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夜の彼、眠れる君

 夜がまた訪れた。  蛍光灯の落ちた病棟は、ほとんど眠っているように見える。  だが僕は知っている。この静けさの奥には、何かが脈打っている。  前回と同じ、午前一時過ぎ。  僕は記録の整理もそこそこに、203号室の前へと足を運ぶ。  誰にも言えない衝動だとわかっていながら、それを止められない。  扉の前に立つと、内部からほんのわずかな気配が伝わってきた。  微かな衣擦れ、あるいは、息の音——。  ノックをせずに、僕はゆっくりとドアを開けた。  室内は闇に包まれていた。  月明かりがカーテンの隙間から差し込み、ベッドの輪郭だけがうっすらと浮かび上がる。 「……水城さん?」  名前を呼んだ瞬間、何かが動く気配がした。  彼は、ベッドに座っていた。  白い病衣をまとったまま、膝を抱え、こちらを見つめていた。  だが、その眼差しは前とは違っていた。  夢遊病のような虚ろさはもうない。  意識がはっきりと、こちらに向けられている。 「先生、来てくれたんだ」  彼の声は、甘く、やわらかい。  けれどその芯にあるものは、明らかに——欲望だった。 「君は……水城澄夜、じゃないんだな?」  僕の問いかけに、彼は唇だけで笑った。 「澄夜は、眠ってるよ。いま、ここにはいない」 「じゃあ……君は?」 「名前はないよ。でも、俺はずっと前から先生を見てた」  僕は言葉を失った。  目の前の存在が、昼間の青年とはまったく異なることに、ようやく確信を持つ。  その視線は鋭く、そして艶めいていた。  まるで、全身が感覚だけでできているかのような男——。 「先生の指、好きなんだよね。いつも冷たくて、でも……触れるときだけ、すごく熱い」  彼はベッドからすべるように立ち上がると、僕に歩み寄ってきた。 「こんな時間に、なんで来たの?」  肩先が触れるほどの距離で、彼は僕の耳元に吐息をかける。 「先生の中にも、あるでしょ? 夜の顔ってやつがさ」  言い終わらないうちに、彼の指が僕の胸元に触れた。  白衣の隙間から、シャツの布越しに、胸の中心をなぞる。 「……やめろ」  僕は拒むように言った。けれど、その声はあまりにも弱く、自分でも驚くほど震えていた。 「やめたら、寂しいでしょ?」  そう囁いた彼は、僕の唇にそっと触れた。  皮膚ではなく、呼吸だけでなぞるような接触。  けれど、それだけで身体の奥がかすかに痺れた。 「俺ね、夜になると……気持ちよくなりたくなるんだ」 「だから、お願い。先生の手で、俺を満たして」  言い終わると同時に、彼は僕の白衣の襟を掴んで引き寄せた。  唇が重なった。  口づけは、驚くほど熱く、そして滑らかだった。  冷静さは、ほんの一瞬で溶かされた。  僕の舌を絡め取るその動きには、初心さも羞じらいもない。  あるのはただ、快楽だけを求める、夜の生き物の動きだった。  彼の細い手が、僕の腰へ回される。  拒もうとする意識はあるのに、身体はすでに従っていた。  唇を離した彼は、濡れた瞳で僕を見つめながら囁いた。 「先生……こわい?」 「……ああ、こわいよ」 「でも……やめないんでしょ?」  僕は答えられなかった。  代わりに、彼の腰を引き寄せていた。  ベッドに彼の身体を押し倒すと、彼はゆるく笑った。  そして、首筋を晒すように頭を傾けた。  月明かりが、彼の鎖骨を静かに照らしていた。  ——今ここで、僕は患者に触れようとしている。  その事実が脳裏をかすめても、僕の指先は止まらなかった。  冷たくなった白衣の裾が、彼の太ももにかかる。  彼の手が僕の背に絡まり、布越しの熱を伝えてくる。  喘ぎ声は、小さな吐息のように夜に溶けていった。  彼の身体は、思ったよりもやわらかく、濡れていた。  くちびる、舌、指、そして——言葉。  そのすべてが、快楽のためだけに生きているようだった。 「先生、奥……もう少し……」  耳元でそう囁かれたとき、僕は理性のすべてを手放した。  ——この夜が、現実なのか、夢なのか。  ただひとつ確かなのは、僕が彼に溺れ始めているということだ。

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