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第2話
「……今の、何かが落ちた音だな」
「本、かな……?」
カイルが手で制するように合図を出す。マイロはうなずき、音のした方へゆっくりと進んでいく。
薄暗い照明。誰もいないはずの空間。その静けさの中に、不自然にぽつんと落ちていたのは、一冊の分厚い本だった。
「……読みかけ?」
マイロが近づいて拾い上げた本は、ページの間にしおりが挟まれていた。最近誰かが手に取ったばかりのように、表紙はほんの少し温もりを残している。
「ここ、チル様が好きな、王宮の昔話の棚だな」
カイルが低く呟いた。
「でも、チルじゃないよな? チルなら灯りはつけるし、本落としたら、謝るか笑うか、こっちに飛んでくるだろ」
マイロの苦笑に、カイルもわずかに目を細めた。そのとき、背後から、ふっと空気が揺れた。
マイロが反射的に振り向く。
「……!」
誰かがいた。
視界の隅に、一瞬だけ、長いマントの裾がひるがえった。
すぐさまカイルが走り出す。
「待て!」
マイロも続いて飛び出すが、闇に紛れるようにその影は奥へと消えた。
長い廊下を駆け抜け、影のいた方へとマイロは全速力で駆けていた。カイルの姿は一歩前。音もなく、まるで空気を裂くように走っている。
曲がり角を曲がったその瞬間。
「――っわ!」
マイロの足元がぐらついた。床に張られていた装飾の布がずれていたのか、ブーツのかかとが引っかかる。
視界が傾き、体が前に投げ出される、その一瞬、
「バカ、こっちだ!」
強い腕がマイロの腰をつかみ、ぐいと引き戻した。重力の流れが止まり、マイロはそのままカイルの胸元に倒れ込むように受け止められる。
「いって……ぅわ、わ、わ、わ、ご、ごめんっ!!」
慌てて離れようとするマイロの腕を、カイルががっちりと掴んだまま、動かさない。
「……落ち着け。まだ走る気か?」
「だ、だって!影、逃げたし…」
「……お前は、俺の護る対象だ」
マイロの動きが止まる。
「護衛対象はチル様だけだと思ってるか?
……違う。お前も、俺にとっては特別なんだよ」
息が止まるかと思った。
間近で見るカイルの目は、相変わらず冷静で、けれどどこか……熱を帯びていた。
「なんだよ!そ、その言い方、ずるいな」
マイロがぼそりと呟くと、
「知ってる」
カイルは、わずかに口の端を上げて、ニヤッと笑った。
その顔が、ほんの一瞬でも悪い意味じゃないことくらいわかる。わかるけど、だからこそ、余計に心臓に悪い。最近、カイルはこんな顔を見せる時がある。
マイロの頭がふわふわし始めた。気温のせいか、走ったせいか、さっきの転倒未遂のせいか、いや、どれでもない気がする。
「足、平気か」
「えっ? あ、うん……多分……いや、ちょっとだけ、ひねったかも……?」
「じゃあ、戻るぞ」
「え、でも影……」
「無理に追う必要はない。気配も消えた。
お前が怪我してまで追う価値はない」
言い切られた言葉に、マイロは思わず口を閉じた。
ぐらぐらしているのは、足首じゃない。胸の奥が、なんだか落ち着かなくて仕方がない。
カイルはマイロの腕を軽く引いた。
「一人で歩けるか?」
「い、行けるし! 歩けるしっ!」
強く返したつもりなのに、声はどこか裏返っていて、喉の奥に、うまく言えない言葉だけが詰まっていた。
だけど、カイルはそれを無視するように、自然にマイロの体を支えた。
支えられている。
抵抗する間もなく、肩を預ける形になる。
視線を向けると、横顔はいつものように落ち着いていて、その冷静さが、逆に胸にくる。
何故だろう。こんな時にカイルがかっこよく見えてしまう。
やけに近い距離。力強くて温かい腕に支えられて、歩く一歩一歩が、どうしようもなく気になって仕方がなかった。
なんだか急に、恥ずかしい。
視線を上げるのも、顔を向けるのも変に意識してしまって、つい、前だけを見てしまう。
カイルに支えられ歩いていると、月明かりの差し込む中庭の脇道に、ひらりと黒い影が消えるのが見えた。
「……いた!」
マイロが駆け出そうとした、その瞬間だった。
「おや、そんなに慌てなくてもよかろう。
わし、そんなに怪しく見えるかね?」
柔らかい声が、闇の奥から響いた。
マイロは思わず立ち止まり、身構える。
「……誰ですか。何者ですか」
マイロが低く問いかけると、男の声が聞こえてきた。
「ふむ。いきなり何者とは、物騒な時代になったものだ。わしはただの客人…とは言えんか。遠縁の爺じゃよ。ジーク坊やのな」
「……はっ?……」
その瞬間、マント姿の男が月明かりに浮かび上がる。木陰から現れたのは、白髪混じりの長髪に、深い色のマントをまとった老人だった。けれどその姿には、不気味さよりも、どこか気品と、余裕のようなものが漂っていた。
男を見るなり、カイルはわずかに目を見開いて、静かに一礼する。
「……大公閣下。ご無沙汰しております」
「やや、閣下など、耳がかゆくなるわ。やめてくれぬかの」
マイロはカイルの反応を見て、理解が追いついてきた。
大公閣下と呼ぶのは、ジーク陛下の遠縁であることになる。不審者だと思って追っていた人物がまさかの身内…にしても、不審な行動が過ぎる。
「さて…君がチルくんかね?」
唐突に向けられたその言葉に、マイロはまた「へ?」と間の抜けた声を出してしまった。
「えっ、あ、いえ、違います!俺はマイロといいます!ただの護衛で!」
「ああ、そうかそうか。いや、間違えたわ」
大公閣下はそう言って、ゆったりと歩み寄ってくる。
「ジーク坊やの后になる者。どんな人物か、わしも見ておこうと思ってな。王というのは、家の柱。柱がまっすぐでも、土台がぐらついていては困るのだよ」
マイロはごくりと喉を鳴らした。
大公閣下…見た目はただのおじいちゃんだけど、なんか、めっちゃ厄介なタイプの重鎮のようだ。
「さて。じゃあ、案内してもらおうかの。ジーク坊やのところへ」
「…………ぇぇええええ……」
足を引きずりながら、マイロは厄介そうな大公閣下を引き連れて、ジーク陛下のもとへ向かうことになった。
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