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第50話 告白の楔
見合いの日について聡一も聞かされていなかったらしく、夕餉の席で突然「明日」と言われて目頭を押さえていた。僕は夕餉の味が全くしなかった。何も知らずにのうのうと過ごしていたことに嫌になるし、教えてくれなかった紀子にも腹が立った。手紙を送りあっていることを知っているから、僕から話が漏れて逃げられるのを防ぐためだったのだろう。聡一の役に立てなかったのが悔しかった。
「お断りしますが、いいですよね?」
聡一の一言に、夕餉の席が凍り付いた。皆の前でこんなに強気なことを言う聡一を見たことが無かった。隣の席の三四の驚きぶりを見るに、花村屋でもそういった姿を見せていなかったのだろう。そんな中で利吉だけが「ほぉ」と感嘆の声を上げた。紀子は普通を装いながら手の中の椀を置いた。
「好い人でもいるんです?」
当然の問いが紀子から出た。理由もなく断るのはなかなか難しいのはよくわかる。加えて聡一の年齢を考えると、親としてはそろそろ身を固めてほしいと思うのも当然だった。昔からの風習を踏襲する考えがまだ根強い。紀子の考えも分からなくはない。そう、分からなくはないのだ。
「おりません」
聡一の言葉に、僕の心臓がぎしりと音を立てた。そう言われるだろうということは予想していた。僕の名前を出すわけにもいかない。出せたとしても出してくれたかは分からないが。
「なら、良いではありませんか」
「良くありません」
「綺麗なお嬢さんで、実家からも遠い場所までついて行ってくれると言ってくれているんですよ? 何が悪いと言うのです」
そう、一般的に考えると聡一にとってもヒロコは好条件なのだ。僕なんかよりも。
僕は暗い思考を巡らせており、疎かにした口の中に入ったお浸しを噛まずに飲み込んだ。飲み下しづらく、椀の中の汁で押し流した。
「俺が彼女を幸せにできないからです」
「やってもみないで何故そう決めつけるのです。幸せは一人で成り立つものではありません。二人で少しずつ積み上げ築き上げていくものでしょう……利吉さん笑わないでください! 真面目な話をしているんです!」
声を出さずに肩を震わす利吉に、紀子も少し恥ずかしくなったのか頬を緩めながらもぴしゃりと言い放つ。「すまん、すまん」と言いつつも尚も笑い続ける利吉に紀子はイライラするのを隠そうともしない。
「とにかく! 明日上手くやりなさい。こんなにいい縁談、もうありませんよ!」
「母さん!」
「貴方が選べるのは、明日着ていくものを洋装にするか和装にするか! どっちかだけです!」
どっちも似合うだろうなぁ。僕は沈んだ頭の片隅で、そんなことを考えた。
その夜部屋にやってきた聡一の表情は硬く、僕は黙って畳の上に座る聡一の頭を抱きしめた。昔よりも伸ばした聡一の髪はちくちくすることもなく、抱き心地もよかった。
紀子はこのまま縁談を進めるだろう。そして、利吉もそれに反対はしない。小坂先輩から聞いた話を鑑みても、彼女側が断ることはないだろう。
――これは、仕方のない事なのだ。理性的に考えて、ここらへんが潮時だ。わかっている。
きっと聡一は結婚したら、今度は「いい夫」の仮面をかぶって生きるのだろう。精いっぱい努力して、ヒロコを愛するのだろう。決して本人が望んでいなくても。僕には手の届かないところに、今度こそ行ってしまうのだ。
わかっている。
それでも、縋らずにいられない。世間一般的な幸せよりも、僕を取ってくれることを希う。行くなと言いたい。でも、僕はまだその資格をもらっていない。
一生懸命、世界を拡げる努力をした。体も鍛えて、健康にもなった。わがままを言って高校にも行かせてもらったから、勉強も疎かにできなかった。全部手を抜かなかった。そうでないと、それでも聡一が好きだとわかってもらえそうにないから。狭い世界にいるからなんてもう言わせないと頑張ったけど、もうだめだ。聡一の結婚が逃れられない決定事項ならば、僕は諦めるしかない。さすがにまた振られるのは―――もう耐えられそうにない。
「明日に障るから、もう寝ないとね」
そう言って手を離すと、聡一が唖然とした顔でこちらを見てきた。見て見ぬふりをして、僕は寝具の準備を始めた。暑いのに指先が冷たく震えるのをぐっと我慢してい草の敷物を敷いていった。
突然腕を引かれて顔を上げると、聡一がこちらを縋るような表情で見てきた。しかし、何も言おうとしない。目が訴えかけてくるが、僕は視線を逸らした。そんな思わせぶりなことをされても困惑するだけだ。応えるつもりもない癖に。
「なぁに?」
視線も合わせずに、僕はそう聞いた。返答はない。しばらくして、聡一は何も言わずに腕から手を離した。
「……なんでもない」
聡一の一言に、僕の心はただ虚ろになっていった。
「じゃぁ、お後は若いお二人で」
そう仲人が言うと、季ノ路の広く豪奢な部屋から両家の両親と仲人が席を立った。最後に紀子が俺に一瞥をくれてから出ていく。俺は冷ややかな目で紀子を見送った。
「……洋装も、お似合いですね」
淡い桃色のワンピース姿の弘子が声をかけてくる。今回の元凶ともいえる本人の褒め言葉に心躍るわけもなく、俺はすっかり冷えたお茶を一気に呷った。
「あなたが仲人さんを通して洋装で来ると伝えてきたから、家族が張りきったようです」
好んで着てきたわけではない、と暗に伝える。嫌味と分かったのか、弘子は「ふふふ」と笑った。その笑顔は数年前の氏神祭で見たものより、幾分か感情が乗っているようにも見える。
「以前のデェトよりも、ずいぶん素を出してくださってるみたいで、嬉しいですよ」
俺は呆れながら弘子を見た。なるほど、流行りに大分影響されやすい人というのはあっているようだ。別にそれについてどうこう言うつもりはないが、以前氏神祭に一緒に行ったということを「デェト」と称するのは辞めていただきたい。
俺は湯呑を茶托の上に置いて、弘子を見た。
「弘子さんの話は、小坂先輩から伺ってます」
そう言っても、弘子の表情は崩れない。きっと小坂先輩からその話も伝わっていたのだろう。全て織り込み済みで今日を迎えたのであれば、こちらも回りくどいことはしなくていいだろう。
「このお話、お断りさせてください」
俺が頭を下げようとした瞬間、弘子も湯呑を持ち上げて口を開いた。
「何故です? 好いた方でもいらっしゃるの?」
弘子は涼し気な顔で湯呑に口をつけた。真っ赤な紅を引いた唇が湯呑から離れて、またこちらに笑顔を向けてくる。俺は小さくため息をついた。
「えぇ。だから、貴女とは結婚できません」
俺がそう言うと、弘子の目が一瞬丸くなったが、またすぐにさっきと同じ笑顔に戻った。紀子よりも笑顔が多いが、こう自分の周りの女性は表情をすぐ隠そうとする食えない人ばかりだ。
「嘘……ではなさそうですね。なるほど、それは確かに酷というものですわね」
弘子も茶托に湯呑を置いて、こちらに視線を向ける。俺もまっすぐ弘子を見た。しかし、弘子はさらに深く笑って見せた。
「でも、今回のお見合い話まで発展してしまったということは、それをご両親には伝えられない人なんですね? 既婚者ですの? それとも単に振られたけどまだ一途に想ってらっしゃる?」
「……どちらでもいいでしょう」
俺は視線を逸らして立ち上がろうとした。もうこちらとしては用はない。しかし、弘子がさらに口を開いた。
「このお話、是が非でも受けていただきたいんですの。悪いようには致しません。私の話を、少し聞いてくださらないかしら」
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