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第1話 水面に触れる

大学の帰り道、いつもの坂道が封鎖されていた。 ガードレールの向こう側に立つ「工事中」の看板とパイロンを見て、静也は小さく舌打ちをした。 「はあ……めんどくさ」 空はどんよりと曇っていて、今にも泣き出しそうだった。いや、すでにぽつぽつと落ちてきている。折りたたみ傘はバッグにあるが、広げるのも億劫だった。 少し遠回りになる裏道を選んで歩き出す。人通りは少ない。時間は18時過ぎ、夕方の街灯がぼんやりと灯り始めるころ。 雨は音もなく静也の肩を濡らしていた。 角を曲がったそのときだった。 何かをひしゃげたような潰したようなグシャッという音が、自分の足音と違うリズムで耳に届いた。 路地裏の奥で、誰かが倒れている。 その上に、誰かが──いや、“何か”が覆いかぶさっていた。 人影は背を向けていた。黒い髪が濡れ、シャツが雨で肌に張りついている。 だが、静也の目が吸い寄せられたのは、その足元だ。 倒れている人間の胸から、ぐじゅ、と音を立てて何かが引き抜かれた。 そして、その人間に覆い被さる「何か」は溶けたような質感で、けれども明確に人間の形をしていた。 ──やばいものを見た、という感情があまりにも遅れてやってきた。 「……見てた?」 振り向いたその男は、タレ目で釣り眉の、やけに整った顔をしていた。 黒いツーブロックの髪が水滴を跳ねて、視線が真っ直ぐに静也を射抜いた。 けれど──その瞳。 青でもなく、茶でもない。 瞳孔が……ない? 「“見なかったことにしてくれる”なら、君を殺さないし危害は加えない」 淡々とした口調だった。 けれど声には、人間味がなかった。冷たい水が肌に触れたような感触だけが残った。 普通なら、悲鳴を上げるだろう。逃げ出すだろう。 でも、静也はただうなずいた。 「……うん、わかった」 彼は驚かなかった。 むしろ、心のどこかでこういう“異常”を待っていたような気がしていた。 静也のオッドアイの左目──普段は隠している青いそれが、濡れて束になった前髪の隙間から覗いた。 「変わってるね、君、普通だった叫びながら逃げるか……警察を呼ぶか、命乞いをするか……どれも俺にとっては迷惑だから殺しちゃうけど」 男が静かに笑った。唇の端に、血のしずくがついている。 「名前は?」 「……静也」 「へぇ、静也くん。君……一人暮らし?」 「……は?」 「いや、興味が湧いて。君、怖くないんだろ? 俺みたいなの」 静也は何を聞かれているのか想像がつかず、最初は戸惑ったがその後、素直にイエスと首を縦にふる。 「……じゃあ、今晩でいい。俺を泊めてくれないかい?」 静也は一瞬迷ったが 「一部屋、物置になってるのがあるけど……別に、使いたいならいいよ」 「本気?冗談?どっちでもいいけど、俺は横になれればどこでもいいよ」 そう言って人間じゃないが、見た目は完全に人間の男──後に“ニルス”と名乗ることになる存在──は、自分の指を咥えた。 口元に吸い込まれていくその手は、途中で輪郭を失い、液体のように溶けて消えた。 それを見た瞬間、静也は確信する。 こいつは、人間ではない。 けれど、それがどうした?と冷静になる自分が存在していて……連れていったら殺されるかもしれないとか、何かされるかも、警察沙汰になったら?など思い浮かぶ言葉が消えていく。 普通の人間なんて、もうとっくに信じていない。 「……じゃあ、行こう、俺の家こっちだから。雨、強くなってきたし」 「うん。あ、俺、ニルス。よろしくね、静也くん」 雨は本降りになっていた。 血の混じったアスファルトのにおいが、湿った空気に溶けていく。 静也の日常が、静かに終わりを告げた夜だった。

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