後ろから廊下を走ってくる音が聞こえてきた。息を弾ませながら聡一が来た。僕は聡一の顔を見ることができず、俯いた。 「先輩?」 「聡一? お前主役がなんでこんなとこ……」 小坂が聡一と僕を交互に見て少し考えてから、僕の背を押して玄関の外の方へ送ってくれた。 「ちょ、先ぱ――」 「永太、行け。俺はコイツとちょっと話があるから」 僕は小坂を見上げると、小坂は歯を見せて笑ってくれた。僕は少しほっとして「いってきます」と言って玄関から出た。 「永太! 待て!」 聡一の声が聞こえたが、僕は何も言わずに玄関を閉めた。 追おうとした俺の胸を小坂先輩の逞しい手が押し返した。 「聡一、今時間あるのか? 永太について、少し聞いておきたいことがある」 小坂先輩の口から永太の名前が出て、心がざわつく。いつの間に自分はこんなに余裕がなくなったんだろうか。他人が永太の名前が出るだけでこんなに嫌な気持ちになると思っていなかった。 「……なんです?」 冷静を装うのが少し遅れて、自分でもわかるぐらい不機嫌な聞き方になってしまった。小坂先輩はそんな俺に少し驚いたようだったが、そのまま構わず話始めた。 「あいつ、最近ちゃんと眠れてるか? 去年の夏休み明けから、授業中に保健室に行く回数が極端に増えてるぞ」 耳を疑うようなことを言われて、俺は小坂先輩の目を見た。小坂先輩の顔は真剣そのもので、俺に鋭い視線を向けていた。 「なのに授業にはきちんとついていけてるし、成績も落ちてない。寝てないとしか思えん。保健室に行った日は俺の独断で部活動の参加はさせてないが、そういった日は生徒会の方に参加して学校生活の帳尻を合わせようとしている。学校側は成績優秀な分何も言わん――あいつは自分に何を課している? お前みたいな長男の重圧もない高校生が、何故あんなに生き急いでいる?」 去年の夏休み明けと言われたら、もう理由は一つしかない。俺の見合いがあった後だ。そして、それを悟られないように行動している。もともと無理をして維持していただろうものを、無理を重ねて維持しているのだろう。 何も言わない俺に小坂先輩は続ける。 「お前はあいつの目標だろ? 何か知らんのか?」 自分の高校時代を思い出して、自分なんかより優秀な永太が俺を目標にしているなどということは俄かに信じがたく、俺は眉を顰めて先輩に聞いた。 「目標……永太がそう、言ったんですか?」 すると先輩はがくりと肩を落とした。 「そ・こ・か・ら・かぁ~~~! お前ら兄弟仲いいくせに、なんっでそういうところ鈍感なんだ」 深いため息をわざとらしくついたあと、小坂先輩は腕組をしてこちらを見る。 「あいつが柔道部入った理由は?」 「先輩が声かけたんですよね?」 そこは知ってるんだなという顔で小坂先輩は頷いた。 「あぁ、お前にやった自転車乗ってるやつ見つけて声かけた。聡一の弟かって聞いたら生徒会活動で見せる対外的な顔なんかじゃない人懐っこい顔しながら根掘り葉掘りお前のこと聞かれたよ。お前がどんな高校生活送ってたのか知りたくて入学したんだとよ! で、お前が個人的に柔道してたことも伝えたら、やりたいって言いだしてさ。さすがに教師の立場で個人指導なんてできんと言ったら次の日には入部届持ってきやがった。兼部なんて前例なくて、なんでそんな無茶をするか聞いたら、『兄さんの見てきた世界を全部知りたい』って笑いながら言ってたわ」 小坂先輩はすらすらと淀みなく言葉を紡ぐ。それが言葉の説得力をもたらしていた。 「んじゃ生徒会は辞めたらどうだって言ったら、『交友関係減らすわけにいかないから』ってよ。今じゃ学校で永太を知らない奴はいないんじゃないかってぐらい毎日人に囲まれて過ごしてるぞ。……弘子が告白したことも知ってたから、お前らそういうところきちんと共有してるもんだと思ってたわ」 俺は顔に手を当てて、しゃがみこんだ。永太は、愚直に俺が言ったことを守ろうとしている。永太がまだ狭い世界にいると決めつけて、俺以外のもっと素敵な誰かを見つけられてないのだろうと思っていた。 永太、お前格好良すぎないか? うじうじして逃げている俺なんかより、与えられた環境で最大限できることをやって、俺に認めさせようと努力する。どんな愛の告白だよ。それを知らないで気持ちを受け取らずに、好意も伝えずにいた俺が一番馬鹿すぎて格好悪い。 「知り……ませんでした」 俺はそう言って、立ち上がる。永太がそこまで頑張っていたなら、次は俺が腹を括らねばならない。 「先輩、俺も話さなきゃいけないことがあるんです。ただ、もう時間がありません。夜中こっそり抜け出しますので、お時間いただけませんか」 「夜中って、お前、今夜は――」 「それも含めて、お話します」 俺は不甲斐なさを感じながら、宴席に先輩を案内した。

ともだちにシェアしよう!