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4.初夜ってなんだっけ?

 あれ、これ……? と思っている間にふにふに、と何度も唇が合わされ啄まれる。たまに親指で撫でられているのは、左口角のそばにあるホクロだと想像できた。    その心地よさと薄い皮膚から得られる繊細な刺激にうっとりとしそうになって、違和感にミルファはパチ……と目を開ける。清涼な森のような香りが鼻を掠めた。    超絶至近距離にある端正な顔立ち。焦点の合わないまま曙色の視線に囚われ、力の入っていない唇の狭間から濡れたものが侵入してきた。 「ひあ……んっ」  そろり。唇の裏側を舐められて、聞いたこともないような甘い声が聞こえてきた。どこからって、自分の口から。  やっと混乱が追いついてくる。え……ルシアーノ、なにしてんの!?    いつの間にかはだけられていた胸元に熱い手が這わされる。びくん! と驚きで身体が跳ね、ようやくミルファはこの行為を止めなければと思い至った。  顔をそむけ無理やりルシアーノの舌を口から追い出す。くり、と指先で胸の尖りを転がされて背筋を電流のような快感が走った。ぞくぞくっと身体を震わせながら、また変な声を上げてしまう。 「ふああ! ちょ……す、ストップ〜〜〜!」    その勢いでミルファは大声でストップをかけた。耳元で叫んだおかげか、ピタとルシアーノの動きが止まる。ふう……、さて、と。 「説明っ。説明して! なんでこうなってるか、訳わかんないんですけどぉ!?」 「なんでって……一応初夜のつもりなんだが」 「は……え……?」 「ん……? 同意を得たものと思っていた」  ショヤってなんだっけ? ミルファはルシアーノが部屋に来てからの会話と行動を振り返ってみた。  一緒に寝ようと言われて同意した。左右の話は置いといて……ミルファを寝かせたルシアーノは眠るでなくキスをし、服を脱がせ、身体に触れてきた。まるで夫婦の閨のように………… 「っえ!!! 初夜!?!?」 「どちらでも良いというから、ミルファを抱こうかと……もしかして、こちらは未経験だったか?」 「そりゃ僕はどっちも未経験だけど……って、ちがーーーう!!!」  って、抱く側か抱かれる側かってことかよ! ミルファは両手をつっぱり覆いかぶさるルシアーノを押し返した。  自分も起き上がり、寝台の上で座って向き合う。 (抱こうと、って……ルシアーノは僕を抱こうとしてたの!?)    彼の言葉を反芻して頭の中がしっちゃかめっちゃかになっていく。ミルファの口からは途方に暮れたような声しか出なかった。   「ほんとうに僕はただ、一緒に寝るだけかと……」 「そんな理由で来るはずないだろう? 伴侶として受け入れてもらった責務を果たそうと思って来たんだ。抱かれた経験はないが知識はある。もしミルファが望むなら、受け入れる心づもりで……」  そんなはずない……か。盛大な勘違いが恥ずかしくて、顔に熱が上っていくのを感じる。  ミルファは貴族だが、基本家族から放置されていたため閨教育なんてものも受けたことがない。  ベータのくせに男が好きなんて恥ずかしくて娼館にも行けず。いつか誰かと、という憧れはあったものの恋が成就したこともなく、この歳まで童貞処女を貫いてしまった。  だからまさか、ルシアーノがそういった意味でミルファと寝ようとしているなんて想像だにしなかったのだ。  恥ずかしくて情けなくて、消えてしまいたい。ツンと鼻の奥が痛くなり涙が出そうになるのを必死でこらえる。  ミルファは今すぐシーツの下に隠れたい、と思いながらどうしようもない感情を怒りに変換することしかできなかった。 「僕はそんなつもりなかった! 遠慮しなくていいって……言ったじゃないか。こんな風に気を遣って夫婦ごっこなんてしなくていい。アルファだけど抱かれる覚悟できたって? そんなこと、僕は望んでない!」 「わ、悪い。勘違いしてすまなかった……!」 「馬鹿にするなよ。僕はしがないベータだけど、身体を慰めてほしいと思って婚姻を申し込んだんじゃない。ルシアーノに、僕はそう見えてるってことか……?」 「それは違う! 馬鹿になんてしてない……」 「……出ていってくれ」    ルシアーノが必死に謝っているが、ミルファも目の前が真っ赤でそれどころじゃない。荒ぶった感情を抑えようとして出た声は、氷のように冷えていた。  押し黙った男が静かに寝台を降りる。浅くなった息が整ってきてミルファがハッと気づいたときには、もう部屋には誰もいなかった。 「くぁぁ〜。なんだよ……ひどいこと言っちゃったじゃん……」  一気に脱力して寝台に突っ伏した。はだけた肌に冷たいシーツが当たり、火照った肌がひんやりとする。    冷静になると自分の発言はあまりにも独りよがりだった。こんな風に誰かに怒りをぶつけるなんて、初めてかもしれない。  それくらいミルファはルシアーノに甘えていたのだ。いくら歳上で優しそうだったからって……まるで子どもじゃないか。会ったばかりなのに。    心のどこかでアルファのルシアーノを羨ましく思っていた。見目も麗しく、望めばなんでも手に入りそうな人。  彼が自己を殺してミルファの望みを叶えようとするのを、ミルファ自身が耐えられなかったのだ。気を遣われて、惨めな気持ちになったのも事実だった。  ……でも。ルシアーノだって自分を伴侶として受け入れてくれたミルファに対し、出来ることをいろいろと考えてくれたのかもしれない。  遠慮しなくていいと伝えても、いきなり無遠慮になんでも言える仲になれるはずもない。ミルファにとっては自分の家だが、従者も連れずに来たルシアーノにとってここは孤立無援なのだ。  緊張して空回ったりするのは、人間なのだから当然だろう。なんだかミルファにはルシアーノが完璧超人のように見えていた。  怒って高ぶっていたから、あのときの彼の声や表情を全然覚えていない。悲しませてしまった……だろうか。 (ああもう、失礼な対応しちゃったな)  自分の経験値が低いせいで、過剰な反応をしてしまった自覚はある。  婿入りした当日に初夜、は至極当然の流れかもしれない。ルシアーノの言葉が足らず、ミルファが思いつきもしなかっただけで。  どちらでも対応できるよう心づもりをして寝室に来ることは、相当な覚悟が必要だったんじゃなかろうか。 「どっちも、って……うわあああ〜〜〜っ」  思わず両手で顔を覆う。自分がルシアーノを抱いたり抱かれたり、なんて想像してみただけで刺激が強すぎる。ミルファの恋愛対象は男だが、正直どちらがいいとまでは考えたこともなかった。  アルファになりたいと思って可憐なオメガに憧れていたものの、今まで恋心を抱いてきたのは自分よりも体格の良い人が多かったように思う。  ルシアーノの行為は自然だった。あのままぼんやりしていたら、ミルファは抱かれていたかもしれない。ふわふわとした気持ちよさにうっとりしていたのだ。あの唇や肉厚な舌が……熱い手が………… 「〜〜〜ッ忘れよう! あれはっ、なかったことに!」  肌に残った感覚を打ち払うように寝台の上をゴロゴロと転げ回る。とても人に見せられた姿じゃないが、誰も見ていないから大きな独り言で自分に言い聞かせた。    明日は仕事に行かなきゃならないから朝イチでルシアーノに謝ろう。パジャマをきっちり着直して枕に頭を乗せ、目を閉じる。 (忘れよう。謝ろう。忘れよう。謝ろう……)    ポプリの香りは遠く、なかなか寝付けなかった。  誰かが窓を開け、チュンチュンと朝鳥の鳴き声が聞こえてくる爽やかな朝。レースカーテンをふわりと煽った少し肌寒い風が、ミルファの頬をくすぐった。  眠い。眠すぎる。逃げるようにシーツの中へと潜り込もうとしたとき、嗜めるような声が足元から聞こえた。 「ミルファ様、起きてください!」 「うう〜ん……もうちょっと……」 「大事なご報告があります。朝食の前に聞いていただかないと! あなたが後悔しますよ」 「んおーこくぅ?」  ピシリと尻を叩くようなディードーの声に、目を擦りながら身を起こす。いつもはここまで寝起きも悪くない。なにせ今日のミルファはとっても寝不足なのだ。 「ルシアーノ様が……昨夜、この屋敷を出て行こうとされているところを見かけたのです」 「るっ。で……えぇ!?」  あまりにも予想外な言葉に、寝起きの顔をグーで殴られたような衝撃を受ける。目を飛び出させているミルファから視線を外さず、ディードーは心痛な面持ちで言葉を続けた。 「私が理由を尋ねると、『出ていってくれ』と言われた、と。そう仰っていました」 「まさか……本当に出て行っちゃったの!?」  確かにそう言った。でもそれは、この部屋から出ていって欲しいという意味で……!  そこでもルシアーノとすれ違っていたのかと、あ然としてしまう。あの時の混乱で記憶も曖昧だが、ミルファの口ぶりはかなり辛辣になってしまっていたかもしれない。    どどどどうしよう……! 受け入れた伴侶を数時間で、しかも夜中に追い出すって僕、最低すぎない!?  ミルファの青褪めた顔から視線を外し、ディードーはハァ、と重いため息を吐いた。 「もちろんお引き止めしましたよ。ミルファ様がそんなことを仰るはずがないですから……。もし本当に仰ったとしても何かの誤解か、今ごろ落ち込んで後悔してますよ、とお伝えしました」 「はぁ……よかった〜〜〜っ」  それを先に言ってくれよと口を尖らせると、優秀な家令は眼鏡の奥の目をくわっと見開き、めちゃくちゃ怒った。    主人は優しいものの子供のように幼い一面もあって、コンプレックスもずっと抱えている面倒くさい人間だ。だから多めに見てやってくださいと、来たばかりのルシアーノ様にお伝えするのがどんなに恥ずかしかったことか!  かの方は伴侶を亡くされたばかりなんですよ! 癇癪を起こすんじゃなくてしっかり支えてあげなくてなにが夫ですか! などなどなど……  寝ている間に広がったくるくるの髪がブワーッと後ろに靡くほどの勢いで懇々と説教され、ミルファは塩をかけられたナメクジのように寝台の上で縮こまった。 「ゴメンナサイ……」 「はい。朝食の席でちゃんと謝るのですよ」  ――いったい主人はどっちなのか、ミルファの立場はナメクジより小さい。

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