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8.夜会には闘いがある
ルシアーノは乗馬に関して、覚えのよすぎる生徒だった。
ミルファが数回教えただけで常歩 を危なげなくマスターし、速歩 もあっという間に習得しそうだ。駈歩 までできるようになれば、一緒に遠乗りへ出るには充分すぎるだろう。
ミルファは手の掛からない教え子にちょっぴりと寂しい気持ちになった。一緒に馬で出かけられるようになるのは嬉しいけど、自分よりも歳上の美丈夫に手取り足取り教えてあげるのは思いのほか楽しい経験だったのだ。
(ふふっ。うーん、これはこれで面白い経験だなぁ)
ミルファは隣に立つ男にちらりと視線を向ける。タキシード が嫌味なくらい似合っている男、ルシアーノは初めての夜会で誰よりも注目を浴びていた。
こればかりはミルファが仕立てさせてもらったのだが、同じ仕立て屋を使ったとは思えないほどその服はルシアーノの精悍さを際立て、いたって普通なミルファの隣で輝かんばかりだ。
姿勢が良いため周囲の貴族たちには堂々と立っているように見えるだろうが、ミルファにはその凛々しい表情の奥で彼が顔を強張らせているのがよく分かった。
一緒に過ごす時間を少しずつ重ねたからこそ、読み取れるようになってきた感情かもしれない。
「ミルファ卿、先日の狩猟は楽しい時間だったね。それで……その、男性は……?」
「オーウェン卿、卿の弓の腕は何度見ても素晴らしいものです。また教えてくださいね。……あぁ、彼は私が迎えた伴侶ルシアーノです」
ミルファが親しげにルシアーノの肩に手を置き、同じ子爵家の次男であるオーウェンに紹介する。
ルシアーノがオーウェンに挨拶すると彼は「わあ」と圧倒されたみたいに一歩足を引き、数秒経ってやっと言うべきことに気づいた様子で「結婚おめでとう」と祝いの言葉をくれた。
にこにことしたミルファと必要以上に喋らないルシアーノからの無言の圧に、オーウェンはそそくさとその場を去っていった。
あまり根掘り葉掘り質問されるのも疲れるため、今日はこのスタンスでいこうと決めている。
今日は情報に強い高位貴族が参加するような夜会ではない。それゆえミルファが元侯爵夫人と結婚したことを知る者もいなかった。
伴侶を紹介するのみなら、みんなの驚く顔が見られて楽しいだけだ。
せめてお揃いのものでも用意しておけばよかったな。夫婦は指輪やピアスなど、揃いのアクセサリーを身に着けることが多い。何か持っていれば、紹介するときにもより「らしさ」があっただろう。
いつもパートナーを連れず参加していたので、ルシアーノが隣りにいてくれるだけでミルファはリラックスでき、頼もしかった。
まぁ、彼はそうでもないみたいだけど……
「ルシアーノ、大丈夫? 慣れないと疲れるよね。もう少ししたら帰ろう」
「あ、あぁ。どこを見ても綺羅びやかで目がチカチカする……俺、場違いすぎないか?」
「まさか! 初めてきたのに主役みたいに馴染んでるよ」
羽振りのいい伯爵家主催のため、夜会はその財を見せつけるように豪華絢爛だった。もちろん女性も参加しているぶん、色とりどりの衣装や宝石がいっそうの華やかさを引き立てている。
ルシアーノは一番落ち着く景色を求めているのか、ミルファの方ばかり見てくるのでなんだか項 の辺りがチリついた。
地味な容姿には定評があるのだ。……自分で言ってて悲しくなってきた。
話しかけるタイミングを見計らう人たちの視線を剥がすよう意識して会場内を動き、豪勢な料理に舌鼓を打つ。ビーフ・コンソメの冷製、鹿肉のパイ包み、ハチミツを染み込ませたペイストリー。
珍しい料理を試すことも夜会の楽しみのひとつなのに、ルシアーノはミルファの「屋敷の料理のほうが舌に合う」とぶどう酒ばかり飲むので笑ってしまった。
適度に腹が膨れたところでミルファたちはテラスに出た。もう夜はかなり冷えるが、タキシードに籠もった会場内の熱を散らすにはちょうどよく気持ちいい。ルシアーノはちょっと深すぎるほどに息を吐いている。
――嫌がらなかったから連れてきたけど、ちょっと可哀想になってきたな……
ルシアーノは侯爵夫人だったにもかかわらず、夜会に出たことがなかった。そのことについて彼がどう思っていたのかは分からないが、今日の様子を見るに出たかったわけではなさそうだ。
彼ならどんな形でも注目を集めるだろう。ご婦人方はうっとりとした視線を彼に向けていた。二次性はアルファだし、独身だったら花たちに囲まれて大変だったかもしれない。
平民だったんだよな……? 口に出さず、ミルファは心のなかで呟いた。ルシアーノの過去については、彼が話したいと思うまでそっとしておきたい。
たとえ平民だったとしても、アルファでこの容姿なら貴族に取り立てられていてもおかしくない。それがセリオ侯爵だったのだ。
亡き侯爵がルシアーノを伴侶に迎えなければ、ミルファがルシアーノと出会うこともなかっただろう。彼が社交界にでることもなかった。
そう考えると奇妙な縁だ。出会ってたった数週間だけれど、ミルファはルシアーノのいる生活が馴染んできていた。
まだお互い知らないことも多いものの、もっと知りたい。もっと仲良くなりたい、と感じているのが自分でも不思議だった。ルシアーノといると楽しいし、落ち着く。友人であり、兄のような……?
まぁそれにしては魅力がありすぎるけど。いまだに見るたびドキドキするほど圧倒される。今日は自慢のパートナーを見せびらかすことができて、ミルファは初めて優越感というものを味わっていた。
――そんな風にいい気になっていたからか、ミルファにとって一番会いたくない人物の声が聞こえた。心臓がゆっくりと、嫌な音を立てる。
「ドブネズミにパーティは眩しすぎたかな? 家族に挨拶にも来ないなんて、知能まで害獣になってしまったのかい、ミルファ」
「……兄さん」
ミルファの兄、クィリナーレ子爵家嫡男のタナトスが室内へと続く扉を背に立っていた。おおかた遅れて来たのだろう。ミルファはその存在に気づくことはなかったものの、タナトスはミルファを決して見逃さない。
自慢の金髪と、ミルファと同じ紺碧の瞳。弟より高い背丈に、整った顔がついている。結婚するまで、いや結婚してからも数々の女性と浮名を流しているアルファの兄だ。
外面はいいが、ミルファの前ではその仮面を外す。幼い頃から何度も繰り返し、もはや呼吸するような自然さでミルファを傷つける言葉を投げつけてきた。
ひとりだったら黙って耐えるだけだ。言い返したって酷い言葉が倍になって返ってくるだけだともう学んでいる。
いまは、ひとりじゃない。自分が実の兄から虐げられる存在だと知られたくない、とミルファは咄嗟に思った。ルシアーノには、見られたくない。
もっとも、いつもどおりろくな言葉が出てこない。血の気が引いて、目の前が真っ暗になっていった。
「ああ恥ずかしい。こんな出来損ないが弟だなんて」
「すみません……。もう帰るので」
「おい、待てよ。――モリアの婚約が決まったんだ。どこにも出せないお前とは違って、引く手数多で選ぶのも大変だったよ。伯爵家だ。父上母上も鼻高々だったなぁ」
モリアとは八歳下の妹のことだ。十八なら婚約が決まるのには遅いが、それだけ厳選したかったということだろう。オメガで美女となれば、簡単に価値は下がらない。
ミルファは自分のつま先を見つめた。タナトスの影になって、艶のある革も光を返さない。
兄の話が自慢だけで終わるはずがなかった。
これ以上ルシアーノに情けないところを見られたくない。何も聞かれたくないと思っていても目の前の巨大な壁をどうすれば突破できるのか、考えつかないほどミルファの思考は闇に沈んでいる。
「お前もせめてオメガだったら、家の役に立てたのになぁ。あ、アルファになりたかったんだっけ? 二次性判定のあとビービー泣いてたもんな。その木偶みたいな見た目でよく夢を見れたもんだよ。なんか言ったらどうだ? ベータでごめんなさいって、言えよミルファ」
「…………」
いつも言われる内容はほぼ同じなのに、毎回ミルファの心は抉られる。自分だって幼い頃から何度も自問しているのだ。「どうして」って。
恥ずかしくて不甲斐なくて、足元から視線を上げられない。
コツ、と靴の音が聞こえてルシアーノが動くのを感じた。「ああ、ルシアーノは帰るんだな」と気づいて、どこか安心した。
こうなったタナトスはしばらくミルファを離さない。ねちねちとミルファが聞きたくもない言葉を浴びせて、反応を楽しむのだ。
先に帰って、いまのことは全部忘れてほしい。……無理だろうな。軽蔑されたよな。
自分のような平凡ベータがアルファになりたかっただなんて、アルファの男からすれば馬鹿らしくてたまらないだろう。
「ははっ」
ほら、笑ってる。ミルファは絶望の淵から状況を俯瞰した。
ルシアーノが自分を笑っている。当然だろう。こんなにも恥ずかしい人間の伴侶になってしまったのだから。
誇らしかった気持ちが遠い昔のよう。ミルファには背伸びしたって釣り合えない男だった。
不意打ちで、ぎゅっと手を包まれる。ほら……これも…………なんだ?
冷えた指先を温めるように、大きく熱い手がミルファと指を交差させ、繋ぐ。そしてもう一度、ぎゅっと強く握った。
「お前……誰だ? 人を笑うなんて失礼な」
「いや、失礼。こんなにも他人を貶める言葉がスルスルと出てくるなんて、大したものだと思いまして。そんな教養、どこで学ぶのですか? 私の伴侶と血が繋がっているとは到底思えませんね」
「はぁっ?」
「申し遅れました。ミルファと婚姻を結びました、ルシアーノといいます」
「おいおい、嘘だろ……」
影からスッと現われ、敵意から守るようミルファの斜め前に立ったルシアーノは、凍てつくような声音でタナトスに立ち向かった。
声のトーンだけでいえば朗らかに明るい。しかしそこに内包した冷たさはその場を凍りつかせる威力を持っている。
ルシアーノ、こんな嫌味が言えたのか。ミルファは顔を上げつい感心すると同時に、彼を兄に認識させるのは危険だとも思う。タナトスはこれまで、ミルファの友人も全員見下してきた。
自分より高位の貴族、しかも当主じゃない限り、その手を緩めることはしないのだ。ルシアーノが兄に貶されるのだけは、絶対に、嫌だ。
ミルファは焦燥を滲ませた声でルシアーノの手を引いた。
「ルシアーノ、もう帰ろう……!」
「いつの間にかこんな義弟ができていたとはね。次期当主の私に逆らうとは……頭も悪そうだ。見目だけ上等だが、所詮ドブネズミの仲間か……」
「っ違う! 兄さん、彼を貶めないでくれ!」
ルシアーノを貶された瞬間、情けなくもポロ、と涙がこぼれた。喉の奥が狭まって痛い。
繊細で優しい彼が、こんな風に言われる筋合いなどない。自分といるせいでルシアーノが罵詈雑言を浴びせられてしまった事実が、ミルファを絶望の底に突き落とした。
タナトスは無遠慮にルシアーノを見つめ、ミルファに視線を戻すとニヤニヤ嗤う。
「お前が選んだものだろう? こいつ……アルファに見えるな。どうやって籠絡したんだ。オメガの真似事でもしてケツを振ったのか?」
「……黙れ」
口を挟んだのはルシアーノだった。
「男が好きなのにベータで、どうしようもなかったんだな……哀れな弟だ」
「黙れ!!!」
――ビリビリ!
ルシアーノの強い咆哮は空気を震わせる。驚きにビクッと震え一瞬目を閉じていたミルファは、再び瞼を上げたときに見えた光景が信じられなかった。
タナトスが腰を抜かしている。真っ青になった顔。少しでもルシアーノから離れようとするみたいに、ずりずりと地面に着けた尻を後方へ動かしていた。
「……ヒッ……」
「もうミルファに関わるな」
ルシアーノはそれだけ言い残し、放心しているミルファを半分抱きかかえるようにしてテラスをあとにした。
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