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崩れた箱庭

 翌日、僕は水城澄夜のカルテに改めて目を通した。  奇妙なことに、彼のカルテは、妙に“空白”が多かった。  彼は24歳だが、精神科での初診歴は13歳。  しかし、その後十年近くにわたる記録が、抜け落ちている。  紹介状、転院履歴、検査記録——どれも断片的で、どこか歯が欠けたように継ぎ接ぎだった。  電子カルテに残る情報はわずかで、いくつかの診療記録にはこう記されていた。 「発語少なく、感情表出に乏しい」 「睡眠時間が極端に長い」 「過去に性的加害の可能性があるも、本人に記憶なし」  ……性的加害。  その一行を見た瞬間、背筋がじわりと冷えた。  夜の“彼”——快楽人格が語っていた言葉。 「殴られるのも、触られるのも、俺がやってた」  あれは、決して誇張ではなかったのだ。  少しずつ、彼の過去が姿を見せ始める。  それは、割れた鏡の破片を拾い集めるような作業だった。  実家は閉鎖的な地方の宗教的共同体。  父は“指導者”と呼ばれていた。  母親の存在は不明、記録上は10歳のときに死亡。  親族による継続的な支配と監視、そして——性的な支配。  彼は十代の多くを、監禁に近いかたちで生きてきた。  目を閉じると、あの夜、僕の腕のなかで震えていた彼の肌の熱が蘇る。  彼のあの無防備なまでの快楽は、喜びではなく、代償だったのかもしれない。  それでも、彼は“名もない人格”として生きてきた。  澄夜を守るために、誰からも知られず、認知されず、忘れられることを受け入れて。  僕は、胸が苦しかった。  初めて医師という立場を、鬱陶しく思った。  カルテではなく、医学用語ではなく、人として——彼に触れたかったーー  その夜、僕は病室を訪れなかった。  扉の前まで行き、立ち尽くしたまま、ノブに触れなかった。  彼が目覚めていたのか、それとも眠り続けていたのか、それはわからない。  だが、あの扉の向こうに、僕の罪が眠っている気がしてならなかった。  僕は、自分が医師としてではなく、ひとりの男として彼に近づいてしまったことを痛感していた。  ——それでも、僕は明日もこの病棟に立っている。  彼が消えない限り。  いや、彼が“思い出してしまう”その日まで。  ーー翌日、澄夜は珍しく目を覚ました。  看護師の報告によれば、はっきりと意識を保ち、数語の会話にも応じたという。  僕は個室へと足を運んだ。  白いシーツの上に、彼は座っていた。  昨日までの夢のような眠りから抜け出し、彼はようやく朝の光のなかにいた。 「先生……昨日、来なかったね」  最初にそう言ったのは、昼の彼——澄夜だった。  僕は一瞬、混乱した。  澄夜が“夜の彼”の記憶を持っているような口調だったからだ。 「夢を、見た気がするの。誰かと……一緒に、夜のなかを歩いてる。知らない手が、僕の背中を撫でてて……」  彼は微笑んだ。  どこか無邪気で、でも確かに“彼”と地続きの笑顔だった。 「その夢の中でね。先生の名前を、呼んでた気がするんだ」  僕は、なにも言えなかった。  彼が“あの日々”を忘れたまま、ただ穏やかに目を覚ましていくことを願う反面、もう一度、あの夜の彼に会いたいと願う自分がいた。  そしてその瞬間、僕は理解した。  ——もう、どちらが本物かなんて、僕にはどうでもよかったのだ。  彼のすべてに触れたい。  昼も夜も、澄夜も、名もなき彼も。  すべてひっくるめて、この手で受け止めたい。  たとえそれが、崩れた箱庭の上でしか成り立たない愛だったとしても——。

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