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10.遠乗りと雨降り
キュッと手綱を引き、馬の足を止める。深い森の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「見て! これがラッチ湖だよ」
「うん……綺麗だ。思ったよりも大きいな」
「常歩で一時間くらいかな。景色も綺麗だし、乗馬デートにぴったりでしょ」
ミルファは愛馬アウロスから降り、休憩しようとルシアーノに声を掛けた。彼と一月前に我が家へやって来たクレアも、すでに長年の相棒のような顔をしている。
湖へと流れ込む清流のそばで、縄に余裕を持たせて木に繋ぐ。二匹の牡馬はいつものように仲良く隣り合って水を飲み始めた。
ルシアーノの乗馬も板についてきたので、そわそわ待っていたミルファはさっそく休息日の遠乗りを提案したのだ。ラッチ湖はロームルス王国北西部にあり、景観の美しいことで知る人ぞ知る場所である。
王都から出発して、休憩を挟みながら約三時間。国王夫妻の外遊ついでのデート先に決まった場所を、ミルファは一度見ておきたかった。
目の前にはエメラルドグリーンの湖面が見渡す限り広がっている。中心部の青緑は濃く、縁の浅いところへ向かってグラデーションを描きながら薄くなり透明に溶けてゆく。
湖を囲む針葉樹林とその背後の山脈が湖面に映り込み、まるで景色を閉じ込めた宝石を見ているようだった。
穴場といえるくらい人里から離れているし、遠乗りする人は来るだろうけどタイミングが良かったのか人けはあまりない。遠くにちらほらと釣りをしている人影が見えた。これなら当日の人払いも楽そうだ。
今日のように晴れていればいいが、天候には注意しなければならないだろう。万が一雨天になったときの代替案はあるけれど、これだけ絶景の眺めであればぜひ見ていただきたいなと思う。
ミルファたちは持参してきた敷布を木陰の下に広げ、料理人に準備してもらって持ってきた軽食をとった。
木々の間を抜ける風の音、小鳥の囀り。光の加減で絶えず眺望を変える湖を背景に、どんぐりを両手に抱え頬袋を膨らませたリスが横切っていく。
ぶどう酒を片手にゆったりと過ごすひとときは、何ものにも代えがたい時間だ。
「あ〜〜〜、三日くらいここで過ごしたいねぇ」
「……俺もそう思う」
「やっちゃう!? ちょうど明日も休みだし。僕さ、野営とか憧れてたんだよね」
「さすがに準備もなしには厳しいだろう。屋敷の人たちに心配を掛けるし、何より夜はかなり冷えそうだ」
「ちぇっ。真面目だなぁ」
冗談八割だったけど、冷静に返されてミルファはいじけた。ごろんと寝転がると、見上げた先のルシアーノは優しく温かいまなざしを向けてくる。
目が合うと心臓が跳ねて、ミルファは視線を逸らす。頬が熱い。日光が顔に当たらないよう、ルシアーノが身体をずらしてくれた。
――薄々自覚している。あの夜会以来、自分はこの男に惹かれて始めているのだと。
もう夫婦なんだから普通は好きになっても問題ないはずだが、自分たちはそういう関係とは違うのだと思う。子も作れないし、心のどこかで、いつかルシアーノはいなくなってしまうんだろうなと感じていた。
一緒にいるときも、彼はたまに遠くを見ている。ミルファではないどこか。
誰かに思いを馳せているような……。きっと、元夫のセリオ侯爵のことがまだ好きなのではないかと思う。
それなのに、一緒にいればいるほどこの気持ちは加速してしまいそうで困る。こんな好みど真ん中の男、そうそういないし。近寄ると香ってくる、優しいグリーン系のコロンも好みだ。
初日の覚悟のように、ミルファが望めばルシアーノは身体をも差し出すだろう。しかし一方通行のまま想いを遂げてしまえば、その先ずっと何かが拗れていきそうな気がした。人生は、掛け違えたボタンみたいに戻ってやり直すこともできない。
何よりミルファがルシアーノに望まないことをさせたくなかった。そもそも肉欲というより、目が合うとドキッとしたり偶然手が触れてドキッとしたり、それだけで心臓が忙しい。
好きだと勘付かせてギクシャクするよりも、いまの良好な関係をなるべく長く保ちたい。毎日一緒にご飯を食べてたまにふたりきりで出かけられるだけで、充分贅沢なのだ。
食事を終えたミルファたちは、もう一度乗馬して湖の周りをゆっくりと歩いた。
ちゃんとした下見は当日随行する近衛騎士がやってくれるから、ミルファはこの場所からの景色が一番いい、などのちょっとした情報を集めていく。長官に伝えて有用な情報と判断されれば、国王陛下にも伝わるだろう。
対岸あたりまで来ると、到着したときに見えた釣りの人影はもうなかった。いまは湖の周囲に誰も見当たらず、この世界でふたりきりになってしまったような物悲しささえある。
急にそう感じた理由は見上げた空にあった。グレーの雲が西から広がり始め、まだ高い位置にある太陽まで覆おうとしている。
冷たい風が吹き、雲の動きも早い。どことなく景色はくすみ、みんながどうして早々に帰ってしまったのか遅ればせながら理解した。
「ひと雨来そうだな……すぐに止めばいいが」
「雨宿りできる場所なんてあったかなぁ。でも、小雨で済むか……も……!?」
ミルファが呑気な発言をした瞬間、ポツッと大粒の雫が顔に当たった。あ〜もう降ってきちゃったな、と心のなかで思った直後、バケツをひっくり返したような大雨がザァザァ降り出す。
視界も途端に悪くなり、「聞いてないよぉ〜!」という嘆きも「おい! クレア!」という慌てた声も雨音にかき消された。
ミルファの馬アウロスだけは泰然としていたものの、ルシアーノの乗ったクレアが勝手に木の下へと歩き出したので追いかける。開けた湖のそばから樹林に入り込むと、少しだけ雨の音や勢いは弱まった。
とはいえ、細くまとまった葉を伝って大粒となった水がボタボタと落ちてくるのも、かなり冷やっとする。なんとか会話だけはできるようになり、ミルファはルシアーノとこれからの方針を話し合おうと顔に張り付いた髪を払った。
「ねぇ、ルシ……あははっ。もう……びっくりするくらいびしょ濡れだねぇ!」
「言っとくけど、ミルファも同じ状態だからな?」
髪も服もずぶ濡れでぴったりと肌に張りついている。もう笑うしかなかった。
二人してこんなみっともない格好を晒して、ここから屋敷まで三時間もあるのだ。いったいどうすればいいのだろう?
「ひどいよ、これ。どうする? 雨が止まないと、帰るの無理だね……」
「休める場所を探そう。これだけの規模の林なら、狩猟用の小屋くらいあるはずだ」
自分たちの来た方向には小屋なんて見当たらなかった。しかしちゃんと見ていなかっただけの可能性もある。宿のありそうな町からも距離が離れているため、手当たり次第歩いて探すしかない。
徒歩じゃなかったのは不幸中の幸いで、それでも足元がぬかるんでいるためスピードは遅い。木々の根が張り出しているから馬たちに無理はさせられなかった。
服が水をたっぷりと吸って身体が重い。雨は一向に止まず、体力と体温が奪われていく。時間が経つごとに当初の高揚も鳴りをひそめ、口数は少なくなった。
いったいいつになったら雨宿りできるんだ……? 国王夫妻が訪れたときも天気が急変したらどうするんだろう?
あ、ちゃんと目を凝らしてなきゃ小屋があっても見逃しちゃうな。あぁ、寒い。
まとまりのない考えが浮かんでは消えてゆく。何度も身体の芯から震えが湧き起こり、いつしか注意力散漫になっていた。ボタッボタッと不規則に落ちてくる雨粒と、馬の足が水たまりを踏む水音。
――なにか話したほうがいい、とミルファがぼうっとする頭を振って口を開いたときだった。ルシアーノがある一点を見つめ指さす。
「ミルファ、あそこ……」
「ん……? あ。こ、小屋だぁ〜〜〜っ……」
見つけた瞬間わっと喜んだものの、疲れ切っていたせいでそのまま脱力してしまった。アウロスのたてがみに上半身を預け、ミルファはそのまま馬と一体化してしまう。
ルシアーノの視線の先には拓かれた空間があり、小さな木の小屋がぽつねんと建っていた。足元をよくよく見れば細い歩道が湖の方向から小屋へ伸びていて、晴れていたらもっと簡単に見つけられたかもしれない。
馬の足が止まったことを感じても、ミルファは動けなかった。先に下りたルシアーノが小屋の様子を確認しに行く。
「よかった……やっぱり俺たちみたいな人のために建てられているみたいだ。最低限の物は置いてあった。さぁ、行こう。――ミルファ?」
人里から離れた地で、狩猟や釣りに出かけた人が天候により帰れなくなったときのため、こういった小屋は用意されているのだ。やっと見つけた休息地に、ルシアーノが明るい声音で話しかけてくる。
助かったね、早く休もう。そう返したいのに、ミルファは馬上でうつ伏せになってから目眩がひどく、言葉を発する余裕がなかった。
「ミルファっ! 下りられるか? ……くそっ、引っ張るぞ」
ぐったりとしているミルファの腕を片側から引き、重力に従ってずり落ちた身体をルシアーノが受け止める。自分の身体でさえこんなに重いのに、どうして彼はミルファを抱き上げられるのだろうとぼんやり思った。
ルシアーノはアウロスに「ここで待っててくれ」と話しかけ、小屋の中へと入っていく。薄暗くて室内はよく見えないが、ひと間しかなさそうだ。
ミルファは一脚だけあった椅子に座らされ、膝を抱えて小さくなってブルブルと震えた。すごく寒い。頭が痛い。
一旦外に出ていたルシアーノが戻ってきた。暖炉の前に無事だった敷布を絨毯の上に広げ、ミルファをそこで寝かせてくれる。
次に置いてあった道具でランタンに火を灯し、部屋の隅に置かれていた薪を暖炉に運び入れる。手が濡れていると作業がやりにくそうだ。なんとか火打石で薪に火を灯し、燃え広がると部屋が一気に明るくなった。
瞼の裏に光を感じたミルファは、うっすらと目を開く。心配そうにこちらを見つめ、濡れた紺青の髪をかき上げたルシアーノはこんなときでも色気を感じさせるんだからすごい。
身体の中にまで火が灯った気がして、暖炉の熱か自分の発熱か、ミルファは混乱した。
「顔が赤いな……大丈夫か? 熱が出てきたんだろう。苦しいところはあるか? ああもうっ。すぐに気づかなくて悪かった……」
ひどく後悔するルシアーノに重病人のような扱いをされて逆に居た堪れなくなる。馬上にいたときはしんどかったけど、本当にただの風邪だと思う。
なにしろ身体が冷えてしまった以外体調不良の心当たりがない。ミルファは最後に発熱したのが記憶にないくらい、ここ数年は健康体だったのだ。
「大丈夫だって……寒いだけでただの風邪だよ? ちょっと休めば治るから、心配しないで」
「心配するだろ……。帰るのは明朝にしよう。無理したら絶対に駄目だからな?」
「……はぁい」
真剣に諭されて、素直に返事する。眉根に皺を刻んでいるルシアーノの方こそ顔色が悪いように見えた。あまり心配させないよう、明るい声を出してみる。
ちょっと口角も上げてみたけど、直後に身体の芯から湧き上がった悪寒に身体を震わせてしまった。
「あぁ、もっと身体を温めた方がいいよな……。なにか使えそうなものがないか探してみよう」
ルシアーノが全ての棚をひっくり返さんばかりに探索を始め、寝転がるしかできないミルファは申し訳なさで胸がいっぱいになる。
部屋に運ぶだけでも大変だっただろうに、まだあれこれと考えてくれるなんて。使用人ならまだしも、彼にはなんの対価も与えられていないのだ。
ルシアーノが探し出した掛け布を持ってきて、ぱたりと動きを止めた。いったん掛け布は椅子に置き、ミルファに近寄ってくる。
その手がミルファの服を脱がし始めたとたん、まだ震えていたミルファはぱちっと目を見開いた。
「え……ッ! なに……!?」
「濡れた服を乾かさないと。着ている方が冷えるだろう?」
ミルファは下着まで雨で水浸しになっていることを分かっていた。持ってきた荷物に着替えはない。つまり……
「裸になっちゃうじゃん!」
「だから掛け布に包まろう。俺が温めてやるから」
俺が…………???
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