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11.ふたりきりの山小屋

 待って、いや、あっ。それだけは……!  暖炉からの熱気と雨の当たらない場所にいることで少し元気を取り戻していたミルファは、身体こそ重いものの口は達者に抵抗してみせた。  一緒に風呂くらいなんてことない、と思っていた頃が懐かしい。濡れた服を一枚剥がれるごとに心許なさと羞恥が襲ってきて、最後の一枚を奪われたときは顔を覆ってシクシクと泣き真似までして見せた。    すぐに布で包まれたおかげで助かった……と息を吐いたのも束の間、ルシアーノが同様に脱いだときには「はわ」と声にならない声を発するほかない。  もともと良い体格に、なめらかな筋肉が乗っている。均整のとれた身体は、脱いだ方がその美しさが際立つことを知ってしまった。  ルシアーノは脱いだ服をミルファの服と一緒に絞り、室内に干す。    横になった状態で、そこまで指の隙間からしっかりと見ていた。そんなミルファでもルシアーノが最後まで身につけていた下履きに手を掛けたときは、さすがにぎゅっと目を閉じた。  正直に言おう。興味はある。  見てみたい、と思ってしまったとはいえ……惹かれ始めている男を独占している今の状況でそこまで自分に許してしまうと、ミルファはこれ以上なく残念な人間になってしまう気がしてやめた。 「ミルファ、入れてくれ」 「はぇっ!?」 「掛け布は一枚しかなかったんだ。嫌だったら無理にとは言わないが……直接抱いた方が温かいだろう。緊急時だと思って我慢してくれないか? ミルファの身体のためなんだ」 「い、いやじゃ……ない……です……」  決して欲に負けたわけではない! ミルファが意地を張ると、ルシアーノは素っ裸で服が乾くまで待つつもりなのだろう。いまこの状況で、人肌で温め合うというのは合理的だと判断したまでだ。  きつく握りしめていた手をゆるめ掛け布を解放すると、するりと背中側に身体が滑り込んできた。ひやっとしたのも一瞬で、すぐに圧倒的な温かさに包みこまれる。  あったかい……。筋肉量が違うからなのか、自分の身体よりも熱く感じた。  背中にルシアーノの胸がくっついている。脚は絡められ、右腕は腹にまわり、左腕は首の下に差し込まれた。横を向いているから腕枕がちょうどいい高さだ。尻に当たるのは下生えだとかその下にあるもののことは考えない。  長時間身体を冷やし続けていたミルファにとって、薄い掛け布の中は温もりで極上の空間になっていた。それはきっとルシアーノにとっても同じなのだと信じたい。実は嫌々……だったりしたら泣く。  ドキドキしたり感動したり絶望したり、とっ散らかっていたミルファの頭に右手が置かれた。ルシアーノは乾きはじめた髪を手ぐしで整え、額に手のひらを当ててくる。 「熱が上がってきてるな……くそっ、すまない。こんなことしかできなくて……」 「なんで謝るの? すごくあったかい……ありがとう。こっちの方こそ、ごめんね迷惑かけて……」 「病人は余計なことを考えるな。寝られそうなら寝たほうがいい」 「ありがと……ちょっと寝るね。ん〜〜〜。ルシアーノの肌、きもちいぃ……」 「…………」  やっと訪れた心地よい休息に思考がふわふわしてくる。寝ていいと言われたらすぐに眠くなってしまった。  額に置かれていた右手を両手で捕まえる。自分の左手で指を交差させて繋ぎ、右手で甲を包み込む。なんだか祈るような体勢になってしまったので、ついでにルシアーノの幸せを祈った。  彼が屋敷に来てから、ミルファの人生に彩りが増した。驚く出来事も多いけど、楽しい。それが結婚というものなのだと思う。異なる人生を歩んできたもの同士が、一つ屋根の下で暮らすこと。  ミルファにとって良い決断だったが、ルシアーノにとってはどうなのだろう。優しいから嫌だと感じても綺麗に隠してしまいそうな彼が、本音の部分で不幸だと感じていないことを祈ろう――   「ん……」 「ミルファ、起きたか?」  目覚めてすぐ、朝じゃなさそうだな、と思った。背中側にあるものは固くて、寝台じゃない。ここはどこだ?  全く見覚えのない天井に身体を強張らせたミルファは、ルシアーノの顔が見えるとほっと力を抜いた。  視界に映る彼の姿は肩にシャツを羽織っているだけで、とんでもなくセクシーだ。なんで半裸……? と疑問に感じたきっかけでミルファはやっと経緯を思い出した。  まだ熱っぽいが、ここへ来た当初ほど身体は辛くない。そこまで熱が上がらなかったのだろう。この調子でいけば早朝には出発できるかもしれない。  そうルシアーノに伝えようと口を開いたとき、脚に刺激を感じてミルファは悲鳴をあげた。 「うひゃぁ!?」  驚いて視線を下げると、膝を立てたミルファの脚をルシアーノが濡れ布で拭いているところだった。肩から鼠径部までは布で覆われているけれど、未だ丸裸であることには違いない。 「ひぇ……」 「勝手にすまない。汗をかいていたから……拭いたほうがいい。もう終わるから」 「そんなことまで……あ、ありがとう」  全身を拭いて脚で終わるところだったらしい。ミルファは自分が途中で目覚めなかったことに感謝した。どこまで丁寧に拭いてくれたのかは分からないが、起きていたら平常心ではいられなかったに違いない。  発熱の汗でベタベタだったはずの身体はおかげですっきりとしている。背中を抱き起こされて水をもらいながら、ミルファはしみじみ思った。 (ルシアーノ、看病し慣れてるな……)  その理由には心当たりがある。彼はセリオ侯爵の人生の最後を共にしたのだ。伴侶として彼が献身的に介護していたことは想像に容易かった。  好きな人の最期を看取る経験は、どれだけ彼の心に傷を残しただろう。ミルファの世話をさせる時間が、彼のつらい記憶を刺激してしまうかもしれない。そう考えると、やはり彼の前では元気でいたいと思う。  身体は丈夫な方なのに、どうして急に、雨に降られたくらいで……。でも二十代前半の頃よりは確実に疲れやすくなってきているのを感じる。これが歳を取るということか。  これからは今まで以上に健康を意識した生活を送ろう、とミルファは密かに決意した。  窓の外はもう真っ暗になっている。記憶も曖昧だが、ここに到着したときはまだ日も暮れていなかったはずだ。  湖から離れすぎないように休める場所を探して、結局一時間以上彷徨ってしまった気がする。それなら戻って町で宿を取ったほうがよかったのかもしれないが、後の祭りだ。  後悔しても仕方ないし、こうなっては夜明けを待つしかない。  ミルファの顔色が良くなったことに気づいたルシアーノが、残っていた食料を一緒に食べようと持ってきた。  屋敷の料理人が昼食以外に、行きと帰りの分のおやつを持たせてくれていたのだ。半日くらい食べなくてもなんともないとはいえ、やっぱりあると嬉しい。  沸かしたぬるま湯を飲み、干し果物をちびちびやりながら、ミルファは今さらながらさっきまで裸で温められていた事実を思い返し恐れおののいていた。  いくら朦朧としていたからって、僕は、とんでもないことを……!  今だって暖炉を正面に、ルシアーノに背を預け余す所なく温められている。それさえも、先の急な濃厚接触と比べればなんてことないと思えるのだから不思議だ。    しかもルシアーノはすでに下着を身に着けているのに、まだ完全には乾いていなからとミルファは服を着せてもらえなかった。  もはや布でぐるぐるに包まれるのがデフォルトになっている。うっかり慣れてこのまま屋敷に帰ってしまったらどうしてくれるんだ。 「あーあ。ルシアーノの初めての遠乗りでこんな災難に見舞われるなんて……」 「ははっ、おかげで忘れられない経験になったよ。それに遠乗りなんて一生縁がないと思ってたから……なんだかんだ言って楽しさが勝つかな。ありがとう」 「えへへ。また違う場所も行こうね! ……けど僕さ、友人と狩猟に出かけたときもイノシシに追いかけられたり、観劇してたら主役の俳優さんがプロポーズされてそのまま駆け落ちしちゃって最後まで見れなかったり……ちょっとしたトラブルが多いんだよ〜。……あれ? てことはやっぱり僕のせいか……ごめん」 「いい。それにしても……多趣味だな」  楽しいと言ってもらえてふわりと心が浮ついた。ミルファが後ろを振り向いて自分の運の無さを懺悔しても、ルシアーノは感心して目を丸くするだけだ。  多趣味、なのだろうか? ミルファのやっていることは、都市貴族としてはありふれた娯楽だと思う。 「ルシアーノは、ないの? 読書以外の趣味とか……あっ」 「特になかったが……クレアは可愛いな。動物がここまで心癒されるものだとは知らなかった」 「でしょう!? 馬って頭もいいし、最高の相棒だよ」  聞いてしまってから、礼儀を欠いた発言だったかと後悔した。しかしルシアーノは殊の外クレアを気に入っているようだ。  馬を買おうと提案してみてよかった。ミルファも動物が大好きなのでつい気分が高揚してしまう。 「本当だな……。今まではヤーヌスが動物の近くに寄るとくしゃみが出るって言って、寄せ付けなかったんだ」 「それは……セリオ侯爵?」 「ああ。そういえばちゃんと話していなかったな……」  ルシアーノが懐かしむように目を細めセリオ侯爵の名前を口にしたとき、心臓が軋んだ音を立てた。彼の過去を知りたいのに、聞きたくない。自分勝手な感情に蓋をするように、ミルファは奥歯を噛み締めた。 「俺が平民だったことは察しているだろう?」 「うん……最初はわかんなかったけど、教会で名前を見て」 「そう、だったな……。あの人は偶然俺がアルファだと気づいて、拾ってくれた。もちろん理由はあった。不治の病であることを分かっていて……最後まで看取ってほしいと持ちかけられた。契約だったんだ。最初は」 「契約、だったんだ……」  ミルファは素直に驚いた。  ということは、結婚する前からセリオ侯爵は自分の死期を悟っていたことになる。セリオ侯爵は病気の看護のためにルシアーノを選んだのだ。  結婚という選択でなくても良かったように思うが……侯爵にまでなると様々な家の事情があるだろうし、病気のカモフラージュという意味もあったのかもしれない。  それなら平民のルシアーノを選んだ理由もわかる。出自が貴族でなければ、謎多き侯爵夫人を謎のままにしておきやすい。  きっとセリオ侯爵もアルファらしい体格だっただろうし、看護してもらうならルシアーノのような頼もしい男性の方が安心だ。あえて二次性にアルファを求めたのは、目的は看護とはいえ、より高い能力を求めていたのか。  『最初は』と付け加えられた言葉に、途中からは契約を超えた関係になっていたことがわかる。やっぱり愛し合っていたんだ……  自分はこんなにも惹かれているのに、ルシアーノはミルファに何も感じていない。彼の向いている方向はこちらじゃないのだ。  胸がずきずきと痛み、奥歯が震えた。だめだ。もう一度ぎゅぎゅっと自分勝手な感情を押し込む。 「ヤーヌスは物知りだった。五年間のあいだに、いろいろ教えてくれたよ。ミルファのことも聞いていた」 「うぇっ。僕のことも?」  会ったことがないのに、どうして知っていたんだろう? しかしセリオ侯爵ともなれば、家にいても貴族界の情報を入手できる手段を持っていたに違いない。  ミルファはルシアーノが家に来た日、「聞いていたとおりだ」と言われたことを思い出した。 「優しくて、損をするタイプだと言っていたな」 「あ、あはは……」 「俺と気が合いそうだ、とも。……だから婚姻の申し込みがあって嬉しかったよ。二次性を隠して、騙すように受けて悪かった。契約だったからそれなりに金もある。ミルファに欲しいものがあれば、なんでも」 「ううん、いいんだ。契約だったとしても……大変だったでしょう? つらかったよね。大事な人を見届けて、すぐに忘れられるはずないもの」 「……ああ」  ミルファは強い気持ちで人を愛したことがない。けれど最も身近にいる人が弱っていって亡くなるまでを見届けてしまったら、簡単に忘れられないことくらい分かる。  契約でしかない関係だと思っていないと、やっていられなかったかもしれない。ルシアーノの気持ちを想像するだけで、苦しくなるほどつらかった。  ミルファはルシアーノの右手を取り、左胸の肌の上に直接置いた。彼の手の上から自分の両手を重ねる。  とくとく、鼓動と熱を感じるように。 「ほら、僕はまだまだ長生きできそうだ。風邪だって滅多に引かないし、病気で仕事を休んだこともない。こんな状態じゃ説得力ないけど……放っておいても治るくらい回復力には自信があるんだ。ルシアーノの手を煩わせることはないよ。安心してそばにいて欲しい。――君の気が済むまでは」 「…………」  背中から両腕が回ってくる。ぎゅうと抱きしめられて、ルシアーノの顔は見えなくなった。やっぱりくっついてると温かい。  ミルファの体調不良に、過剰なくらい後悔して心配したルシアーノ。もっと気楽に考えてほしい。自分たちは強く生きているのだと、自分を責める必要はないのだと、彼にわかってほしい。  身体がまた芯からぽかぽかとしてきて、眠くなってくる。回復のために睡眠を欲しているのだ。  次に起きたらもう動けるくらいにはなっているだろう。そんな確信を持って、ミルファは意識を手放した。  だからそのすぐあと、ルシアーノが口にした呟きは、耳に届かなかった。 「ミルファを選んでよかった……」  小屋の外では雨が止み、荒天だったのが嘘みたいな星空が天に広がっている。

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