7 / 8

名もなき光

 朝、カーテンの隙間から差し込む陽光は、静かで穏やかだった。  午前七時。回診の時間。  僕は白衣をまとい、203号室の前に立った。  胸の奥で、何かが小さく軋むように鳴っていた。  扉を開けると、ベッドの上には、水城澄夜が目を覚ましていた。  驚いた。  これまでの彼には見られなかった、確かな「目覚め」だった。  まぶたの奥の焦点は合っていて、表情には薄いが確かな感情の影がある。  彼はゆっくりと、僕に視線を向けた。 「おはようございます、先生」  その声は、夜の彼のものではなかった。  音程も、語尾の柔らかさも、呼吸の仕方すらも——すべてが違っていた。 「気分はどう?」  僕の問いに、彼は小さくうなずいた。  そして、窓の外に目をやった。 「……夢を、見た気がするんです」 「夢?」 「はい。とてもあたたかくて、でも、ちょっと寂しい夢」  彼は、胸元に手を当てる。  その仕草が、昨日の“彼”と重なる。 「その夢のなかで、誰かが僕にこう言ってたんです。——“もう大丈夫。おまえはもう、独りじゃない”って」  僕は、言葉を飲み込んだ。 「その声がね、すごく優しかった。でも、それが僕自身の声じゃないってことだけは、なぜか……はっきりとわかったんです」  しばらく沈黙が流れる。  澄夜は窓辺を見つめたまま、何かを探しているようだった。 「先生」 「ん?」 「……僕の中に、誰か、いたんですよね?」  その問いは、予想よりもあまりに真っすぐで、僕の心臓を撃ち抜いた。 「……」 「わからないことだらけなんです。でも……ずっと知らなかった感覚が、いま、少しだけわかるような気がして」  彼の瞳がゆっくりと僕を見据える。 「先生がいてくれたから、なんだと思うんです。夜のことも、夢のことも、……消えた気がしない」  彼は言葉を探しながら、慎重に一歩ずつ、こちらへ近づいてきた。 「僕は……怖いんです」 「なにが?」 「自分が自分じゃなかった時間を、これから思い出していくことが。 でも、それ以上に——先生が、僕を見てくれなくなることが」  僕は、その言葉に答えを返さなかった。  ただ、そっと手を伸ばし、彼の髪を撫でた。 「君は今、ここにいる。……それがすべてだよ」 「……ほんとに?」 「ああ。名もなき彼も、君も、僕は全部——忘れない」  そのとき、澄夜の瞳が、かすかに潤んだ。 「……先生、触れてくれて、ありがとう」 「ありがとう、なんて言葉で足りるか」  僕は彼を抱きしめた。  昨夜、夜の彼を抱いた腕で。  その腕の中にいるのはもう、“彼”ではなかった。  だが、確かに——同じ体温だった。  光のなかに溶けていく影のように、  夜の記憶は静かに、彼の奥に沈んでいく。  けれど、その温もりだけは、確かに今も残っている。  僕は知っている。  消えたのではない。  “彼”は、澄夜のなかに還っていったのだ。  ——名もなき彼は、澄夜の光になった。

ともだちにシェアしよう!