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白い夢
精神科病棟というのは、時間が澱のように沈殿する場所だ。
ひどく静かで、まるで空気それ自体が眠っているようで…そして常に——現実と非現実の境界線が淡く滲んでいる。
僕はその空気に慣れきっていた。
もう五年近く、ここで医師として働いている。
かつては内科医を志していたが、臨床研修中にある患者と出会い、進路を変えた。
この仕事が好きかどうかと問われれば、答えに詰まる。
だが、ここには僕の居場所がある。
病棟の白い廊下。剥げかけた壁紙。無機質な扉に刻まれた番号。
毎朝の回診、投薬指示、記録書類の山——そのすべてが、僕を保っている。
この場所の“静けさ”こそが、僕には必要なのだ。
だから、その日、新しい入院患者の情報を見たときも、僕は何の感慨も抱かなかった。
「新規入院、203号室。水城澄夜 、24歳。自宅近くのコンビニで夜間に錯乱。保護入院です」
朝のミーティングで看護師が読み上げた報告に合わせて、僕は手元のカルテをめくった。
精神状態は鈍麻、問診にはほとんど反応せず。睡眠時間は異様に長く、覚醒時も反応は希薄。過去に複数回、短期の通院歴あり。診断名はまだ確定していない。
「現状は安定してるんですね?」
「今のところは。ただ……」
読み上げたナースが、わずかに眉をひそめた。
「顔が、ちょっと……印象的というか。柊 先生、直接見てもらった方が早いかもしれません」
——印象的な顔?
この病棟では、“印象的な”という形容詞が侮れない意味を持つことがある。
見た目の派手さ、自傷痕の有無、そして時に、説明できない違和感。
そのどれか。あるいは、すべて。
僕は軽く頷いて、回診の順番を変更する。
いつものようにノートPCを片手に、203号室へ向かった。
ドアをノックする音が、やけに響いた。
鍵は施錠されていない。
ゆっくりと扉を押し開けると、病室に満ちる白い光の中、彼はいた。
——まるで、眠っている彫像のようだった。
窓際のベッドに、薄く白いシーツの上に横たわる若い男。
彼の顔を初めて見たとき、僕は無意識に息を飲んでいた。
まつげは長く、頬の骨は細く美しい弧を描いている。
色素の薄い唇は、わずかに開いていた。
真っ白な病衣が彼の華奢な身体にまとわりついていて、どこか危うさを際立たせている。
美しい——という形容では足りない。
それはむしろ、ゾッとするほどだった。
美しさは時に、人を不安にさせる。
その理由がどこにあるのか、僕にはまだわからなかった。
カルテと照らし合わせる。
名前、水城澄夜。身長176センチ、体重56キロ。痩せすぎではあるが、BMIとしてはギリギリ正常範囲内。
バイタルは安定、食事摂取量少なめ。入院当日から昏々と眠り続けているという。
「……水城さん?」
呼びかけてみる。反応はない。
まぶたがほんのわずかにぴくりと動いたが、それだけだった。
無反応の患者は珍しくない。だが彼の場合、それが異様なほど“整って”いた。
ただ眠っているだけのように見える。
まるで、世界のノイズから切り離されたように、静かだった。
「……」
ベッドの側でしばらく観察していたが、彼の身体は微動だにしない。
睡眠薬を使っている様子もない。これは自然な眠りなのか、それとも……。
僕はノートPCに数行メモを残し、ベッドサイドを離れた。
病室を出て扉を閉めたとき、背後から、空気が動くような気がした。
まるで、彼がほんのわずかに微笑んだような——そんな錯覚。
いや、ありえない。彼は眠っている。僕がそう記録した。
目を覚ましてすらいないのだから。
だがその夜、僕は久しぶりに夢を見た。
誰かの白い指が、そっと僕の手首に触れる夢だった。
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