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第1話

 今日の射手座は一位で、絶好調間違いなしと衣田アナウンサーの言う通りいい事ずくめだった。  朝食には大好きなみかんヨーグルトが出て、給食は食材がなかったとかで揚げパンに変更され、帰り道にぴかぴかの石を拾った。  最高な一日で締めくくれるはずだったのに最後の最後で柳千紘は奈落の底に叩きつけられた。  家の鍵を忘れてしまったのだ。  衣田アナウンサーにうっとりしている間に登校班の集合時間が過ぎてしまい、慌てて家を飛び出したせいで塾の鞄から入れるのを失念してしまっていた。  それに加えてこの尿意。  家に帰ってからトイレに行こうと思っていたので学校から我慢してしまったのだ。  (さすがに小学一年生でお漏らしはまずい)  一歩でも動いたら膀胱が刺激されそうなので千紘は玄関の前に座り母親の帰りを待った。  青い空を見上げると、春の日差しが慰めてくれる。母親が珍しく早く帰って来ると言っていたし大丈夫だ。  気弱になってしまう心を励ましていると足音が聞こえてきた。  「お母さん!」  門扉を開けて飛び出すと黄色いランドセルカバーを付けた男の子が大きな目をぱちくりとさせている。  母親だろうと気が緩んでしまい、我慢の限界を超えていた膀胱は決壊してしまった。カーキーのズボンに染みが広がり、ぽたぽたとコンクリートに垂れていく。  足を伝う生暖かい感触に身体中が湯だったように熱い。男はじっとこちらを見たまま口をあんぐりとさせている。  男の子を睨みつけ、手を思いきり振り上げて頬を叩いた。  「みるな!」  男の子は赤くなった頬を押さえ、目を白黒させている。手のひらがじんと痛み、はっと我に返った。  パニックを起こしていたとはいえ殴っていい理由にはならない。自分の行動が信じられず熱くなった右手のひらを見下ろした。  「……ご、ごめんなさい」  小学生なのにお漏らしをした恥ずかしさやそれを見られてしまった屈辱、鍵がなく家に入れない不安感がミキサーにかき混ぜられたみたいにぐちゃぐちゃになって千紘の頬を濡らした。  「柳千紘、くんだよね?」  「なんで僕の名前知ってるの?」  「登校班一緒だろ。お母さん、まだ帰ってないの?」  玄関をちらりと見た男の子は千紘に視線を戻してこちらの反応を伺っている。  突然殴られて怒ったり泣き出すどころか千紘を心配してくれている男をじっと見返す。  神経質に揃えられた黒い髪とこぼれ落ちそうな瞳。背も千紘より頭一つ分高く、黄色いランドセルカバーが不釣り合いなくらい大人びた男の子は確かに見覚えがあった。  「瀬名川……律だっけ?」  「よくできました」  正解を言い当てられた瀬名川は教師のように威張った笑い方をした。  きゃははと女の子たちの笑い声が聞こえてきて横を見やると百メートルほど先に見知った姿が見えた。  登校班のリーダーで六年生の女だ。毎朝遅刻する千紘に説教を垂れてくる面倒な上級生。  (どうしよう、こんな姿見られたら莫迦にされる)  お漏らししたという事実を思い出し、慌てて手で隠したが股間部分だけ色が変わっているのですぐにわかってしまう。  「こっち」  瀬名川に腕を引っ張られ上級生たちが来る方とは反対側に連れて行こうとする。  「どこ行くの?」  「俺んちすぐ近くだから」  二軒挟んだ家の門扉を開けると瀬名川はランドセルにぶら下がっている鍵で開けて、なかに押し込まれた。しばらくすると上級生たちが前を通り過ぎ、笑い声は小さくなっていく。  「行ったね。とりあえず着替えか。それともトイレ行く?」  瀬名川はランドセルを上がり框に置き、洗面所やトイレの場所を説明してくれた。  ぼんやりと突っ立っていると瀬名川は不思議そうな顔をして戻ってきた。  「誰もいないから入っていいよ」  「……僕の弱みでも握ろうとしてるのか?」  お漏らしした奴を招き入れるなんて正気の沙汰じゃない。なにか絶対裏があるはずだ。もしかしてやさしくするふりをして、あとで学校で言いふらそうと企んでいるのではないか。  疑うような視線を向けていると瀬名川はふわりと目尻を下げた。  「なんだよそれ」  「だってそうとしか考えられない」  強く言い返すと瀬名川は腹を抱えて笑いだしてしまった。  目に溜まった涙を拭い、真新しいデニムとビニールに入ったままの下着を渡された。  「そんなことしたって俺にはなんの得にもならないよ。いいからさっさと着替えなよ」  「でも」  「そのままがいいって言うなら無理にとは言わないけど」  濡れたズボンのせいで体温は奪われ、下半身は冷たくなっている。まだ四月とはいえ日陰は寒い。  確かに瀬名川の言う通りだった。  「……じゃあそうする」  ありがたく上がらせてもらい、洗面所で着替えた。汚れた服は洗濯してくれるというので洗濯機に放り込み、瀬名川は慣れた手つきでボタンを操作し洗剤を入れた。  「たぶん三十分くらいで終わるよ」  「洗濯機使えるんだな。すげぇ」  「こんなのボタンを押せば誰でもできる」  大して自慢にならないとばかりに瀬名川は首を振った。同い年なのに大人みたいな振る舞いだ。  瀬名川の赤く腫れた頬を見て、胸が痛んだ。助けてくれた恩人になんて失礼なことをしたんだろう。  悪いことをしたら謝りなさい、と母親から口酸っぱく言われている。その言葉に背中を押されるように千紘は直角に腰を曲げた。  「助けてくれてありがとう。叩いてごめんね」  恐る恐る顔を上げると瀬名川はにかっと三日月みたいな口をした。  「どういたしまして」  へたくそな笑い方はやっと年相応に見えた。

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