2 / 8
夢のなかの足音
午後十一時を過ぎると、精神科病棟はしんと静まり返る。
患者たちは施錠された各室に閉じこめられ、ナースステーションでは看護師が当直の交代を行っている。
白い壁、鈍く光る床、消毒液の匂い。
眠りと覚醒のあいだで曖昧な呼吸音が、廊下の向こうにかすかに漂う。
僕はその夜、久しぶりに当直に入っていた。
普段は研修医や非常勤に任せているが、主任医の急な発熱で代役を引き受けたのだ。
夜勤明けの身体は鈍くなるが、嫌いではない。
深夜の病棟は、まるで別世界のような顔を見せることがある。
日中は沈黙していた患者が、唐突に笑い出す。
無表情だったはずの男が、絵を描き出す。
抑圧された思考や感情が、昼の皮膚を脱ぎ捨てるのだ。
その夜も、最初はいつもと変わらぬ時間が流れていた。
午前一時半。
ステーションで記録の確認を終えた僕は、湯を淹れた紙カップを手に廊下に出た。
照明は落とされ、非常灯だけが天井のあちこちに灯っている。
淡く黄ばんだ光の下、病棟はまるで封印された研究所のように冷えていた。
そのとき——
「……、……た」
かすかな、音がした。
裸足の足音。
その音は、リノリウムの床を小さく踏みしめながら、ゆっくりと近づいてくる。
あまりに不自然に、音を立てない足音だった。
僕は紙カップを手すりに置き、音のする方向へと歩き出した。
ナースステーションのある東側とは反対、廊下の奥、面会室や倉庫のある死角——その先の角を曲がった瞬間、僕の背筋がひやりと凍った。
——203号室の扉が、開いていた。
施錠されているはずなのに、どうして…?
そして、彼は、そこにいた。
蛍光灯のない暗がりの中。
白い病衣のまま、裸足で、廊下に立ち尽くしていた。
その姿は、ひどく美しかった。
まるで、夢のなかから抜け出してきた人間のようだった。
彼——水城澄夜は、壁にもたれるようにして立っていた。
眠っているような目で、まっすぐにこちらを見ている。
だが——眠っている、という言葉では足りない。
意識があるのか、ないのか。
彼の瞳には、何の色も映っていなかった。
それでいて、その唇はかすかに笑っていた。
「……水城さん」
僕が名を呼ぶと、彼はひとつ瞬きをした。
そして、無言のまま、一歩だけ僕の方へ足を踏み出す。
その動きが、あまりにも静かで、あまりにも柔らかだったから、僕は思わず後ずさった。
夜の空気をまとったような、なめらかな身体の動き。
脚も、腕も、首筋も、すべてが——生々しいのに、どこか現実離れしている。
「部屋に戻りましょう」
僕は努めて冷静に声をかける。
彼は反応しない。ただ、瞬きを一つ、そしてまた一歩。
僕との距離が縮まっていく。
冷たい空気を纏って、彼が近づいてくる。
そのとき、ほんの一瞬——彼が僕の胸元に顔を寄せた。
「先生の匂い、……夜になると、濃くなるんだね」
囁きだった。
空気を撫でるような甘さと、喉奥に引っかかるような艶を含んだ声。
——彼は眠っているのではない。
それでも、彼は“水城澄夜”ではなかった。
僕は思わず彼の肩に手を置いた。
その身体は、ひどく熱を持っていた。
夜の寒さなど感じないほど、体温が高い。
「部屋に戻ろう。今は……夜中だ」
そう言っても、彼は反応しなかった。
ただ、僕の指先をじっと見つめていた。
まるで、その感触を記憶しようとするように——。
そして、ゆっくりと、踵を返す。
ふわりと髪が揺れ、彼は来た道を戻っていった。
裸足の足音だけを残して、203号室の中へと吸い込まれていく。
僕がその後ろ姿を見送ったとき、心臓が小さく跳ねた。
彼の背中越しに、僕は何かを見た気がした。
——あれは、本当に彼だったのか。
それとも、別の何か。
静かに閉じられた病室の扉は、何事もなかったように沈黙を取り戻す。
だが、僕の手のひらには、彼の体温がはっきりと残っていた。
それは、夢のなかの出来事のようでいて、あまりにも鮮やかな現実だった。
そして、その夜から、僕はできる限り自ら進んで当直を引き受け、203号室の前を通るようになった。
自分でも理由がわからないまま。
ただ——彼がまた、夜を歩く気がしてならなかったのだ。
ともだちにシェアしよう!

