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1.深窓の未亡人

「はぁ? セリオ侯爵が亡くなったから、元侯爵夫人に婚姻を申し込んだと、そう言いましたか?」  家令のディードーは常に冷静で落ち着いた人なのに、ぽかんと呆けたままミルファが告げたことをただ繰り返した。眼鏡の奥の目が、まるく見開かれている。   「うん。深窓のオメガと噂の、ね。そして僕はベータなのに、奇跡的に受けてもらえた」 「ミルファ様……顔を知らないのはいいとしても、どんな方なのか、噂以外なんの情報もないじゃないですか……」  その通りだ。社交界に顔を見せたことのない侯爵夫人には様々な噂があるが、出自も素性も、何も知らないままミルファは婚姻を申し出た。  そして、びっくりしたことに受けてもらうことができた。    セリオ侯爵の二次性はアルファで、ロームルス王国で五つしかない侯爵家の当主だった。かつては国王もその言葉に耳を傾けるほど、賢く信頼の篤い人だったらしい。    彼には子もおらず、若くして妻と死別し何十年もひとりで過ごしていたが、五年前に後妻を迎える。その頃から病に侵されていたのか、結婚後は社交界に出ることもなく、五十五という若さで先日病のため亡くなったのだ。    此度未亡人となった人はセリオ侯爵が子を残すために娶ったオメガだろう、と囁かれている。結局この五年間で跡継ぎができたという話はなく、その財産の大半や侯爵位は傍系の親類に渡ったと聞いた。  年齢も年齢だし、病気だったのなら子ができなくとも仕方がない。わずかな希望にすがったが、駄目だったということだろう。  したがってセリオ侯爵の未亡人となった人は生家へ戻るか、あるいは修道院に入る可能性もあった。しかし侯爵が徹底的に隠していたというだけで、皆の興味や期待は膨らむものだ。    侯爵よりだいぶ若いという噂もあって、彼女あるいは彼が未亡人になった途端、ミルファだけでなくあらゆる貴族が我が家に嫁にと申し出たのだった。  夫を亡くした妻は侯爵の財産の四分の一を相続できているはずで、持参金目的のろくでもない貴族も少なからずいた。  たとえセリオ侯爵と夫人が(つがい)だったとしても、アルファである侯爵が亡くなった時点で番関係は解消されているはずだ。  それを見込んでいるのだろう、婚姻の申込みをしたと聞いたのはほとんどがアルファと自称する貴族ばかりだったから、ミルファは受けてもらえるはずがないと思っていた。 「いやー、ほんと、びっくりしたよね。こんな、なんの価値もない僕のところに来るなんて」 「いやいやいや軽すぎますよ! ミルファ様ともあろうお方が、そんな軽い考えで奥様をお迎えになるなんて……。それに、なにもオメガでなくったって……良いじゃありませんか」 「僕ほどって、落ちこぼれのベータだよ。オメガの奥さんなら癒やされそうだって、つい思っちゃったんだよなぁ。こっちの二次性は明かしてあるし、大丈夫だと思うけど……発情期とかあるのかな? 不自由ないように過ごさせてあげないとね」  いつもの調子で返すと、「もっと真剣に考えてください!」と怒られた。  彼を雇い入れたときに借金を肩代わりしたからと、過ぎるほどミルファに従順だったころが懐かしい。いまや半分白くなった焦げ茶色の髪をきっちりと七三に分け、トレードマークの眼鏡ごしに目を尖らせているのだから時の流れを感じざるを得ない。    とはいえディードーはまだまだ現役らしい。こちらが主人なのに、彼は我が子のようにミルファを扱うときがある。たまに鬱陶しいほどなのは、彼の息子と自分がほぼ同じ年齢だからかもしれない。    男女問わず可憐な容姿の者が多いといわれるオメガに、ミルファが憧れを抱いていたのは事実だ。自分がアルファに生まれていたら、と何度も考えていた故に募っていた思いともいえる。    しかし相手に不自由させたいとは当然考えていない。オメガである未亡人がミルファの申し出を受けたのはなにか深い理由があるのだろう。  実はもう発情期がないほどお年を召している可能性もあるし、病気かなにかで子を産めないのかもしれない。  どんな理由があったってミルファは受け入れる覚悟がある。 「……あなたはお優しすぎるのです。我々のような路頭に迷った者ばかり雇って……。その方も、ミルファ様のそんな性格を当てにしているのかもしれないですね」 「買いかぶりすぎだよ。あ、ちなみに三日後に来る予定だから。悪いけど部屋とか整えてあげてね」 「それを早く言ってくださいよ!!?」  ◇  馬車の迎えは不要と言われたため、ミルファたちは精一杯屋敷を整えて待つことにした。二次性はオメガだろうと推測できても、一次性も年齢もわからないのでみんな頭を抱えている。  それを見てミルファもさすがに無計画すぎたな、とようやく反省した。  元侯爵夫人の話を聞いたのは夜会だった。そこで生家の家族に会ったせいでくさくさした気持ちのまま、その夜勢いで手紙を書き申し込んでしまったのだ。  流れてくるのは噂ばかりとはいえ、事前にもう少し調べてみればよかった。  今は屋敷のエントランスホールで、使用人も総出になってミルファの夫人となる人を出迎えようとしている。  長年浮いた話もなかった主人だ。突然結婚すると言い出したときは屋敷をひっくり返したような大騒ぎになったが、仕事はみなきっちりとやる性質なのでなんとか準備も間に合った。    あとはこの家を見てもらってから、内装を変えたり身の回りのものを揃えていけばよいだろう。……ミルファには金銭的な余裕がないため出来る限り、ではあるが。  爵位も継承できないミルファを選ぶ時点で、相手が贅沢を望んでいないと期待するしかない。  不器用にまとめた栗色の髪を、落ち着きなく撫でつける。ここへきて、ミルファも不安が身の内に広がってゆくのを感じていた。  相手がどんな人だろうと、どんな事情を抱えていようと受け入れようと思っているが、向こうがこちらを受け入れられなかったらどうしよう。  ミルファのようなしがない子爵家の次男坊では、侯爵家の次に選ぶ家として全く釣り合いが取れない。  ベータだって? しかも貧乏貴族? 来る場所間違えました! となる可能性だってある。  自分が申し出たことではあるものの、その人はいったいなにを考えているんだろう……とかえって悩む羽目になっているんだから可笑しい。  ミルファが思考を遥か遠くへ飛ばしていたそのとき――客人の来訪を告げるベルの音が聞こえた。  合図を受けて従僕が玄関の扉を恭しく開く。青空に澄んだ光が扉の隙間から差し込み、初秋の風が深い森のような香りを運んでくる。    目が眩むほどの光の中、まさに馬車から降りようとしている人のシルエットは、可憐な…………いや。  がっしりとした背の高い男性のものだった。 「……ん?」  ミルファはぱちぱちと瞬きを繰り返す。何度も目を凝らして、荷物を持って降りてきたのはだと、改めて認識した。    護衛でも連れてきたのかもしれない。繊弱なオメガならあり得ることだろう。 「……あれ?」  ミルファの口からぽろ……と疑問符が転がり落ちる。使用人たちも口を閉じてはいるが、我慢しきれずに何度も瞬いたり首を傾げたりしている。  それもそのはず、それ以上馬車から降りてくる人影はない。男はひとりで躊躇いもなく屋敷の地面を踏みしめ、扉を抜けて真正面に立つミルファの元へとやってきた。  目の前に立つと見上げるほど大きい。ミルファより頭一つ分上背がある。決して太ってはいないのに、体格が良いため質量も自分の倍はあるように感じた。  紺碧の短い髪。濃い線で描かれたような輪郭の強い顔は、男前と一言で片付けるのがもったいないほどに整っている。  凛々しい顔立ちではあるが、白皙の肌と優しい夜明け色の瞳は彼にひと匙の繊細さを加えている。  ――彼が立ち止まった。視線が絡む。    ミルファはそのとき男から、どこか愁いを湛えた空気を感じ取った。ことばを発するための息をゆっくりと吸い込む。 「あなたですね? 私の申し出を受けてくれたのは」 「あぁ。ルシアーノ、だ。よろしく頼む」 「……ミルファ・クィリナーレといいます。歓迎します、ルシアーノ。ようこそ我が家へ」  侍従にルシアーノの荷物を引き取らせ、ミルファはちょいちょいとエントランスホールの隅へとルシアーノを呼んだ。  いきなり内緒話なんて失礼だとは思うが、ミルファは内心大混乱だった。出会い頭かつ使用人たちの前だったので、辛うじて貴族の体面を保っていたにすぎない。  皆に背を向けて、自分より高い場所にある彼の顔をこちらへ寄せてもらう。   「不躾な質問で申し訳ない……あなたの二次性を教えてもらえないだろうか」  一次性も年齢も見た目も、わからなくていいと思っていた。しかしこれだけは確実だと……元侯爵夫人は『オメガ』だと、思いこんでいたのだ。  ルシアーノからは明らかにオーラが発せられている。    皆の前で訊くのも駄目だろうと、こそこそ訊ねたミルファを、彼は双眸を細め楽しそうに見下ろしてくる。  口角を徐々に上げていく様はミルファが独り占めするにはもったいないほど男臭く、また羨ましいくらい格好良かった。 「俺はアルファだ」 「えっ……!」  そんな気はしていたものの、いざ聞くと驚愕が全身を駆け巡った。つい大きな声を出しそうになり、両手で口を押さえる。  なんで。どうして、アルファのルシアーノが……? さまざまな疑問が浮かび、わけが分からなくてパンと頭が爆発してしまいそうだ。  ミルファの混乱を見透かして、ルシアーノは困った顔で笑う。しかし突然なにかを察して口元から笑みを消し、ぽつりとミルファに尋ねた。 「……申し出を取り下げたいか?」 「いや……いや! そういうわけじゃないんだ。ただ、まだ現状を理解できていないだけで……きみがいいならいいんだけど。でも、その、ひと言だけ言わせてほしい。  ――アルファが婿入りしてくるって、そんなことあるぅ!?」  思わず素でツッコんだミルファに返す者はいない。ルシアーノだけが、冴えない男の発言を耳にして小さく吹き出す。彼が笑みを取り戻したのを見てなんとなくホッとした。    秋の香りが悪戯するように鼻先をくすぐり、風と共に駆け抜けていった。

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