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エピローグ〜君が目を閉じるとき
季節はゆっくりと移ろっていた。
病棟の窓から差し込む光が、少しずつ春めいていく。
水城澄夜がこの病院に入院してから、三か月が経とうとしていた。
彼は毎日、ほんの少しずつ起きている時間を延ばし、リハビリに通い、看護師と会話を交わし、 時に、僕と静かな時間を過ごした。
夜の彼が姿を現すことは、もうなかった。
それでも、消えたとは思っていない。
彼は澄夜の中に還った。
彼の体と記憶に、やさしく滲んでいる。
「ねえ、先生」
午後のひととき。
空いているデイルームで、澄夜がカップに入った紅茶を口にしながら、ぽつりと呟いた。
「もしも僕のなかに、まだ“あの人”が残ってるとしたら……先生は、それでも僕に触れてくれる?」
僕は答える代わりに、彼の隣へ椅子を引いた。
そして、彼の手の甲にそっと手を重ねた。
「触れるよ。夜の彼にも、昼の君にも。——どちらでもない、君の全部に」
澄夜は小さく笑った。
その表情に、もう以前のような影はなかった。
けれど、どこかに微かに残る、あの夜の気配。
僕だけが知っている熱。
「眠るのが、怖くない夜って初めてなんです」
「眠れそう?」
「うん……きっと、今夜はすごく静かだと思う」
そう言ったあと、澄夜はベンチの背にもたれて、目を閉じた。
春の光のなかで、彼の睫毛が小さく震える。
僕はその横顔を、じっと見つめていた。
夜を彷徨った彼が、ようやく目を閉じて眠れること。
そこに僕が立ち会えていること。
それが、僕にとっての赦しだった。
——たとえ彼が、あの夜の記憶をすべて忘れても。
それでも、僕は覚えている。
彼の体温も、涙も、欲望も。
名前さえ持たなかった彼が、この世界に確かに存在していたことを。
そして今、彼はここにいる。
名もなき夜を超えて、
静かに、優しく——僕の手の届く場所に。
風が吹き抜ける。
彼の髪がふわりと揺れる。
それは、
長い夢の終わりと、
永く続く朝の始まりだった。
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