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1話 二人の旅の始まり

旅にハプニングはつきものである。 例えば電車を逃す、例えば切符を忘れる──そんなハプニングに見舞われた青年たちが、ここにもまた。 「あ、あーーー!!!!俺のキャップが!!!!!!!!」 「え、うそ、詩音くん…っ」 ここはフェリーのデッキの上、キャップをカモメに奪われた青年は葛葉詩音(くずは しおん)。 隣で慌てる女性…にも見える青年は白鶴未来(はっかく みらい)。 現在2人はまごうことなき旅行中であった。 ──時は三週間前に遡る。 「ねぇねぇ、みくちゃん?」 「ん…なぁに、詩音くん」 ここは詩音が一人で暮らすマンションの一室。このやりとりをかれこれ五分ほど続けているが、二人きりのため突っ込み役なんてものはもちろん存在しない。 見るに、詩音が何かを言いたげに口ごもっていたり首を傾げたりするのを、未来は穏やかに見守っているようだった。 「うーんと、んー……うぅん、あのね」 「うん」 意を決したように詩音が口を開く。 「あの…俺と旅行に行きませんか!?その、夏だし!夏だし…そろそろ俺たち付き合って一年、だし…こう、フェリーに乗って離島でバカンス、っていうの?どうかなって……」 吃りながらも矢継ぎ早に、一息で言い終えると、ふぅ、と息を吐いた。こういった純粋なお誘いにはよっぽど慣れていないのだろう、どうかな?と小声で伺うと、上目に未来を見る。 ともすれば、未来は詩音以上にこういったことには不慣れである。いつもは透き通るような白い頬が、見る見る赤くなっていった。 「えっ、えぇ、そ、んな…そんな……」 両手で頬を覆い、小さく震える未来。詩音にはこの上なく愛おしい生物に見えた。 未来の両手に自分の両手を重ね、その唇に軽く口付ける。 「一緒に行ってくれる、よね?」 ちゃんと自分の言葉で伝えたい。そんなに長く一緒にいるんだね、嬉しい、行きたい。 それなのに、恥ずかしさや嬉しさが喉の奥に詰まって上手く声が出せない。ただ今は、こくりと頷くしかなかった。 ──そして今日。 初めての旅行に備えて新調した服や水着をキャリーバッグに詰め込み、フェリーに乗り込んだ。 フェリーが動き出すと同時に沸き立つ心。デッキで海風を浴びようと2人で外に出た、その数分間の悲劇であった。 「そんな…俺の、俺のお気に入りがぁ……」 項垂れる詩音にかける言葉もない未来は、ただそのキャップが消えたピンクの頭を撫でることしかできなかった。 「残念、だったね…えっと…中!中戻って、ランチでも食べよう?」 変わらず頭を撫でつつ誘いかける。顔を上げた詩音は瞳に薄く涙を溜めながら、深く頷いた。 船内のレストランということで、正直あまり期待はしていなかった。 が、扉を開いた未来が目を輝かせる。 「す、すごいっ…ねえ、詩音くん!レストランすごいよ!」 すごいすごいと興奮したように繰り返す未来に連れられ入ったレストランは、それは豪華な内装だった。 低めの天井には控えめなシャンデリアが輝き、規則正しく整えられたテーブル、椅子は座り心地の良さそうな朱色のベルベットが貼られている。 食事はどうやらビュッフェ形式のようで、色とりどりの新鮮な野菜や和洋中の料理たちが、シャンデリアの光を跳ね返す。 そして驚くことにバーカウンターまでもが設置され、バーテンダーが酒を提供しているようだった。 「おお…思ってたより豪華かも」 「かもじゃないよ!ねえ、お酒も飲んでいいのかな…」 余談ではあるが、このフェリーは詩音の親族所有のものであり今日もその伝で一番高いチケットを用意してもらった。 つまり。 「飲み放題、だよ」 「本当に…!?詩音くん、だいすきっ」 「あらぁ、積極的。今日は好きなだけ飲もうね〜」 目を輝かせた酒好きが親の七光りにハグをする。 詩音はその喜ぶ様に満足そうに目を細めると、未来を抱き返してからバーカウンターへと2人で足を進めた。 「俺はとりあえずビールと…みくちゃん、何にする?」 「えっと…じゃあ、ファジーネーブルで」 「かしこまりました、席までお持ちいたします。こちらのベルを机上に置いてお待ちください。わたくし共をお呼びする際にも鳴らしてください」 バーテンダーが恭しく頭を下げ、赤いリボンのついた黄金色のベルを詩音に手渡す。 どうやらベルのリボンの色で席を判別しているらしく、座る席は自由なようだ。 カウンターから程近い席にベルを置くと、2人は食事を取るためにビュッフェテーブルへと向かう。 「何にしよっかな〜、俺ビュッフェ取る才能ないんだよねえ」 広いテーブルを見渡しながら詩音が小さく呟く。それを聞いた未来は、なにそれ、とクスクスと笑った。 「いや見れば分かる、見れば分かるから!お皿埋めたらテーブル集合ね!」 詩音は楽しそうに笑いながら、ビュッフェの海へと消えていく。2人で選んでも良かったのにな、と思いつつその様子を見る未来もまた、楽しそうに微笑んでいた。 「…で、だね」 テーブルの右半分に未来、左半分に詩音が運んだ皿が並ぶ。その様子に未来は、本日二度目の「かける言葉もない」を体験していた。 「えっと、うぅん……健康志向、だね?」 やっとの思いで言葉を捻り出して席に座る。詩音はそれを聞くと、力なく「ほらぁ…」と笑いながら席についた。 未来の皿に並んでいるのはバランスよく盛られたサラダ、隣には前菜のカルパッチョとカプレーゼに器用に小さく盛られたトマトパスタ、カップには彩りのいいほうれん草のポタージュ。 一方詩音はというと、スティック状に切られたきゅうりと大根が2,3本ずつ、カルパッチョの鯛が2枚とぐちゃぐちゃになったペペロンチーノ、おそらくカップと間違えたのであろう汁椀に入ったコーンスープ。 他の誰かが見たら本当に同じビュッフェなのかと疑う光景がそこにはあった。 「俺器用じゃないんだまじで、みくちゃんのがずっと上手だねえ」 「上手っていうか…その…詩音くんが下手っぴ、かな?」 言いづらそうに頬を掻く未来。するとそこに先ほどのバーテンダーがグラスを二つ手にやってきた。 「こちら、ビールとファジーネーブルです。ごゆっくりどうぞ」 彼はグラスをテーブルに置くと、軽く頭を下げて去っていく。 ビールはすぐに飲んでくれと言わんばかりに頭の細かい泡をシュワシュワと鳴らし、オレンジからピンクへと移り変わる様相を呈するファジーネーブルには、南国を思わせる花が飾られている。 「わぁ、きれい…」 未来はファジーネーブルを自分の方へ引き寄せ、マドラーをくるくると回してはまたカクテルの色が変わるのを楽しんでいる。 詩音はその様に愛しさを覚えずにはいられなかったが、とりあえず今は食事である。頭を撫でそうになる手を無理矢理ビールの方へと方向転換させ、未来のグラスと重ねる。 かちん、と景気のいい音を鳴らして乾杯を交わすと、すかさず潤いを欲する喉へアルコールを流し込んだ。 「くぅ〜っ…沁みるわぁ…」 「こっちも甘くて、美味しい」 ビールを片手に喜ぶ詩音はまるで水を得た魚、未来は顔を綻ばせてグラスをもう一度口元へと近付けた。 そのうちに、詩音はビールを飲み切ってしまう。それを見計らったように、バーテンダーがまた近付いてくる。人もまばらなレストラン内、どうやら、ベルを鳴らす必要はあまりないようだ。 「次の飲み物はいかがいたしますか」 「えっと…とりあえずまだビールで、おすすめのものをお願いしても?」 「かしこまりました。お連れ様は…」 「あ、僕はまだ…」 未来がそう遠慮すると、バーテンダーはニコリと笑って詩音のグラスを下げてカウンターに戻る。 詩音はその様子を眺めながら、大根のスティックを手に取るとディップソースにくぐらせて口に運んだ。 「遠慮しなくても、ぐいぐい飲んだらいいのにぃ」 「あ、あんまり酔うと…だめかな、って…」 「でも旅行中だよ?ハメ、外しちゃわない?」 これから悪戯をする子供のように口端を上げる詩音。未来は詩音のこの顔にめっきり弱かった。分かってやっているのだろうが。 「う、そ、そんな……っ!」 グラスに半分のファジーネーブル。未来はそれを手にすると、グッと飲み干した。 「ほ、ほんとは…喉渇いてて、一気に飲みたかったんだ…」 へにゃ、という効果音が似合うような、緩やかな笑みを浮かべると同時に、ビールを持ったバーテンダーがやってくる。 「ビールをお持ちしました。…おや、お連れ様も飲み干されたようで」 「ぁ、はいっ…その、カシスオレンジを…!」 「かしこまりました」 空いたグラスを手にバーテンダーは去って行った。詩音はなお、にやにやとしながら未来を見つめている。 「な、なに…?」 「ふふ…んーん、かわいいなと思って!」 詩音は愛おしそうに笑うと手元の野菜スティックにソースをつけて、今度は未来の口元へと運ぶ。未来はなすすべなく、それに齧り付くことしかできなかった。 二人のグラスがまた空になり、皿上の食べ物も無くなった頃。そろそろメインを取りに行こうと詩音が促す。 指差す方には牛のワイン煮込みや白身魚のムニエル、果ては鴨肉のステーキなどがずらりと並んでいる。前菜でお腹は三分目といったところだろうか、メインを食べるにはまだ十分に空きがあるようだ。 「うん、そうだね…わっ」 立ち上がると同時に未来がふらつく。先に立っていた詩音は間一髪それを受け止めたが、代わりにビールのグラスがゴトリと落ちた。床には柔らかい絨毯が敷かれているため、幸い割れてはいないようだ。 「び、っくりした!大丈夫?どこかぶつけたりしてない?」 腕の中の未来に問いかける。彼のその頬は先ほどよりも少し赤みが差していた。 「ん、大丈夫…ごめんね、あの、少し…酔ってる、かも」 「そんな、俺に合わせて飲まなくていいのに…」 グラスを拾いつつ詩音が声を掛ける。 詩音はかなりのハイペースで酒を飲むタイプであるが、未来はどうやらスローペースの方が身体に合っているようだった。大丈夫だよ、と言わんばかりに詩音が未来の頭を撫で、そしてその手を握った。 「じゃあ俺がお皿を持っておくので、みくちゃんはお皿に盛る係りをしてください!ほら、行こ?」 未来は多少周囲の目が気になるようだった。 男性同士、それも手を繋いで料理を取りに行っているこの状況、恥ずかしさと後ろめたさで手を振り解きたくなったが、それよりも嬉しさが勝ってしまう。公の場でも、こうして二人手を繋いでくれる恋人がいることへの。 「種類結構あるな〜!みくちゃんどれがいい?」 大皿を手に詩音が問いかける。とはいえ未来も、この品数から一つは選べずに頭を悩ませる。 「うーんと…これもおいしそうだし…あれも…」 しかし忘れてはいけない、ここにいるのは成人男性二人である。 「…全部、少しずつ取っちゃう?」  今度は未来が悪戯っぽく微笑む。詩音も嬉しそうに笑うと、メインディッシュの列の端へ未来を連れて行った。 「よし、全部取っちゃお!盛り付けはみくちゃんに任せたからね〜!」 やんちゃな少年、はたまた食べ盛りの学生のように、二人でメインディッシュを皿へと運んでいく。これで最後、と皿に料理を置けば、あんなに大きかった白い皿は、隙間なく料理が置かれた豪華なプレートになっていた。 ついでにバーカウンターに近付き、飲み物の注文も済ませた。 あとはテーブルに戻ってお腹を満たすだけだ。 テーブルに戻ると、すでにワインと薄めのファジーネーブル、そしてチェイサーが置かれていた。 「あ、飲み物早いな〜。じゃ、いただきますか」 「チェイサーも、頼んでくれたんだ…ありがとう詩音くん。じゃあ…」 「「いただきます」」 二人で声を揃え、各々が気になっていた料理に手をつける。 柔らかく脂の乗った肉料理を飲み物で流し込み、次はレモンの乗った魚料理。さっぱりとした口の中に今度は鶏肉を放り込み、歯応えを楽しんではまたグラスを口へ。 詩音のワインはあっという間になくなり、次を注文する。未来はチェイサーを挟みつつちびちびとカクテルを口にしていた どれも、文句のつけようがないくらいに美味だった。 食べている間、目線を交わしては微笑み、頷き、飲み込んでは美味しいね、と小さく口を開いたり、これも美味しいよ、と勧め合ったり。二人の間に大した会話は必要なかった。 二人が大皿を空にした頃、詩音はかすかに酔いを覚え、未来の頭は正しい判断というものを失っていた。 「ふふ…おいしかったぁ、たのしいねぇ、しおんくん」 未来がテーブルに頬杖をつきながら、夢見心地とでも言わんばかりにつぶやく。 詩音は飲ませすぎたかな、と反省しつつも、そうだね、と微笑んで見せた。二人とも、すでにお腹も一杯であるようだ。 「みくちゃん、ちゃんとお水飲んでね」 詩音はそう言うとテーブルから立ち上がり、食器をまとめて片そうとする。 すると突然後ろから声が掛かる。 「詩音様、お片付けはわたくし共が。どうぞお相手様とのお時間を楽しんでください」 「あー…はい、お願いします」 振り返り声の人物を確認すると、詩音はバツの悪そうな顔をした。 未来はそれに気付くことなく、ニコニコとしながら窓から海を眺めている。 大人しく詩音が席に戻ると、未来が不思議そうな顔をした。 「あれえ、しおんくん…おかたづけ、は?」 「えっと…まあなんか、やってくれるって!だからゆっくりしとこ」 テーブルからは素早く食器が片付けられ、残った詩音のグラスには高そうなワインが注がれる。未来のグラスは下げられたが、代わりにオレンジジュースが満ちたグラスとカットフルーツの盛り合わせが運ばれてきた。 「到着までごゆっくり」 スタッフが丁寧に礼をすると、珍しく詩音も軽くぺこりと頭を下げた。 …その様子に、違和感を覚えた未来が詩音に問いかける。 「…いまの、だぁれ?」 「んー…あとで教えてあげる」 少し申し訳なさそうな詩音に、未来はそれ以上何も聞けなかった。

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