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夢のなかの足音

 午後十一時を過ぎると、精神科病棟はしんと静まり返る。  患者たちは施錠された各室に閉じこめられ、ナースステーションでは看護師が当直の交代を行っている。  白い壁、鈍く光る床、消毒液の匂い。  眠りと覚醒のあいだで曖昧な呼吸音が、廊下の向こうにかすかに漂う。  僕はその夜、久しぶりに当直に入っていた。  普段は研修医や非常勤に任せているが、主任医の急な発熱で代役を引き受けたのだ。  夜勤明けの身体は鈍くなるが、嫌いではない。  深夜の病棟は、まるで別世界のような顔を見せることがある。  日中は沈黙していた患者が、唐突に笑い出す。  無表情だったはずの男が、絵を描き出す。  抑圧された思考や感情が、昼の皮膚を脱ぎ捨てるのだ。  その夜も、最初はいつもと変わらぬ時間が流れていた。  午前一時半。  ステーションで記録の確認を終えた僕は、湯を淹れた紙カップを手に廊下に出た。  照明は落とされ、非常灯だけが天井のあちこちに灯っている。  淡く黄ばんだ光の下、病棟はまるで封印された研究所のように冷えていた。  そのとき—— 「……、……た」  かすかな、音がした。  裸足の足音。  その音は、リノリウムの床を小さく踏みしめながら、ゆっくりと近づいてくる。  あまりに不自然に、音を立てない足音だった。  僕は紙カップを手すりに置き、音のする方向へと歩き出した。  ナースステーションのある東側とは反対、廊下の奥、面会室や倉庫のある死角——その先の角を曲がった瞬間、僕の背筋がひやりと凍った。  ——203号室の扉が、開いていた。  施錠されているはずなのに、どうして…?  そして、彼は、そこにいた。  蛍光灯のない暗がりの中。  白い病衣のまま、裸足で、廊下に立ち尽くしていた。  その姿は、ひどく美しかった。  まるで、夢のなかから抜け出してきた人間のようだった。  彼——水城澄夜は、壁にもたれるようにして立っていた。  眠っているような目で、まっすぐにこちらを見ている。  だが——眠っている、という言葉では足りない。  意識があるのか、ないのか。  彼の瞳には、何の色も映っていなかった。  それでいて、その唇はかすかに笑っていた。 「……水城さん」  僕が名を呼ぶと、彼はひとつ瞬きをした。  そして、無言のまま、一歩だけ僕の方へ足を踏み出す。  その動きが、あまりにも静かで、あまりにも柔らかだったから、僕は思わず後ずさった。  夜の空気をまとったような、なめらかな身体の動き。  脚も、腕も、首筋も、すべてが——生々しいのに、どこか現実離れしている。 「部屋に戻りましょう」  僕は努めて冷静に声をかける。  彼は反応しない。ただ、瞬きを一つ、そしてまた一歩。  僕との距離が縮まっていく。  冷たい空気を纏って、彼が近づいてくる。  そのとき、ほんの一瞬——彼が僕の胸元に顔を寄せた。 「先生の匂い、……夜になると、濃くなるんだね」  囁きだった。  空気を撫でるような甘さと、喉奥に引っかかるような艶を含んだ声。  ——彼は眠っているのではない。  それでも、彼は“水城澄夜”ではなかった。  僕は思わず彼の肩に手を置いた。  その身体は、ひどく熱を持っていた。  夜の寒さなど感じないほど、体温が高い。 「部屋に戻ろう。今は……夜中だ」  そう言っても、彼は反応しなかった。  ただ、僕の指先をじっと見つめていた。  まるで、その感触を記憶しようとするように——。  そして、ゆっくりと、踵を返す。  ふわりと髪が揺れ、彼は来た道を戻っていった。  裸足の足音だけを残して、203号室の中へと吸い込まれていく。  僕がその後ろ姿を見送ったとき、心臓が小さく跳ねた。  彼の背中越しに、僕は何かを見た気がした。  ——あれは、本当に彼だったのか。  それとも、別の何か。  静かに閉じられた病室の扉は、何事もなかったように沈黙を取り戻す。  だが、僕の手のひらには、彼の体温がはっきりと残っていた。  それは、夢のなかの出来事のようでいて、あまりにも鮮やかな現実だった。  そして、その夜から、僕はできる限り自ら進んで当直を引き受け、203号室の前を通るようになった。  自分でも理由がわからないまま。  ただ——彼がまた、気がしてならなかったのだ。

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