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6.月夜の語らい
「ルシアーノ。このあとさ、僕の部屋に来てもらってもいい?」
夕食の終わりがけ、デザートの桃を口に運ぶ手を止めてミルファは正面に座る男へと声を掛ける。カップに紅茶を注いでいた侍女長のポモナの手が一瞬揺れて、チャプと水音が聞こえた。珍しいことだ。
使用人たちにはルシアーノを奥様ではなく名前で呼ぶことと、伴侶として扱うが奥方らしい仕事は求めず自由にさせてあげてほしいと伝えてある。
元々来訪者も少ない屋敷だし、使用人の采配は優秀な家令に一任してある。
屋敷内のことはミルファひとりで手が届いているため、ルシアーノに求めているのは心穏やかに過ごすことだけだ。使用人たちも伴侶を亡くしたばかりの彼に心を痛めて、ことさら優しくしてくれているらしい。
ルシアーノが家に来てからちょうど一週間経っていた。毎日食事のときは顔を合わせていたが、初日のやらかし以降はミルファの部屋に突撃してくることもなく、またミルファも彼の部屋に行こうとはしなかった。
早寝早起きのミルファだが、明日は休息日なので。
ちょっとだけ夜ふかししてルシアーノとお喋りしたいなぁ、と子どものような計画を胸に今回は声を掛けたのだ。
「もちろん。湯浴みを終えてからのほうがいいか?」
「うん。あ、一緒にお風呂入る?」
ガチャン、と食器同士が音を立てるのが背後から聞こえた。今日のポモナはどうしたのだろう、調子が悪いのなら早めに休んでもらわなきゃ。
「ハハッ。いや……俺は先に済ませたんだ。頃合いを見て向かうよ」
「はーい。じゃあまた後で」
ミルファの屋敷には風呂が二つあり、五人はまとめて入れそうな大きな風呂と、二、三人入れるような小さめの風呂がある。
ロームルスの民は風呂が文化と自認するほど入浴が好きなので、ミルファも屋敷を買うときは風呂の充実度合いを重視した。
この規模の屋敷では一つしか風呂がなかったりするのだ。でも自分は、使用人にも風呂はゆっくり入ってもらいたい。
大きな方は主人用としていて、これまではミルファが独占していた。いまはルシアーノと交代で使用している。
平民は基本公衆浴場を利用するし、社交場にもなっているらしい。ミルファもどうせお喋りするなら一緒に入ろうかと提案したけど、タイミングが合わなかったみたいだ。急な思いつきだもんなぁ。
何がおもしろかったのかルシアーノは笑いながら答え、自分も今日はさくっと湯浴みを済ませようと思いながら立ち上がった。今夜は話したいことがたくさんある。
自室に戻ると、食堂の片付けを部下に任せたポモナがついて来た。ポモナは四十代のふっくらした女性で、赤毛をふんわりと後頭部に纏めている。
「ポモナ、体調が悪いんじゃないの? 無理せず今日は下がって……」
「ミルファ様!」
ミルファが気遣うように声を掛けたのも束の間、ポモナはきつい口調でミルファの名を呼んだ。目をキッと三角にしている。
え……なにこれ。僕、怒られる感じ?
ディードーが父代わりなら彼女は母だ。彼女の娘もミルファと同年代だから、頼んでもいないのにミルファを可愛がり、心配し、時に叱る。
ちなみにポモナは未亡人で、地方領主の館で長年侍女をしていた。しかし彼女の娘エトナが同じく侍女として働き始めたとき、領主の息子が無理矢理手を出そうとしたのだ。
彼女は驚いて反撃してしまったらしい。激怒した息子は物を盗まれたと彼女に罪を着せ、ポモナたちは仕事を失い逃げるように王都へやってきた。
悪評がついてしまったせいで使用人の仕事も見つからず、エトナは母に内緒で身を売ろうと娼館の門を叩いた。それを見ていた不埒な輩が彼女に声をかけ揉み合いになっていたところで、偶然通りかかったミルファが助けたのだ。なお腕力はないので警吏を呼びつつうそぶいて乗り切った。
その後彼女を母であるポモナのところへ連れて行き、事情を聞いてミルファは二人とも雇うことにした。ちょうど屋敷を買った時期で人手が欲しかったし、互いにメリットのある申し出だったと言えよう。
ちなみにエトナは買い出しの際に出会った肉屋の息子と結婚し、いまはポモナだけがこの屋敷に住み込みで働いてくれている。今日の食卓に並んでいた牛肉も、エトナの嫁入り先で仕入れたものだろう。
「ミルファ様。ルシアーノ様に求められるまでは閨を求めてはいけません。伴侶を亡くした傷は、簡単には癒えないのですから……」
「ん?」
「それに、お誘いの仕方が軽すぎます! 初夜はもっと慎重に。あなた様も身体を大事にしてくださいまし。しかもまだ教会へも行っていないのに……!」
「あ、え。ちょっと待って! 誤解、誤解だって! 閨のお誘いだと思ったの!?」
「違うんですか? 夫婦で風呂だなんて、私てっきり……。ルシアーノ様も誤解したんじゃありません? 思い悩ませてたらどうするんです」
「い、いや。ソレハダイジョーブダトオモウヨ……」
ミルファは頬を赤くしながら視線をうろうろと彷徨わせた。先週の初夜と謝罪の一件は当事者の自分たちと、あとはディードーの胸の中だけに収められている。
もしかしてルシアーノは誤解されているとわかって笑っていたのか。
ミルファの考えがお子様だっただけで、周囲の反応の方が普通なのかもしれない……と今更ながら気づき始める。
(だって、ルシアーノと僕だよ!?)
自分たちの関係がプラトニックであることを理解してもらうには、少々時間がかかりそうだ。嫌というほどではないけれど、家族のような使用人に誤解されるのはとっても恥ずかしい。
それは生家にいた頃には抱いたことのない感情だった。
コンコン、と控えめにノックが鳴る。
「どうぞ! 待ってたよ」
食事のときと違って室内着を着たルシアーノを出迎える。もうミルファも簡単に驚いたりしない。彼と相対するときは最初からちょっと視線を上げておくのがコツだ。
ミルファは寝室手前の小さな生活空間を横切って、部屋の奥にあるテラスへとルシアーノを導いた。
もう夜は冷える季節になってきたけど、月夜に酒を片手に語らうのもいいかなと思ってポモナに準備してもらったのだ。ちゃんと寝椅子にやわらかなクッションと膝掛けまで用意されている。
墨を流したような空には雲ひとつなく、丸い月と、その光が届かないところにはたくさんの星が散らばっていた。ルシアーノは「久しぶりにゆっくり見る」と呟き、熱心に頭上を見つめている。
それはまるでエトワの天文台にいる学者たちのように、惑星と星座の位置から運命を占おうとしているようにも見えた。
占星術は一時異端とも捉えられていたが、今は学問としてロームルス王国でも研究を推奨している。ミルファには、月とそれ以外、くらいしか分からないけれど。
兎にも角にも、ルシアーノがこの小さな余興を楽しんでくれているらしいことが嬉しかった。
「明日いっしょに教会へ行こう。この一週間はどう過ごしてた?」
「ああ。部屋で本を読んだり……だな」
「本って……持ってきたやつ?」
家令からも聞いていたが、ルシアーノはほぼ部屋から出ずに過ごしているらしい。それでどうやってその筋肉質な身体を維持しているのか、激しく疑問だ。
ミルファはどれだけ鍛えても一定以上の筋肉はつかなかったので、体質とは残酷なものらしい。
もっとあれしたいこれしたいと、意思を主張して欲しいのだと使用人からも声が上がってきている。
家にいてもできる娯楽はあるし、外に出てもいい。彼が豪遊なんてしないだろうと、既に使用人から信頼を得ていることだけは嬉しかった。
ルシアーノが持ってきた荷物は少なかった、とミルファは出会った日のことを思い返す。あの中に入っていた書籍といっても、数は高が知れている。
「読書が好きなの? 数は多くないけど、僕の書斎から自由に持って行っていいよ。あとは、そうだな……教会のあとに新しい本でも見に行こうか」
「ありがとう。でも新しい本は不要だな。書斎の本を読み切ってから考えるよ」
「えー。もっとなんか、やりたいことないの? ずっと家にいたら退屈しちゃうでしょ」
「うーん……これまでもずっと家にいたから、退屈だと思うこともなかったな……」
ルシアーノは静かに星を見上げている。
外に出るのが好きなミルファは驚きを隠せなかった。ルシアーノはとびきりのインドアらしい。
グラスに入ったぶどう酒に映る月のように、目をまん丸く広げたミルファはパチっと閃いて開いていた口を閉じた。
(そっか。ずっと看病してたんだ……)
セリオ侯爵が伴侶を得てから、社交界に姿を見せたという噂は全く聞かなかった。夜会どころか二人で出かけたりすることもなく、病床の夫を置いて遊びに出るような性格でもないのだろう、彼は。
ルシアーノは誠実な男に見える。セリオ侯爵に付き添い、静かに本を読む以上の娯楽を求めなかったに違いない。
ミルファは胸をぎゅ……と柔らかく握られたような心地になった。彼に初めて会ったとき、力強い容姿に驚きつつも、繊細そうな危うさを感じたのは間違いではなかったのだ。
ルシアーノを外に連れ出して、その白皙の肌が日焼けするほど楽しいことをたくさん教えてあげたい。大人になってからでも趣味や好きなものを見つけるのに遅いことはない、とミルファは身をもって知っている。
「馬は乗れる? ルシアーノ」
「え? いや……実は馬車以外乗ったことがなくて……」
月明かりに照らされた白い肌にさっと朱が差す。意外だ、と思ったもののミルファは素直すぎる感想を胸にしまった。
寝椅子から身を乗り出して、隣に座っているルシアーノの手を上から握る。大きな手はちゃんと温かくて、なんだか安心した。
「よし! じゃあ明日は馬を買いに行こう!」
「は……? 買う……って、どういう…………」
「そのまんまの意味だよ! うちの馬たちはルシアーノが乗るにはちょっと小さいから、君が乗れる馬を買おう!」
「――はぁあっ!?」
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