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第1話
夏、祝福の風が吹く王宮__
けれど警備チームは胃薬片手に大忙し。
なにしろ、我らが国王陛下の結婚式が目前に迫っているのだ。
国王ジーク陛下は、王宮図書室の司書チルと出会い、ほぼ一目惚れをしたという。
そしてあらゆる(王の権力も、ちょっと姑息な手も)手段を総動員し、「囲い込み」に成功。見事、想いを通じ合わせた。
マイロにとって、それはもう、自分のことのように嬉しかった。
チルの護衛として国王陛下に任命され、近くで見ていたからこそ分かる。チルがずっと、ジークを想っていたことを。
控えめだけれど、ジーク陛下の話になるとふと表情が和らいだり、いつもより少し声が弾んだり。チル本人は隠しているつもりでも、ちょっとだけ、わかりやすかった。
だからこそ、ふたりが結ばれたときには、本当に心から祝福できた。自分のことのように嬉しかったのだ。
今、王宮全体はお祝いムードだ。ジークは民からの支持も厚く、チルも図書室司書としての顔を多くの人に知られている。そんなふたりの結婚式なのだから、誰もが浮かれて当然だ。
その日も、マイロは王宮の図書室へ向かっていた。チルの職場だ。
長い廊下を歩いていると、ひとりの男と出会った。
「カイル! チルのところに行ってた?」
「……ああ。今朝は、王族としての儀礼や行事について話していた」
カイル。ジーク陛下の側近にして、騎士団の副団長。頭の回転が早く、無駄のない動きと判断力で『王の右腕』と称される人物だ。
冷静で口数も少なく、クールである。
何を考えているのか分かりにくい……そんなふうに見られがちだけど、マイロにとっては、昔からの知り合いであり、不思議と気を張らずにいられる存在だった。
だからこそ、カイルが最近やけに優しいのが、ちょっとだけ気になっている。
「どうだ……何かあったか?」
「ううん、何もないよ。警備はしっかりしてるし、俺はチルの横に張りついてるだけだし。でもさ〜、正直もう、結婚式とか早く終わってほしい!落ち着かない」
苦笑しながら肩をすくめるマイロに、カイルも珍しくわずかに笑みを見せた。
「気持ちは分かる。だが、俺らが何とかするしかない」
「はいはーい、わかってますよぉ~」
「……ちなみに、また陛下が爆弾仕掛けたって聞いたが?」
「それだよ!チルに渡したいって言ってきかないお菓子があってさ、机にしれっと置いておくから警備が『爆弾か!?』って大騒ぎ。…撤去騒ぎになったんだから!」
ジーク陛下はどうやら、内緒でプレゼントを仕込むのが大好きらしい。だが時期が時期だけに、警備チームの心臓には悪い。
「……本当に胃が痛くなるな」
そう言いながらも、カイルはふっと口元を緩めた。どこか呆れたような、けれど少しだけ楽しそうな微笑みだった。
「それにさ、真面目に報告書を提出してるのに、陛下の答えが毎回『愛ゆえの行動!』なんだけど」
「……その通りだと思うが、胃には悪いな」
「でしょ!?報告書にそれはないよね。もうちょっと、あの方自覚してほしい……」
マイロが顔を覆う横で、カイルはまじめな顔のままぽつりとこぼす。
「だが、陛下の愛の攻撃は、まだ序の口だろう」
「うわっ、やめて!予告みたいに言わないで!やめて!」
「……ちなみに式当日、王から王妃へのサプライズ演奏計画、知ってるか?」
「は……?知らなかったし、今初めて知ったし、すでに胃が痛い!!」
「俺も昨日知った。しかも演奏者の手配も俺に任せるときた」
「う、うわ〜……」
カイルがため息を吐いたそのときだった。
塔の上、何かがわずかに動いた気がした。
「……あれ? 今、人、いたっけ……?」
マイロの胸に、ぞわりと小さな違和感が走る。塔の上に一瞬だけ見えた影。風の揺らぎだったのか、それとも誰かの気配だったのか。
「…ま、気のせい、だよな」
そんなふうに自分に言い聞かせながらも、マイロの胸の中には小さな違和感が残り続けていた。
けれどそれは、ほんの一瞬のこと。
すぐに視線を戻して、マイロはいつものように足を進めた。向かう先は、図書室。そこには、チルがいる。
カタン、と軽い音を立てて図書室のドアを開ける。中央にある、十人は座れそうな長い机には、調査官や書記官たちが静かに腰を下ろし、それぞれの書類と向き合っていた。
かつては、チル以外ほとんど足を運ぶ者はいなく、静かでひっそりとした空間だった図書室だが、今では、王妃となる人物の職場として機能し始め、連日さまざまな人々が行き交い、知の息づかいが感じられる場所へと変わっている。
図書室の奥、長机の背後にあたる位置に、チルが執務をこなすスペースが新たに設けられた。
壁際には書棚が整然と並び、窓辺には小さな花瓶。机には几帳面に書類が並べられ、その空間だけが静かに呼吸しているようだった。
その扉を軽くノックすると、ゆっくりとドアが開いた。そして、ふわりと花が咲くような笑顔が、そこにあった。
「あ、マイロ! お昼にする?」
「うん、そうだね。チルは?午前中の勉強もう終わった?」
「終わったよ、もう大丈夫だよ!」
「…さっきそこでカイルに会ったよ。午前中の講師はカイルだったんだね」
マイロはチルの護衛だが、互いに気取らず、ファーストネームで呼び合っている仲だ。立場上、カイルは「チル様」と呼ぶが、マイロには「様はつけないで」と、チルの方から頼まれている。
「うん、午前中はカイルさんに教えてもらったよ。午後はね、ロットンさんのところでマナーの確認」
「げぇ〜、マジか。よく毎日やってるな、チル。俺だったらパニックになって泣いてるね」
「えー? そうかな? けっこう楽しいよ。王宮の歴史も教えてもらえるし、学べるのって嬉しいし!」
「……そりゃ偉いわ。まあでも、仕方ないか。国王陛下のところに嫁ぐんだもんな」
その一言に、チルがぽっと顔を赤らめた。
相変わらずというか、ほんと、初々しい。
こんな反応をされちゃ、ジークが溺愛して離さないのも無理はない。
チルは、毎日ジークのために弁当を作っている。というか……ジークは、チルの作ったものしかほぼ食べない。
偏食家で知られる陛下が、唯一文句を言わずに口にするものが、チルの弁当なのだ。
「今日のお弁当なに?…おっ、ベーコンとトマトのサンド?めっちゃうまそう〜」
チルの弁当はいつも丁寧で、色も綺麗で、なにより美味そう。たまにおすそ分けしてくれるけど、それを知ったジークは露骨に嫌な顔をするので、最近は遠慮している。
代わりに、マイロは料理長に包みを持たされている。
その包みを開けると、ふわりとチーズの香り。今日は、チーズと生ハムのサンドイッチらしい。見た目も豪華だ。
「うわ〜……マイロのお弁当すっごいね。さすが料理長。……ジーク様、本当に私のなんかでいいのかなあ」
チルがぽつりとつぶやく。
「何言ってんの!陛下はチルのしか食べないっての、知ってるでしょ。チルの作るものが一番いいんだって。つーかさ、陛下ってトマト食べれたっけ?」
「あー……多分、苦手なんだと思う。でも、料理長から『結婚式までに克服しなさい』って言われててね。結婚式の料理に、伝統的なトマト料理が出るらしくて。出さないわけにいかないから、それまでに慣れないとって……」
そう言って、チルはふわりと笑った。
その笑顔が少し照れていて、でもちゃんと前を向いているのが、マイロはなんだか胸にくる。
「昨日ね、練習でトマトのポタージュ作ったの。赤いのがちょっと濃くなっちゃったんだけど……ジーク様、何も言わずに飲んでくれてさ。『あったかいね』って。…本当は、すごく苦手なのにね」
その声に、どこかくすぐったい優しさが混じっていた。
「お互い無理してるよね、ちょっとだけ。
苦手なもの食べさせて悪いなぁって思うけど、歩み寄ってくれてて…そういうのって…ちょっと嬉しいよね」
マイロはチルの顔を見て笑う。それから、もう少し顔をゆるめて言った。
「いや、それでも苦手なの食べるのすげぇな、陛下。なるほどなぁ…そりゃ、溺愛してるわけだ」
チルはますます頬を赤らめて、手で顔をぱたぱたと仰いだ。
「……でもね、ほんとは『美味しい』って言ってくれるものだけで、十分なんだよ?
無理に食べさせようとは思ってない。ただ……結婚式まではちょっとだけ、頑張ってもらってるっていうか」
チルはそう言って、照れたように笑った。
口調はやわらかくて優しい。
「まあな。苦手なもんはしょうがないけど。…陛下は、それが多すぎるんだよな」
マイロがぽつりとつぶやくと、チルは「うーん」と首をかしげて、それから小さく苦笑いした。
弁当を食べ終えると、チルは勢いよく立ち上がる。
「よし!やっぱり、もっと食べやすいトマト料理を考えよう!」
そう言って、図書室の本棚をあちこち歩き回りはじめる。どうやら、トマト料理の本を探しているらしい。
「……チルはさ、ほんと頑張り屋さんだよなぁ」
思わずこぼれたマイロの独り言は、本棚の向こうを歩くチルには、聞こえていないようだった。
「えー?なにー?」
遠くから返ってきた声は、やっぱりどこまでも無邪気で、マイロは少しだけ、頬をゆるめた。
◇◇◇
日中は賑やかな王宮も、夜になると打って変わって、ひっそりと静まり返る。人の気配もまばらになり、足音ひとつが妙に響くほどだ。
マイロたち警備チームは、王宮内を数人で分担し、夜の見回りをしている。この時間帯の点検が終われば、ようやく一息つけるのだが、今夜のマイロの足取りは、どこか落ち着かない。
日中は、チルの護衛として任命されている。けれど、最近のチルは王配としての研修がぎっしり詰まっていて、マイロが警護というほどの出番もなくなってきた。
__これで役に立ってるんだろうか。
考えすぎかもしれない。けど、どこかに引っかかる。もやもやした気持ちを振り払うように、マイロは廊下を進んだ。
そのときだった。
「……ん?」
耳に届いた、微かな物音。
カタン、と乾いた音がした。
振り返ると、それは図書室の方角からだった。
そこでマイロは、立ち止まった。
昼間から胸の奥に燻っていた違和感が、ぴたりと形を持った気がした。
チルはもう図書室にはいない。この時間は誰もいないはずだ。マイロはすぐに身を低くして、足音を殺しながら音のした方へ向かっていった。
図書室の扉をそっと開けると、中は真っ暗だった。外の月明かりが窓から少しだけ差し込んでいるものの、書棚の陰や天井の梁は、ほとんど闇に沈んでいる。
マイロは扉を閉めず、体を低くして一歩ずつ足を踏み入れた。目を凝らしても、はっきりとした姿は見えない。
ただ…誰かがいる。
空気が違った。
本や紙のにおいに混じって、ほのかに人の体温のような気配がある。
音はない。けれど、何かが微かに動いたような音が一瞬だけ聞こえた。重さのある、布が擦れるような音。
足音ではない。けれど確かに「誰か」の気配だった。
複数ではない……ひとりだ。
だけど、ここで何をしてる?
マイロはジリジリと、本棚の影を伝いながら慎重に進んでいく。汗が首筋をつたって落ちるのを、気にも留めなかった。
……まさか、またあの時みたいにと、マイロは思った。
以前、隣国の王女がジークに一目惚れし、勝手に王宮へ侵入してきたことがあった。
誰にも知られずに乗り込んできて、結局ジークにすっぱり振られていたが…
そのときも、最初に気づいたのは、この違和感だった。誰かが、勝手に入り込んできたのか。
緊張で呼吸が浅くなる。
手はすでに剣の柄へ伸びていた。
もう少しだ。もう少しで、視界の中に何かが___
そう思ったそのとき、
「マイロ、下がれ」
低く、静かな声が背後から届いた。
一瞬、心臓が跳ねる。
振り返らなくても分かる。
その声はカイルだ。
「……びっくりした……。来るなら音出してよ、心臓止まるかと思った」
息を殺しながら言うと、カイルは小さく首を横に振った。
「お前があまりに警戒していたからな。下手に声をかければ、殴られるかと思ってな」
「……否定できない」
マイロは剣の柄から手を離し、軽く息を吐いた。カイルはすでに様子をうかがっていたらしく、マイロの横にすっと並んで言う。
「気配があったのは、奥の閲覧スペースだな。微かに、人の衣擦れの音がした」
「やっぱ、カイルにも聞こえた?」
「……ああ。ひとりだ。だが、軽装。おそらく、武器は持っていない」
マイロは、思わず「さすがだな」と口の中で呟いた。この男のこういうとこが、ちょっとずるい。
「突入する?」
「いや、追い詰めるにはまだ情報が足りない。まずは警告を出す。出てこなければ、踏み込む」
カイルの目が夜に沈むように鋭く細められる。
マイロはうなずき、小さく姿勢を整えた。
その瞬間、ふと、奥の闇の中で、ゴトリという音がした。
マイロとカイルは、同時に視線を向けた。
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