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名もなき光
朝、カーテンの隙間から差し込む陽光は、静かで穏やかだった。
午前七時。回診の時間。
僕は白衣をまとい、203号室の前に立った。
胸の奥で、何かが小さく軋むように鳴っていた。
扉を開けると、ベッドの上には、水城澄夜が目を覚ましていた。
驚いた。
これまでの彼には見られなかった、確かな「目覚め」だった。
まぶたの奥の焦点は合っていて、表情には薄いが確かな感情の影がある。
彼はゆっくりと、僕に視線を向けた。
「おはようございます、先生」
その声は、夜の彼のものではなかった。
音程も、語尾の柔らかさも、呼吸の仕方すらも——すべてが違っていた。
「気分はどう?」
僕の問いに、彼は小さくうなずいた。
そして、窓の外に目をやった。
「……夢を、見た気がするんです」
「夢?」
「はい。とてもあたたかくて、でも、ちょっと寂しい夢」
彼は、胸元に手を当てる。
その仕草が、昨日の“彼”と重なる。
「その夢のなかで、誰かが僕にこう言ってたんです。——“もう大丈夫。おまえはもう、独りじゃない”って」
僕は、言葉を飲み込んだ。
「その声がね、すごく優しかった。でも、それが僕自身の声じゃないってことだけは、なぜか……はっきりとわかったんです」
しばらく沈黙が流れる。
澄夜は窓辺を見つめたまま、何かを探しているようだった。
「先生」
「ん?」
「……僕の中に、誰か、いたんですよね?」
その問いは、予想よりもあまりに真っすぐで、僕の心臓を撃ち抜いた。
「……」
「わからないことだらけなんです。でも……ずっと知らなかった感覚が、いま、少しだけわかるような気がして」
彼の瞳がゆっくりと僕を見据える。
「先生がいてくれたから、なんだと思うんです。夜のことも、夢のことも、……消えた気がしない」
彼は言葉を探しながら、慎重に一歩ずつ、こちらへ近づいてきた。
「僕は……怖いんです」
「なにが?」
「自分が自分じゃなかった時間を、これから思い出していくことが。 でも、それ以上に——先生が、僕を見てくれなくなることが」
僕は、その言葉に答えを返さなかった。
ただ、そっと手を伸ばし、彼の髪を撫でた。
「君は今、ここにいる。……それがすべてだよ」
「……ほんとに?」
「ああ。名もなき彼も、君も、僕は全部——忘れない」
そのとき、澄夜の瞳が、かすかに潤んだ。
「……先生、触れてくれて、ありがとう」
「ありがとう、なんて言葉で足りるか」
僕は彼を抱きしめた。
昨夜、夜の彼を抱いた腕で。
その腕の中にいるのはもう、“彼”ではなかった。
だが、確かに——同じ体温だった。
光のなかに溶けていく影のように、
夜の記憶は静かに、彼の奥に沈んでいく。
けれど、その温もりだけは、確かに今も残っている。
僕は知っている。
消えたのではない。
“彼”は、澄夜のなかに還っていったのだ。
——名もなき彼は、澄夜の光になった。
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