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今夜で終わりにしよう
夜が来ると、心がざわめくようになった。
病棟の白い廊下を歩くたび、
無人のナースステーションを通り過ぎるたび、
指先に——あの夜の熱が蘇る。
そして今夜も、僕は203号室の扉の前に立っていた。
軽くノックすると、すぐに「入って」と声が返ってきた。
澄夜の声ではない。
けれど、もう僕は迷わなかった。
中に入ると、“彼”は窓際の椅子に座っていた。
月明かりの射す方向へ顔を向けて、静かに、何かを思い出しているようだった。
彼の横顔は、いつ見ても不思議なくらい美しい。
まるで、存在自体が静かな罪のように見える。
僕が近づくと、彼はふとこちらを見た。
そして、何の前触れもなくこう言った。
「今夜で、終わりにしようと思ってるんだ」
……終わり?
僕は、椅子の背を掴んだまま言葉を失った。
彼はそれを見て、静かに微笑んだ。
「澄夜が……少しずつ、思い出してきてるんだ。夜に誰かと会ってる夢とか、肌が熱を帯びてる感覚とか。たぶん、もうすぐ——俺はいらなくなる」
「そんな……君がいなかったら、澄夜は……」
「大丈夫だよ。先生がいるから」
そう言って、彼は立ち上がる。
そして、こちらに歩み寄ってきた。
「ねえ、先生。最後に、触れてくれる?」
囁く声は甘く、柔らかく、痛かった。
彼の手が僕の胸にそっと置かれる。
心臓の鼓動が彼の掌を震わせているのが、わかる。
「先生の鼓動、好き。 俺が生きてるって、ちゃんと感じさせてくれるから」
彼は身を寄せ、僕の唇にそっと触れる。
拒む理由も、制止する理性も、すでに意味を持たなかった。
僕は彼を抱き締めた。
腕のなかの身体は薄く、しなやかで、確かに生きているのに、どこか儚かった。
「……お願い、忘れないで。俺が、ここにいたことを。澄夜の中に消えていっても、先生のなかには、残っていたい」
「……忘れられるわけがない」
僕の手が、彼の病衣の下に滑り込む。
彼の肌が、月光に濡れたようにひんやりと艶めいていた。
唇を重ねながら、何度も確かめるように、肌を撫でる。
彼の指が、僕の背中に回る。
動きは緩やかで、痛いほどに優しかった。
「先生……もう、なかに……きて」
震える声に導かれるように、僕は彼の奥へと沈んだ。
熱が絡まり合う。
肌と肌のあいだに言葉はなく、
息だけが、吐息だけが、夜を満たしていく。
彼は何度も僕の名を呼んだ。
それはまるで、祈りのようだった。
僕はそのすべてを、胸に刻み込んだ。
——二度と会えなくなるとしても。
——これが最後の夜だとしても。
彼の中に残された熱が、
僕の心を、消えない焔のように灯していた。
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