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もうひとつの影

 翌朝、回診の途中でふと203号室の前を通ると、  水城澄夜はいつものように、ベッドに横たわっていた。  顔は穏やかで、昨日までと変わらぬ眠りのなかにあるようだった。  けれど、僕の脳裏にはまだ——あの夜の彼が、鮮やかに焼きついている。  身体の熱、声、汗に濡れた背中。  あのとき僕の下で喘いでいたのは、確かにこの青年だった。  けれど、そこにいたのは“澄夜”ではなかった。  昨日の夜から今朝までの記憶が、どこか夢のようで、どこか現実だった。  だが、僕の手のひらはその証拠を忘れていない。  彼の細い腰に指をかけた感触も、白衣に染み込んだ微かな汗の匂いも、まだ残っている。 「……」  病室の窓辺に立つと、澄夜の睫毛がわずかに震えた。  しかし目覚める気配はない。  彼はただ静かに、深い夢のなかにいた。  ——夢のなかに、もうひとりの“彼”がいる。  それが真実であるならば、僕はすでに境界を越えてしまったのだ。  医師としても、人としても。  ーーその夜、僕は再び当直になった。  連続の夜勤はきつかったが、体がそれを欲していた。  再度203号室の前へと立ったとき、自分の中に迷いがあることはわかっていた。  だが同時に、それ以上の何かに背を押されていることも、認めざるを得なかった。  今夜もまた——彼は目を覚ましていた。 「こんばんは、先生」  快楽人格。  そう呼ぶしかない“彼”は、まるで待ち構えていたかのように微笑んだ。  白い病衣の隙間から覗く鎖骨が、月明かりに浮かび上がる。 「君は……昨日と同じ君か?」  僕が問うと、彼はくすっと喉を鳴らした。 「“同じ”って、何?」 「澄夜じゃないことはわかってる。君は……誰だ」 「誰、か。難しいな」  彼はそう言って、椅子に腰掛けた。  脚を組み、顎に手を当てるその仕草には、昼の彼にはなかった男の艶があった。 「俺はね、澄夜の奥にずっといたんだよ。小さいころから。怖いことが起こるたびに、澄夜が逃げると、俺が代わりに出てきてた」 「……代わりに?」 「澄夜にはできないことを、俺が引き受けてたってこと」  彼の言葉は淡々としていたが、ところどころで、沈んだ笑みが混じる。 「殴られるのも、触られるのも。俺がやってた。そうしないと、澄夜は壊れちゃうからさ。……その代わり、俺は“気持ちいいこと”しか求めなくなった」 「気持ちいいこと……」 「うん。先生とするみたいなこと。痛いことも、怖いことも全部忘れられるから……身体の熱だけが、本当って思える瞬間が好きなんだ」  僕は言葉を失った。  眼前の青年——いや、“人格”が語る過去は、予想以上に深く、暗かった。 「君には、名前があるのか?」  彼は一瞬、口を閉ざした。  そして、うっすらと微笑みながら、首を振った。 「ないよ。俺は名前なんて持ってない。澄夜の記憶に俺はいない。記録にも、写真にも残らない。現実に存在するのは、全部“澄夜”だけ」 「なら……僕は、存在しない君に触れていたんだな」  その言葉に、彼の瞳がかすかに揺れる。 「先生は、俺に触れてくれた。澄夜にじゃなく、ちゃんと“俺”に。だから、すごく嬉しかったんだよ」  そう言って、彼は僕の手を取った。  細く、白い指。  まるで骨の構造が透けて見えそうなほど繊細で、それでいて熱い。 「ねぇ、先生。もし俺が消えて、澄夜だけになったら……先生はどうする?」 「……」 「澄夜は、知らないんだよ? 先生とこうしてることも、夜のことも、触れられてることも」 「……それでも、僕は君と澄夜のどちらかだけを愛したいとは思わない」  彼は目を見開き、わずかに笑った。 「先生って、ずるいね」 「……ああ、わかってる」 「でも、そのずるさ……嫌いじゃないよ」  静かに、また彼の身体が寄り添ってくる。  今夜は何もしない。ただ、手を重ねているだけ。  それだけなのに、熱はじんわりと、胸の奥に届いてくる。  この温度が、どちらの“彼”のものなのか、僕にはもうわからなかった。

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