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39.最終話 光の中へ
「じゃあ、行ってきます!」
「待て、待て、ミルファ。本当に日を改めたほうがいいんじゃないか?」
久しぶりに王宮の文官が纏うマントを身に着けたミルファは、意気揚々と玄関ホールに向かう。
今日から王室家政長官局へ復帰することになっているのだ。外では侯爵家の紋章が入った馬車がミルファを待っている。
しかし張り切るミルファをルシアーノは心配そうな表情で見つめ、引き止めてくる。振り返って立ち止まったミルファの両肩に手を置いた。
昨晩食事があまり進まなかったことを気にしているらしい。眉を下げて顔を覗き込んでくるから、ミルファはもう何度も見た表情だなと感じて苦笑した。
「ルシー、過保護すぎない? 昨日は今日のことを考えて緊張しすぎちゃっただけだって」
「じゃあ、やっぱりやめたほうが……」
「僕が行きたいんだってば! 楽しみな気持ちのほうが大きいし、今日さえ乗り越えれば緊張も続かないよ。それに、働いてもいいって言ってくれたのは嘘だったの?」
「う。いや、まぁ、そうなんだがな……」
アルファが番であるオメガに対して過保護になる、というのは巷の噂で知っていたが、相手が華奢で可憐なオメガだからこそだと思っていた。
なのに蓋を開けてみれば、こんなミルファでもルシアーノは家に閉じ込めておきたくてたまらないらしい。
まぁでも、それは元々の性格によるところが大きいだろう。彼はミルファを喪いたくないのだ。これまで何度も一人になってきたから――。
こんな健康な男を捕まえて何を心配しているんだと、何度も伝えたのだが駄目だった。だからこれから元気な姿を見せ続けて、理解してもらおうと思う。
(発情期明けなんて、長いこと病人扱いだったな……)
オメガになって初めての発情期は、一人だったし思い通りにならないことばかりで精神的にも疲弊し、終わってから寝込んでしまった。
とはいえこの前は二度目だったし、なにより一人じゃなかった。使用人たちの手厚いサポートとルシアーノの甲斐甲斐しいお世話のおかげで、ミルファは発情期をかなり元気に終えることができたのだ。
それでも約一週間、性欲が食欲や睡眠欲を凌いでしまうのは致し方ない。発情のフェロモンが落ち着いてお互い我に返ったあと、ちょっとやつれたミルファを見たルシアーノは血相を変えた。
元気だと言っているのに寝台から起き上がることを許してもらえず、やわやわのご飯しかしばらく与えられなかった。さすがに心配しすぎだと思う。
けれど番関係になれたことで今後は他のアルファに襲われる危険性も減るため、ミルファはルシアーノを説得し職場復帰の許可をもらうことができた。
実はこれは、凄いことなのだと先日侯爵家のほうまで往診に来てくれたマイラ先生は言った。
「私は応援していたけどね。やっぱりアルファは手の届くところに番を置いておきたいものだから、まあ無理だと思ってたんだ。いやー、快挙だ! さっそく侯爵を尻に敷くなんて、やるねぇミルファ君」
「えっ? 尻に敷くなんてとんでもない!」
アルファの執着は、ミルファが想像していたよりも強いのかもしれない。散々マイラにイジられたぶん真実味があり、ミルファはルシアーノの心の広さに深く感謝した。
共働きで食い扶持を稼がないといけない平民ならまだしも、そもそも貴族の夫人というのは家を守るものである。
使用人を含めた家のことを取り仕切り、客人をもてなす。そばにいて夫を支え、有事の際には夫の代わりに立つことだってあるのだ。
しかしルシアーノはその義務を免除してくれた。これまで当主不在でも上手くやっていたほど侯爵家の使用人は優秀だ、と言って。なんて優しい人なんだろう。
もちろんミルファは王宮で働きながら家のこともやるつもりでいる。小さな屋敷だったが、これまでだって一人でそうしてきたのだから。
例えばルシアーノが領地で仕事をしなければならないとき、王都邸を守るのは自分になる……はずだ。連れて行くって言ってた気もする。
社交だってまだ慣れていないルシアーノを隣で支えたい。高位貴族となってしまったため、これまでみたいに呑気な交流じゃだめなんだろうけど。
マイラはあれこれ喋りながらミルファの身体を簡単に診察したあと、「ん?」と首を傾げる。何かに気づいたように、ハッと一瞬目を輝かせた。
「食欲は?」
「ありますよ」
「悪心とか、昼間の眠気は?」
「いえ、特に?」
「……気のせいか。さすがに早すぎるよなぁ……」
今度はミルファが首を傾げる番だった。もっとも、その時ルシアーノが部屋まで様子を見に来たので、また「過保護だ」とにやにや笑われて小さな疑問はすぐに忘れてしまった。
「今日、ルシーは? ずっと家で仕事?」
「あぁ、いや。王宮へ訪問する予定があるから、昼は一緒に食べないか?」
「…………」
「違うっ。本当に呼ばれただけなんだ!」
ミルファがジ……と疑いの目で見つめると、ルシアーノは焦ったように弁明した。
どうやら午後に国王様と非公式な会合があるらしい。近々王家主催の夜会があるが、その前に新侯爵と顔合わせしておきたいのだろう。セリオ前侯爵から引き継いだ仕事なりがあるのかもしれない。
ミルファを見守るためにわざと王宮での予定を入れたのかと思った。それでも、わざわざ早めに来てミルファに会おうとするところがちょっとかわいいな、と思ったり。
こんな立派な人に対してかわいいと感じるなんて変な話だが、ミルファに向かって一生懸命なところを発見するとそれ以外の言葉が出てこないのだ。
胸の中がほわっと温まり、わくわくする気持ちが湧いてきた。ミルファは瘡蓋がなくなっても赤い噛み跡が残る項を、そっと指先で撫でる。
髪で隠れて他人からは見えないけれど、確かにそこにある、ミルファがルシアーノと番った証拠。
突然オメガになってしまってから、約四か月ぶりの職場だ。自分の二次性を局内で隠すつもりはないし、いずれ局外の人にも露見してしまう可能性は高い。
しかもいつの間にやら侯爵夫人になっている。あちこちで噂になって、注目を浴びてしまうのは想像に容易い。
少しだけ、怖い気持ちはあった。同僚たちにどんな目で見られるか、どんな反応をされるのか。身近な存在だったからこそ気になって仕方がない。
でも過保護な夫と、父親みたいな長官、大事な友人であるユノがいる。家に帰ればやっぱり過保護な使用人たちがいる。
それだけ味方がいるのだから――大丈夫。
「昼が楽しみになってきたな。みんなに旦那さまのこと、自慢しちゃうかも」
「ぜひ、そうしてくれ」
「? 珍しいね、そんなこと言うの」
ミルファは返された言葉に目を丸くして、精悍な顔を見上げた。ルシアーノの性格は夜会での印象で、可能な限り注目を浴びたくないと思っていて控えめだと思っていたんだけど……実は違ったのかな?
どっちだとしても好きだな、なんて浮かれたことを考えながら手を上げて、ルシアーノの耳たぶに触れた。そこにはミルファの瞳の色をしたピアスがついている。デザインはミルファが今つけているものと同じものだ。
シンプルだけど、宝石はルシアーノが何人もの宝石商を呼んで真剣に選んでいた。深い青と、薄紅色。色味は全く違うのに、どちらもサファイアだという。
どうしても結婚の証に贈りたいと懇願されて、ミルファが折れた。だって、「お揃いでつけたい」なんて言われたら……ね? ちなみに値段は怖くて聞けていない。
宝石に親指で触れると、ルシアーノの顔が近づいてくる。キスのお誘いになってしまったらしい。
口角のホクロが親指で撫でられ、自然に瞼を伏せた瞬間、唇が重なった。柔らかくて、温かい。触れ合ったところから甘やかな痺れが生まれ、全身に広がっていく。
(幸せだなぁ……)
――ルシアーノに婚姻の申し出をしたときは、顔も二次性も過去も、何も知らなかった。顔を合わせてからはアルファだったことに驚いたけれど、どんな事情を抱えていても受け止め養ってあげようと意気込んでいた。
一度疑心暗鬼になってルシアーノを追い出してしまったことは後悔しているものの、仕方がなかったとも思う。その後は攫われたり記憶をなくしたり襲われたり、なんだか想像以上のトラブルに見舞われたけど、また一緒になることができた。
一連の事件が必要だったとは言い難いが、なにも無ければここまでの絆を感じることもなかっただろう。
ミルファが後天性オメガだったことは、ひとつのきっかけに過ぎない。たぶん、ベータのままだったとしてもいずれはこうなっていた気がする。
疑っても傷ついても憎みきれないくらい、ミルファはルシアーノのことが好きで仕方がなかったのだから。
「ルシー、大好きだよ」
「行かせたくなくなる……」
唇を触れ合わせたまま囁くと、苦しいくらいにぎゅうぎゅうと抱きしめられる。ミルファはあははっと軽やかに笑った。
「ミルファ様、御者が痺れを切らしておりますよ」
「わ!」
ディードーに声を掛けられて、飛び上がる。そこにはミルファを見送りに来た使用人たちが集まっていて、みんな苦笑しながらこちらを見ていた。
開けられた玄関扉から、初夏の柔らかな日差しが差し込む。新緑の匂いがするルシアーノから離れ、ミルファは光の中へと足を踏み出した。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃいませ」
「行ってらっしゃい。また、あとでな」
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