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第2話
お漏らしの件は伏せて母親が帰ってくるまで瀬名川の家で世話になっていた。帰ってきてから母親にその話をするとげんこつを落とされ、謝罪しに連れて行かれた。
母親同士が話している会話を要約するとお互い仕事で忙しく帰りも遅いことや同じクラス、そして引っ越してきたばかりと家庭環境が似通っていたらしい。
共通点がこれでもかとあり、家族ぐるみで一気に距離が縮まった。
「これから朝はりっくんが来ることになったから」
「なんだよ、それ」
「りっくんのお母さんとお父さん、朝すごく早いんだって。だからどうしてもりっくんに鍵を閉めてもらうらしいけどまだ一年生だし心配でしょ? だから律子さんが出勤するときにりっくんを連れてきてうちで朝食を食べに来てって誘ったのよ」
母親はなにが楽しいのか鼻歌交じりに冷蔵庫の中身を漁っている。
面倒なことになった。朝はいつもギリギリまで寝ていたいのに瀬名川が来るならそういうわけにもいかない。
「だから夜更かししてないで早く寝なさいよ」
「はいはい」
怒られる前に部屋に行きこっそりとゲームをやって寝たのは十時を過ぎたころだった。
当然朝も起きられるわけもなく、目覚まし時計と母親の怒声を聞きながら夢と現実の狭間で揺れていた。この時間が一番気持ちいい。
マシュマロに包まれているような幸福感に浸っていると肩を叩かれた。無視しても何度も叩いてきて、諦めて瞼を開けた。
「ちぃ、朝だよ。起きて」
「……瀬名川、くん?」
「早くしないと登校班の時間に間に合わないよ。またリーダーに怒られたくないでしょ?」
リーダーの顔を思い出し、渋々と起き上がった。確かにもう怒られるのは懲りている。
まだ覚醒していない頭でぼんやりと見上げていると「ほら、着替えて」とパジャマを脱がしてもらい洋服を着せてもらった。こりゃ楽ちん。
瀬名川はレモンイエローのシャツに白いベスト、ベージュの長ズボンを履いて絵に描いたようなお坊ちゃま風情だ。
ちらりと見ると白い頬は赤くなっている様子はない。
「頬は平気?」
「あんなのすぐに治ったよ」
「よかった」
「大した力じゃなかったしね」
「なんだと!」
悪戯っぽく笑う瀬名川に向かって殴る真似をするとひょいと容易く躱されてしまった。
リビングへ降りると母親が目を丸くさせている。
「あら、りっくんだとすぐに起きるのね」
「こいつがしつこいから」
「私がいくら言っても起きないくせに。これから毎日りっくんに起こしてもらいましょうね」
「はい、任せてください」
瀬名川の得意げな様子に母親は機嫌を良くし、テーブルに豪華な朝ごはんを並べた。
蜂蜜がたっぷりかかったフレンチトーストとカリカリに焼いたベーコン、コーンスープにみかんヨーグルトまである。
「いつも菓子パンだけなのに瀬名川くんが来ると豪華だな」
「喋ってないで早く食べなさい!」
母親とのやり取りを見た瀬名川はくすぐったそうに笑っている。
「ちぃんちはお母さんと仲いいんだね」
「別に普通。てかさっきからなんだよ「ちぃ」って」
「千紘だからちぃ。可愛いよね」
「女みてぇじゃん」
辞めてよと返すと瀬名川 律は目を細くさせるだけだった。
律のお陰で登校班の時間にも間に合い、意気揚々と教室に入るとなんと律は斜め前の席だった。
「席こんなに近かったのかよ」
「そうだよ。気づいてなかったの?」
「それどころじゃなかったし」
周りは初めましての子ばかりのなか、人見知りの千紘は萎縮しきっていて呼吸するのがやっとだった。
でも律とは初めから緊張なく話せていた。お漏らししたところを見られたから、人見知りフィルターが剥がれたのだろう。
律は黒板に書かれている連絡事項をノートに書き、本を読み始めた。
周りはまだ幼稚園保育園の感覚が抜けていないのか走り回ったり、母親を求めて泣いている子もいて騒がしいのに律は我関せずと自分のやるべきことを貫いている。
千紘は緊張して周りと話せないだけで本当は仲良くなりたいのに、律からはそれが感じられない。
一人でも平気だと強がっているわけでもなく、ただこの時間をとても大切にしているように見えた。
昼休みになり、律はドリルとノートを広げ始めたので近くに寄った。
「なにしてんの?」
「今日の宿題いまのうちにやっておこうと思って」
「宿題って家でやるもんだろ」
「放課後は習い事があるから」
「へぇ~なにやってんの?」
「週三で塾、英語、ピアノ、テニス、水泳」
「そんなにやってて疲れない?」
「もう慣れた」
週一で塾がある程度でほとんどゲーム三昧の千紘とは大違いだ。よくよくドリルを見ると字も一年生とは思えないほどきれいで先生が書いたように読みやすい。
一日二日で身につくようなものではない。積み木のように日々の積み上げた努力の結晶のように輝いて見えた。
「律って努力家なんだな!」
弾かれたように顔を上げた律と至近距離で目が合う。黒い瞳が星屑を散りばめたように輝いている。まるで新種の生き物に遭遇したような興奮さを滲ませていた。
(気に障ること言ったかな)
もしかしてお漏らし事件を言い触らそうとしているのかと気づき、律の口を押さえた。
「お前、まさかあのこと言うつもりか!?」
もごもごと訴える律は首を振ったのでゆっくりと離す。
「だから言わないって」
「……本当?」
「じゃあ指切りげんまんしよう」
有無を言わさぬ笑顔の律が小指を差し出すので渋々小指を絡めた。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます。指切った!」
絡まった小指が離れる。けれどそこには目に見えない約束の印が存在しているような温かみがあり、小指を目の高さに掲げてぼんやりと眺めた。
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