2 / 14

Trigger Night②

 六本木の裏手、重厚な造りの高層マンションの最上位。  エントランスのセキュリティは厳重で、警察関係者でも一筋縄では入り込めないほどの堅牢さを誇っていた。表向きは某IT企業の役員だと説明されている黒崎の住まいは、内装に至るまで徹底的に洗練されている。  入ってすぐ、榊原は理解した。  この部屋は、単なる住処ではない。  ウツボカズラの、消化液がたっぷりと入った捕虫袋の中だ。  照明は落とされ、間接光だけが淡く部屋の輪郭を縁取っている。ラグジュアリーという言葉だけでは足りない。さらに「気を緩ませる」ことに特化した室内。家具の配置、空調の温度、アロマの香り。すべてが計算づくの演出だった。  無論、気づいたところで、榊原は退くつもりなど毛頭ない。 ────へぇ。  むしろ、榊原は心のどこかでほくそ笑んでいた。  彼のような“支配者”が、こうしてわかりやすい仕掛けを用意してくれること自体が、面白かった。 「君って、本当に周到だね」  榊原は上着を脱ぎ、ソファの背に軽く掛けた。タイは緩めたまま。シャツのボタンも、さっきよりひとつ多く外れている。 「ええ、こんな大切なお客様をおもてなしするわけですから」  黒崎がカウンターでグラスを二つ用意する。  ウイスキーの香りが、空気に混ざる。氷の音がやけに響いた。 「君はこの部屋で、女も男もここで堕としてきた。そして手中に収めた。そして今日は、僕を喰らおうとしている。違うかな?」 「喰らう? ふふ、随分とセックスをそんな下品な言葉で形容するんですね。僕は単純に……あなたが欲しいだけですよ。──榊原さん」 黒崎の口角だけが皮肉げに動いた。 「ああ、そうじゃなくて。──君にとって、セックスはあくまで“手段”だ。僕が言ってるのはその先だよ」 「先?」 「そう。君はきっと、他人を支配下において、手のひらで転がすのが好きなタイプ。きっと僕のこともそうしようと思ってるんじゃないかなって」 「そんな……滅相もない。でも──」  黒崎がウィスキーを一口、口に含んだ。 「他人を支配したい、それは榊原さん、あなたもでしょう? 僕に接触したのも、僕を手駒にするため」 「へぇ。じゃあ僕らは、お互いがお互いを支配しようとしてるってわけだ」  挑発するような笑みを浮かべ、黒崎の目を見つめる。黒崎もまた、こちらを見つめて、不敵な笑みを浮かべた。 ────なるほど、ねぇ。  見透かされる感覚。彼自身が他人に仕掛けてきたやり口を、鏡のように向けられたような違和感。  目の前の男は、単なる“性”の対価で情報を与えるつもりではない。  もっと深く、もっと根のあるものを——「楔」を、こちらに打ち込もうとしている。 「まぁ。とりあえず話を進めようか」  カランと、ウィスキーグラスの中の氷が揺れた。 「僕は、君の情報が欲しい。だから、君の望む対価は払うつもりでいる。……ただし、身体なんてものは、僕にとっては切り札じゃないんだ」  軽く、笑みを添えて言う。 「使い古したカードだよ。それでもよければ、今晩は僕を好きにしてもらって構わない」  榊原がそう言うと、黒崎の目は愉しげに細められた。 「そうですね。あなた、こういう“使い方”には慣れていらっしゃる」  まるで見透かすように。  その通りだった。榊原はこれまでも、幾度となく“そういう手段”を使ってきた。  必要とあらば枕営業も辞さない。感情を殺して身体を差し出し、得たい情報だけを奪って立ち去る。何も残さず、何も与えずに。  いつもどおり適当に満足させて、対価を得たら良い。  しかし、黒崎の目は、どこか異様だった。  普段相手にしている中年男の目のような、欲情し切った下品な目つきではない。  まるで、“味わう準備を整えた料理人”のような、ねっとりと湿った視線だった。 「ただの交渉材料として、抱かれに来た人間を……どう料理するか」  黒崎は、榊原のすぐそばに腰を下ろす。  近い。距離が、わざと曖昧に保たれている。 「────試してみたくなると思いませんか?」  その言葉は、触れていないのに指先で首筋を撫でられたような、ぞくりとした冷たさを残した。  榊原は、その一瞬だけ呼吸を止めた。  言葉が、身体に触れてくる。  眼差しが、皮膚の下に侵入してくる。  これが——黒崎啓という男の“やり方”。  従わせるのではない。  じわじわと侵食するように、意志を奪っていく。 「────ふふっ。やっぱり君、面白いな」  笑いが、込み上げてきた。  公安刑事として、国家の奥底で泥をすくってきた自分がが、いつもどおりの使い捨てのカードにするためだけに接触した男。  その男が、自分の中に思いがけない種類の“毒”を流し込んでくる。 「じゃあ……君の腕を、見せてもらおうか」  ウイスキーを飲み干し、榊原は静かに言った。

ともだちにシェアしよう!