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第49話 波紋
「お前もそろそろ、いい歳だろう。見合いの話が来ている」
朝餉の時間にそれは突然始まった。俺は思わず茶碗を落としそうになりながら、利吉の顔を見る。涼しい顔をしながら椀に口をつけている利吉は、確かに俺にそう言い放った。紀子も全く驚いていないことから、知っていたのだろうと思う。
「見合い、ですか」
聞き返すと、利吉は頷いて紀子の方を見る。紀子が居間の戸棚から立派な装丁の台紙に貼られた見合写真を出してきて、座敷机の中央に広げておいた。利吉と紀子以外の皆が覗いて、三四が黄色い声を上げる。写真に写っている人物を見て、俺と永太は顔を見合わせた。見合写真に写る和装の女性は、なんと弘子だった――。
朝餉の後、俺は永太にあげた自転車を借りて、料亭「季ノ路」へ走った。永太もついて来たがったが、流石にちょっと遠慮してもらった。渋々引き下がった永太は「絶対に、帰ったら教えてね」と言って部屋に入っていった。これは何としてでもどうしてこんな話になったか小坂先輩に話を聞かなければならない。
料亭「季ノ路」に行くと、まだ支度中の立て看板がしてあった。裏手に回って声をかけるにしても、さすがに名乗らないと取り次いではもらえない。でも、正直ここで名乗ったら変な気を使われて弘子が出てくるかもしれない。ぐるぐると考えていると、後ろから声がかかった。
「お前、聡一か? 帰ってきてたのか」
聞き覚えのある低い声に、俺は振り返る。背後に立っていたのは記憶より幾分か体が小さくなった小坂先輩だった。
「先輩、ご無沙汰しております」
挨拶すると、肩を叩かれ先輩は豪快に笑い始めた。そのまましっかりと肩を抱かれ耳打ちしてくる。
「弘子のことだろう。茶屋にでも行くか」
「……はい」
答えると、肩に回された腕が離れそのまま俺の背中をばしっ叩き歩いていく。俺は相変わらずの剛力によろけながら自転車を押して先輩の横をついていく。
「その自転車、弟にやったんだろ?」
「さすがに持って行けませんでしたからね。先輩は、母校で部活の臨時講師をしてると聞きましたよ」
世間話をしながら繁華街の方に向かって歩いていく。先輩は苦笑しながら、
「なかなか柔道を教えられる奴がいないんだとよ。人材確保っていうのはどこも大変だな。世知辛い世の中だぜ」
と言った。「季ノ路」は先輩の兄二人が立派に継いでいるのにそんなことを言うものだから、どこも何かしら大変なのだろうと思った。
「……なんか、永太も世話になっているそうで」
俺が高校時代にこっそり柔道をしていたことは、小坂先輩が永太に伝えたらしい。永太も、学校からまっすぐ帰ってきていたならもっと帰りが早かったはずだと高校に通ってわかったらしく、少しでも気晴らしが出来ていたのならよかったと心底安堵しような顔をしていた。俺は幼少の義弟に心配をかけていたらしいことを感じて、「兄ちゃん」像が完璧な独りよがりだったことが身に染みた瞬間だった。
そして、永太は現在高校の生徒会と柔道部を兼任しているらしく、ここ数年の行動力の高さには脱帽する。それで成績も上位を維持しているというのだから、永太は本当に化け物なのではないだろうか。
「兄弟っていうのは血じゃねぇんだなっていうのがよくわかったよ。高校ン時のお前を見てるようでな。いや、お前より鬱屈してない分マシかもしれん。立派な兄貴がいるっていうのは、いいもんだな? おにーちゃん?」
「笑えないですよ」
俺は苦笑しながら返した。わかってて人の心を刺しに来るんだから、この人は相変わらずだ。
そうこう言いながら歩いていると、繁華街に差し掛かった。雑多な雰囲気の中、まだ朝早いのもあってか開いている店はまだ少ない。その中のうちの一つに、先輩は入っていった。まだ準備中と書かれている店に入っていくものだから、俺は驚きながら自転車を店の前に停めて後を追った。
「明子! 悪いちょっと席貸してくれ!」
小坂先輩が声を店の奥にかけると、奥の方からぱたぱたと走ってくる音が聞こえる。奥のカウンターから短い髪の女性が顔を出した。
「あぁ、いいよ。でも注文は後でね!」
男勝りに答える明子と呼ばれた女性はそれだけ言うとまたカウンターの奥に引っ込んでしまった。小坂先輩はそのままカウンター近くの席に座った。つるりと光るアンティーク調の木材に真っ赤な背もたれと張座がついている椅子に座って周りを見渡すと、席と席の間は色々な種類の本が雑多に積んであった。
「先輩の行きつけってやつです?」
「同級生の店だ。たまに来ている」
「通っている、と」
「やめろ探るな。そんなことより、本題に入るぞ」
わざとらしく咳払いして、小坂先輩は背もたれに背を預けた。腕組をしながらため息をついて、話し始める。
「弘子のことだがな……。いろいろ、拗らせててな」
「拗らせる? 弘子さんが?」
俺が眉を顰めると、先輩は言いづらそうに近くの本に目をやる。視線の先にあるのは女性誌と恋愛小説だった。そういえば昔永太が、弘子さんの告白は恋愛小説を準えられていたとかなんとか言っていたような気がする。
「最近の弘子の流行りは、女性の活躍と働く女性のかっこよさ、らしいぞ」
小坂先輩が呆れ声で捨てるように言い放ってくるが、俺には話が見えない。
「それと、俺に見合いを申し込んでくるのがどう関係してくるんです? 別に働けばいいと思いますし、活躍もすればいいでしょう」
「……結婚した後も?」
小坂先輩が前のめりになって机に肘をついてジト目で言ってくるが、俺は何が問題なのかさっぱりわからない。
「したかったら、すればいいんじゃないです?……先輩どういうことですか?」
俺が答えて終わったと同時に小坂先輩が机にがんっと額をぶつけながら突っ伏しはじめたので、俺は本当に訳が分からず聞いた。先輩は「あー……」と言いながら顔を上げて、頭を抱え始めた。
「こりゃだめだ……お前、絶対どんな手使っても結婚まで持ってかれるぞ」
「ちゃんと説明してください!」
俺も前のめりになって小坂先輩に詰め寄る。小坂先輩はカウンターの奥にいる明子さんに「悪い、水でいいからくれ!」と声をかけて明子さんから不満げな声を出されたあと、こめかみを抑えながらこちらに向き直った。
「お前、花村家を出ただろ?」
「出ました」
「実家の柵がないわけだ」
「……ない、かもしれないですね?」
「そんで、住んでるところはここよりかは都会だ。働いてる女性はここよりも多い」
話が見えてきて、俺は口を覆うように顔を抑えた。
「……まさか家を出て働くためだけに、働ける環境に行けるような結婚相手を探しているってことです?」
「加えて結婚後も働いていいって言いそうな旦那のところな」
小坂先輩の言葉に俺は絶句した。確かにそういう意味では、俺は好条件すぎるのではないだろうか。
「だからって、昔振られた相手に見合い話持っていきます!?」
「もう何件も断られてる。後が無いんだ。」
今度は俺が頭を抱えた。
「俺よりいい男見つけて落とすって言ってたじゃないですか……」
「申し込まれたものは弘子が断ってる」
明子さんが湯呑に文字通り水を入れて持ってきてくれた。先輩の前と俺の前に一つずつ湯呑が置かれ、先輩はすぐに自分の分を飲み干した。
「何してんすかほんとに……」
「ほんとにな……」
男二人、ため息が同時に出た。
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