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プロローグ①
大学に入学してしばらく、なんとかまあ友だちと呼んでいいのか、いつも一緒にいるような人もできたし、ちょっとずつ自由すぎる生活にも慣れてきた。だから今日は少しくらい遊んでやろうと思って、四限が終わってすぐプラネタリウムに行った。
何周か見て、人工の夜空から自然の夜空に目を移し、夕食時間ちょっと前くらいに帰宅した、のだけど――。
「よお。遅かったなァ、ゆうすけ」
目の前で気味の悪い笑みを浮かべている男のことを、俺は知らない。
うっすらと紫がかった白い長髪を、窓から勝手に入ってくる風で揺らしながら、肩越しにこっちを見ている。
状況が全く理解できなかった。ここは俺の実家の、俺の部屋であって、誰か友人を呼んだつもりもなければ、こんな友人もいたことない。
この人は、誰なんだろう。
「ずっと待ってたんだぜ?」
だぼだぼの白いティーシャツから肩がのぞいている。ゆるそうなジーパンの裾から裸足が見える。どちらも、人間ではありえないくらい白くて、それが不気味さを際立たせている。
「あんまりにも遅いからさァ、探しに行くべきか迷ってたんだよな」
「あ、あのう……、どちらさまでしょうか?」
――不審者だ。
なにがどうあってもそうに違いない。母から友だちが来ているなんて聞かなかったし、そういえば玄関に並ぶ靴が一足多いこともなく、いつも通りだった。
机横の大きな窓が開けられているんだから、きっとそこから勝手に入ってきたんだろう。でも外に出る前に窓の鍵は閉めたはずだし、ここは二階なんだけど?
「オレ? オレはなァ――」
待ってましたとばかりににやつきながら、そいつは身体を反転させてこっちを向いた。
「天使だ」
言葉の意味がわからなかった。
今この人が言ったのは、俺が知ってるあの「天使」のこと、なのか? いやいや、頭の上に金色の輪もなければ、背中にきれいな純白の翼だってないじゃないか。しかも髪の色にはうすく紫がまじっている。本当に天使だとするなら、ちょっと悪いやつとか、堕天気味とか、そういうことになるんじゃないか? そうなんだったら自分を「天使」だなんて言わないでくれ、紛らわしい。
――じゃなくて! そんなわけあるか、天使なんて空想上の生き物なんだ。そんなのが人間界に実在するわけがない。いたとしても、なんともない一般市民の家に、しかも急に来るなんてないだろうし。いや逆かな、予兆とかある方がめずらしい? にしても現れるならちゃんとした教会とか、力のある神父さんの前とかのはずだ、じゃないと困る。
もし万が一、なにかの間違いでこの人が本当に天使だったとしたら、じゃあどうして俺の部屋にいるんだろう?
用がなかったらこんなところ来ないとは思うけど、天使が俺になにかしに来たとは思えない。というか、心当たりがなさすぎる。だって俺は道を踏み外しそうなわけでもなければ、なんの害もないちっぽけな人間なんだ。天使の世話になるようなことなんてなにひとつない、と思うけど。
――じゃなかった、まず天使なんて実在しないってことを思い出さないと。
「あ、あぁ、天使……そうですか、へへ、えへへ……」
「おいゆうすけ、まさかオレの言うことが信じられないとか、言わないよな?」
「いやいやいや、そんな――」
ん、待てよ。こいつ、なんで俺の名前知ってるんだ? もしかしてストーカー? だったら全部納得がいく。俺の名前も住所も部屋の場所も知ってたのはこれで説明がつくし、なにか勘違いして窓から勝手に俺の部屋に上がって来たと思えば理解はできる。全然したくないけど。
でもそうなると、どこでこんなやつに目をつけられたのかってことになるけど、こっちもやっぱり心当たりがなさすぎる。大学ですれ違う中にこんな特徴的な人はいなかったし、今までの人生で出会った記憶だってない。
あるなら、家族旅行ですれ違って思い出のすみっこにいるとか、街に遊びに出たときに偶然同じフロアにいて知らないうちに惚れられてたとか、そんな感じ? どっちにしろ、俺はこんなやつ、話したことないどころか見たこともない。髪が白い男なんて、見たら忘れないだろうし。
「いやぁ、アハハハ……」
「やっぱ信じてないみたいだなァ? なんなら、証明してやろうか」
そんなことよりどう逃げるか考えるので忙しいんだ、こっちは! 話しかけないでくれ!
どうすれば自然にリビングに戻れるだろうか……?
とりあえず下の階に行けさえすれば親に助けを求められるし、じゃなくてもスマホで110番に通報すればいい。今ここでスマホを取り出したっていいけど、それじゃ危なすぎる。この人がどういうタイプの不審者なのかわからない限りは、無理すべきじゃない。だって襲いかかってきたらどうする? 俺じゃどうにもできない自信がある。
身長差で言えばそこまで変わらないのかもしれないけど、勝てる自信は一ミクロンだってない。俺はできる限り家から出ないようにしてるし、運動も極力しないようにしてる。苦手な野菜は食べないし、好き勝手自由な時間に寝起きする。
そんな人間が、窓から他人の部屋に入ってくるような不審者に勝てるわけない。それにこの人は本物の犯罪者かもしれないんだ、「勝ち目」なんて言葉を出すことすらいけないことのように思える。
あぁ、唯一自信があるのは読書で得た知識なのに、こんなときどうしたらいいのかなんて俺が読んできた本には書いてなかった。
「つまんないもんだなァ。せっかくホンモノの天使さまお目見えだってのに、そんなリアクションでいいのかよ?」
「だ、だって、証拠がないんだから仕方ないじゃないか……」
思わずタメ口が出た。たまっていた冷や汗が背中を伝うのを感じる。
「いいぜ、アンタに信じてもらうためだったらなんだってやってやるよ。ほら、なにをしてほしい?」
けど、俺のうっかりは自称天使にはなんとも思われなかったらしい。ラッキー。
「本当にきみが天使だって言うなら――」
なにが象徴だろうか。天使と言えば、やっぱり。
「夜空まで連れて行ってよ」
目の前の悪人面が少しだけゆがむ。
してやったり。なんて思ったけど、天使なんて嘘っぱちのただの人間で、しかも俺のストーカーってことがバレたからもうくだらない演技はやめて本題に入る、のかもしれない。
その本題がなにかは想像したくもないけど、本当にそうなんだとしたら失敗だ。それも大失敗じゃすまないやつ。思いっきり、地獄の底まで一気に落ちるコース。
自称天使は不機嫌そうな顔をしながら頭をかいている。無造作に伸ばされた髪がはらはらと揺れる。
こんなにテキトーそうな人なのに、髪だけはきれいなんだな。失礼だけどそんなことを思った――いや、向こうの方が俺より何倍も何十倍も失礼なんだから、これくらい許される。
「いやァ、さ、別にいいんだけど……」
天使は人を怯 ませるような目つきで俺をにらむ。けどなぜか、その中に美しさを感じた。
「オレさ、あんまり好きじゃないんだよ、この辺り飛ぶのって」
「……どうして?」
驚きと恐怖でさっきまで気づけなかったけど、どうやらこの人は顔が良いらしい。それもとんでもなく。それこそ、人間ではありえないほどに。
「ほら、人間界 って空気がその、あー、なんだ……汚いじゃん?」
「にごそうとしたわりに直接的な表現」
「だからさ、オレの白くてキレイな羽根も汚れちゃうわけ。それがなんていうかさ、イヤっていうか、サイアクっていうか、キライっていうか……」
自称天使はうつむきながら、ぶつぶつなにか言い続けている。どうやら、本気で空を飛ぶのが嫌らしい。
というかまあ、本当は天使なんかじゃないし飛べないから、俺に諦めてもらえるようにって言い訳を並べ立てているだけなんだろうけど。
「別に飛べないってわけじゃないんだぜ? ないんだけどさ……」
もしかして、今このタイミングなら俺でも逃げられるんじゃないか。自称天使の様子をうかがいながら、足を引きずるようにして下がる。もう少し行けば階段がある。そう、あと少し、もう一歩。
「あーもう! わァったよ! 飛べばいいんだろ、アンタを連れて飛べば!」
うるさいくらいの足音を立てて寄ってきた自称天使は、俺の腕をがっしり掴んで、しかし気まずそうな表情を浮かべていた。
「それで信じるってこったなァ、ゆうすけ?」
「……あぁ、はい。えと、とべる、なら?」
右の手首が、痛むくらい強い力で握られている。爪がくいこんでいて、たぶんこれは痕が残るやつだ。今この瞬間、逃げられないことだけは決定した。
この自暴自棄になった不審者がなにをするのかはわからない――というかわかりたくもないけど、窓の方に向かっているのだけは確かだった。
もしかして、俺と一緒に二階のこの部屋から飛び降りて、強引にぜんぶ終わらせようだなんて考えてない、よね? だとしたら俺は、どうしたら助かるんだ……?
頭の中をいろんな考えがぐるぐる回る。そのどれもが意味のある言葉になる前に消えていき、ついにはめまいすらおこしはじめた。
くらくらする、目が回る。
俺はこのままでいいのか、このままなにもしなくても俺は死なないのか?
天使が先に窓から出て屋根へ上がる。俺はもう目の前のことすら考えられなくなって、その手に引かれるまま、素直に後に続いた。
靴下越しにひんやりとした硬さを感じる。頬を撫でる風は、初夏がやってきつつあるとはいえ、夜はまだ春の気配を少し残している。
あぁ、死ぬ前ってこんな感じなんだろうな。ぼんやりとそんなことを思った。
――だって視界いっぱいに、真っ白で美しい翼が広がったから。
「んじゃ、飛ぶけどいいんだよなァ、ゆうすけ?」
返事をするよりも先に、俺の背後から両脇に手を入れてきた。ついに本性を表したぞ、なんてことを思う間もなく、なぜか身体がふわりと浮く感覚がした。
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