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7.初めての夫婦喧嘩
ミルファがさらさらとサインした羊皮紙に、ルシアーノはゆっくりとサインしていく。それを司祭が受取り恭しく司教へと手渡した。
「はい、確かに受け取りました。ご結婚おめでとうございます。お二人の未来が祝福で満たされますように」
「「ありがとうございます」」
まったく緊張していなかったのに、司教と司祭に婚姻を認められた途端、なんとも言い難い震えが身体の奥底から湧き上がってくる。これは喜びだろうか?
自分でも説明はつかないが、間違いなく温かい光を浴びたような感情だった。
実際にはふたりの戸籍情報をこれから調べ、問題なければ婚姻情報が簿冊へと記録されることになっている。が、基本的にはこれで婚姻が認められたと判断するのが普通だ。
結婚式は執り行わずとも、このやり取りだけでミルファには充分だった。自分の家族に祝ってほしいなんてこれっぽっちも思っていないし、ルシアーノにもちらと聞いたところ家族はいないそうだ。
というか、サインのときに家名を書いていなかったから平民なのだろう。驚きはしたが、いまとなっては些細な問題だ。
「さあ、行こう!」
ミルファは無意識に、はじけるような笑顔をルシアーノに向けていた。教会の天窓から柔らかな光が差し込んでいる。ルシアーノは眩しそうに目を細めて、「ああ」と頷いた。
待たせていた馬車に乗り込み、一時間ほど進んだ場所にその牧場はある。王都の整備された通りを抜け、街道を通り、次はガタガタと土煙のたつ農道を走った。
少し尻が痛むが、道中の景色はのどかで心地よい風が吹いている。コスモスが草原をピンク色に染めていた。
草原に作られた道を馬車で進んでいると、近隣の牧場から放牧されている牛や羊の群れとすれ違った。もう少し進むと、今度は放し飼いにされている馬の姿をよく見かけるようになる。
牧場から自由に放された馬は、気の合うもの同士が五頭ほどで固まった群れを作っている。いくつかの群れが互いに心地よい距離を置いて、のんびりと草を食んでいた。
「へぇ。こうやって見ると、かわいいな……」
「でしょう? 僕も馬は大好き。――馬囲いが見えてきたね。もうすぐだ」
ミルファたちはいくつも連なる大きな厩舎の向こう側にある、牧場主の家に向かった。日焼けして浅黒い肌の牧場主にミルファが事情を説明すると、男はルシアーノの身体を上から下までジロジロと検分するように見つめる。
ルシアーノは居心地の悪そうな顔をしていたものの、文句は言わなかった。昨晩はおもしろいほど驚いていたが、もう自分用の馬を買う覚悟は決まったらしい。
急に牧場主は白い歯を見せてニカッと笑い、「こっちだ!」とルシアーノを先導して小走りに家を出る。向かった先の馬囲いには、大きくて脚力のありそうな馬が何頭もいた。
「わぁ、立派ですね。逞しくて、かっこいい……」
「へへ。旦那ほどの体格なら、これくらいじゃないと。それで……初心者なんでしょう? 大人しい奴がいいだろうな」
ミルファが惚れ惚れと呟くと、牧場主は自分のことを褒められたかのように脂下がって照れた。自慢の馬たちなのだろう。
囲いに入った三人は、あの子は大人しそう。いやこっちの方が実は相手を選ばないなどと真剣に討論する。ルシアーノが恐る恐る、でも嬉しそうに近くにいた栗毛の馬を撫でると、その子も大人しく目を細めた。
馬は敏感に人間の感情を読む。ルシアーノが恐怖よりも愛情をもって自分に触れていることが分かるに違いない。
「ぅっひゃああ!?」
ミルファがほっこりとルシアーノと馬の交流を見ていたとき、背後から近づいてきた馬が突然ミルファの顔に横面を擦りつけてきた。驚きすぎて思わずルシアーノの腕に抱きつく。
それでもその馬はミルファから離れることなく、ついには顔を舐め出した。
「びゃぁ! あっ、あははっ。ちょ、ちょっとルシアーノ止めて!」
「……ずいぶんと好かれてんな。大丈夫か?」
「こらっ。クレア! すみませんねぇ。珍しいな、こいつは女好きで男には目もくれないじゃじゃ馬なんですが」
牧場主に触り方を教えてもらい、ルシアーノが牡馬の太い首を撫でる。クレアと呼ばれた馬は頑固にミルファから離れなかったが、なんとか落ち着きを取り戻しルシアーノの手に甘えはじめた。
普段は牝馬、しかも美女ばかり追いかけているというクレアは、青鹿毛 の美しい馬だった。全身が真っ黒で、鼻の先がわずかに褐色となっている。
「綺麗な艶だね……。ルシアーノ、この子がいいんじゃない?」
「確かに美しいな。だが、ミルファの方に懐いているように見えるが……」
「お客さんのことは、雌だと思っているような……ゴホン。いや旦那にも懐いてますよ。こんな素直に撫でさせること、クレアは滅多にありませんから」
結局ルシアーノは青鹿毛のクレアを買い取ることに決めた。ここで二人は初めての夫婦喧嘩を勃発させる。
「僕が払うって言ってるだろ! 婚姻の贈り物もさせてもらえないのか僕はっ」
「俺が乗るんだから俺が払う。持参金を好きに使えと言ったのは君だろう、ミルファ」
喧嘩の内容は――誰の金で支払いをするかということだった。
乗用馬ではあるもののクレアは軍馬にもなり得る高級種の血を引いていたため、値段もそれなりだったのだ。ミルファのひと月あたりの収入に値するほどで、聞いたときにちょっと怯んだことは認める。
けど……!
「もともと買ってあげようと思って馬を買おうと提案したんだよ。そのうち君と遠乗りでもできたらって、思って……」
「それは嬉しいしそのうち実現しよう。でもここは譲れないな。俺は自分で買おうと思ってついてきたんだ」
買う買わないでなく、支払いを望む同士の喧嘩を牧場主は目を白黒させて見ていた。
ミルファとルシアーノは話すほどに一歩ずつ互いの距離を縮め、いまや少し身じろぎすればくっつかんばかりに近づいている。
ミルファは頭一個分高い場所にあるルシアーノの顔を下から睨み上げる。このまま話を続けていたら首が痛くなるな、とどこか冷静に考えていたとき、ふわ……と柔らかな森のような香りが鼻腔をくすぐった。
牧場にひしめく生き物たちの匂いとは異なる、爽やかで優しい香りだ。
無意識に目を閉じて鼻から深く吸い込むと、一瞬くらりと平衡感覚を失ってしまった。背中から倒れそうになる。
「う、わっ……!」
「……おいっ」
ルシアーノはまたもや素晴らしい反射神経でミルファを支えてくれた。左手を腰に添え、反りそうになる背中を右腕で支える。
そのまま引き戻されたミルファは自然と彼に抱きしめられる形となった。今度は上半身も下半身もくっついている。
「あ、ありがと……」
ルシアーノの胸に顔を押し付けながら、くぐもった声でお礼を伝える。瞬間感じた恐怖に心臓のドキドキが落ち着かず、馬鹿みたいに一人で転げそうになった自分が恥ずかしくて、顔も赤くなっている気がした。
「大丈夫か? 日光に当たりすぎたのかもな。少し座っていろ……ほら、ここに」
ミルファのほうがよっぽど健康的な肌色をしていると思うのに、ルシアーノは目ざとくその熱に気づいたらしい。牧場主の家なのだが、男にもミルファにも有無を言わせず室内の椅子に座らせてくる。
別に体調が悪いわけじゃないんだけどな……。ほんの一瞬、くらっとしただけで。それでも身体はいつもより熱い気がして、目の前に出された水をゴクリと飲んだ。
――結局。ミルファが我知らずぼうっとしている間に、ルシアーノは牧場主と話をつけてしまった。クレアは後日、牧場主の息子が屋敷に届けてくれるようだ。
「僕が買うって言ったのにぃ……」
帰りの馬車のなか、すっかり元気を取り戻したミルファは恨めしげに正面に座る男を睨めつけた。
屋敷に来てからまだ何も望んでくれないルシアーノに、ミルファは何かしてあげたかったのだ。馬なら格好のプレゼントになっただろう。
鋭い紺碧の眼光をものともせず、ルシアーノは満足げな笑みを口元に浮かべている。
「ひとつお願いがあるんだが……」
「なになに!? 僕にできることならなんでもするよ!」
「俺に乗馬を教えてほしい。それでおあいこだ」
「……そんなのでいいの? 僕が仕事に行ってる間に使用人から教えてもらった方が早いと思うけど」
「ああ。ミルファがいいんだ」
ルシアーノは使用人に教えを請うことを厭うタイプではないだろう。いま御者席に座っている、御者兼馬丁に教えてもらうほうが絶対に効率はいい。
それでも、ミルファは気づけばこく、と頷いていた。
あえて自分に教えてほしいと指名されるのは、ことのほか嬉しい。日が傾き下がってきた気温にも負けず、心がポカポカと温まる。
ミルファはついでとばかり伺いを立てられた昼間の外出についても快諾した。ルシアーノが引きこもっていた部屋から少しずつ出ようとしてくれるのは良い傾向だ。
夕方の淡く滲むような日差しが馬車の窓から差し込み、二人の横頬を照らしている。伴侶となった彼らの生活は、まだまだこれからだ。
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