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第1話 出会い
触れない夜があったなんて、
第一話
ざわざわと街の雑踏に、わざと己を紛れさせる。ネオンは俺にとっては眩しすぎるし、広告トラックの音も激しく耳に響いた。それでも。それでもいいから、何かに身を任せていたかった。何かに、この心の隙間を埋めてほしかった。
「オニーサン、今夜ヒマなの?」
不意に声をかけられ、足を止める。
俺の顔を覗き込んでいたのは、明らかに俺より年下の、端正な顔立ちをした青年だった。
「ヒマならさあ、俺とイイことしない?」
立ちはだかる様に立って、少し背伸びをしながら問いかける青年。軽薄そうに見えるがどこかあどけなさを感じるその雰囲気、雰囲気だけだが──弟に、似ている気がした。
「いいこと……うん、いいよ。一晩いくらなの?」
何でもいい。立ちんぼの男を買うくらいなんてことない。そんなことを思いながら応えると、青年はニコリと笑みを浮かべる。
「大体5万だけどー…オニーサンかっこいいから特別、4万でいいよ!」
右手の指を4本立てて交渉してくる青年。その瞳の奥は、どこか仄暗い影が潜んでいるように見えた。そんなところも似ているのかもしれないな、と感じつつ、財布からありったけの一万円札を手渡す。もちろん提示された金額など優に超えている。
「え、えぇ?俺こんなになんて、」
「いいから。これで、いつまで一緒にいられるんだい?今夜だけ?」
「えっと、それは…」
青年の目が動揺とともに泳ぐ。よほど非道い仕打ちに遭わされるか、臓器でも取られるか─大体そんなことを考えているのだろう。
「変に誤解させたね。大丈夫、非道いことなんてしないさ。そうだな…夜が明けるまで、でいい」
そう提案してみても、彼はまだ動揺の色を隠せずにいた。
「本当に、それだけでいいわけ?こんなにもらうと、その……さすがに勘繰る、っていうか」
じゃあ、と彼の手から札束を奪う。それを彼のスキニージーンズのポケットに無理矢理突っ込むと、俺は彼の手首を掴み歩き始めた。
「実際着いてくればわかるだろ?ほら、こっち」
相場以上の金を握らされた以上、彼も客に逆らうことなどできないのだろう。抵抗するでもなく着いてくるが、その手は少し震えていた。
到着したのは、一軒のレストランだった。外観こそこぢんまりとしていて、この繁華街においては地味な様相を呈していたが、中に入ればこだわり抜かれたインテリアと食器とがならぶ上品な内装だ。
「いらっしゃいませ…お、紫雲さん」
「どうも。2人、入れますか?」
馴染みの店長に向かって軽く会釈すると、彼は4人がけのテーブルに俺たちを案内した。そして、2つのコップに水を注ぎながら問いかける。
「お久しぶりですねえ、お飲み物は?」
「俺はペローニを。君は…どうする?お酒が飲める年齢なのかな?」
青年はフルフルと頭を振る。俺より若いと思っていたが、歳の頃まで弟と一緒らしい。
「そうか…じゃあオレンジジュースを。店長も一杯どうぞ、それから料理は、店長にお任せしてもいいかな」
「もちろんですよ、かしこまりました」
彼はぺこりと頭を下げると、キッチンの方へと去っていった。青年は落ち着かないと言った様子で、店内をキョロキョロと見回していた。
「この店はだいたい店長が一人で回していてね。その分こだわりも強いから、料理も美味い。……気に入ってくれると嬉しいけどね」
そう独り言ちるように言うと、彼はぱっと俺に視線を向けた。
「あのさ…アンタ名前、しうん?っていうの?」
「ああ、まだ自己紹介してなかったね。俺は紫雲悠真。君は?」
「俺は、えっと…ショウ」
「それは源氏名か何かなのかな」
こくりと頷く彼。本名は、と聞けば最も容易くその名を口にした。
「…高嶺商夜。18歳」
年齢までもが、弟と一緒なのか。
目頭が熱くなりそうなのをグッと堪えると、ちょうど店長が飲み物と料理を運んでくる。
「こちらがオレンジジュース、紫雲さんのペリーニ、前菜のカプレーゼです」
商夜はテーブルに置かれたカプレーゼを見ると、キラキラと目を輝かせた。
「…好きなんだ」
「そう、トマト好き!健康にいいらしいし、何より美肌にいいんだって!俺そういうのこだわっててさ、」
熱弁しながらも目線は料理から離れない。すると、下がったはずの店長がまた奥から出てきた。
「そんなに熱烈に見つめなくても、トマトは逃げませんよ」
左手には俺と同じビールを持ち、右手に持ったトングで器用にカプレーゼを取り分けていく。俺にはチーズが多め、商夜にはトマトが多くなるように。…それ、押し付けって言うんじゃないのか。
商夜は丁寧に両手を合わせ、小さな声で「いただきます」と言うと、フォークを手に取り早速トマトとチーズ、バジルを器用に刺して口へ運ぶ。
その瞬間、緊張していた商夜の顔が綻んでいくのが分かった。
「う…っま〜!!なんか、全部新鮮な感じ!めっちゃいいお野菜って感じします!」
店長に向かってそう笑顔で告げる商夜は、やはり弟そっくりで。胸のどこかが、ツキン、と痛むのが分かった。
店長もニコリと笑顔で返すと、こちらに乾杯を求めてくる。グラスを傾け、ガラス同士のぶつかる乾いた音が響けば、俺たちはその中のビールを一口喉に通した。
「それはよかった。それにしても…ねえ、紫雲さん。叶斗くんのこと…」
「店長」
店長が弟の名前を口にする。次に言いたいことは精々、残念でしたね、だのこの子似てますね、だのそんなところだろう。俺は別に、傷の舐め合いがしたくてここに来たわけではない。ちら、と店長を見遣ると、彼は口を噤んだ後に、失礼しました、と頭を下げた。
「分かってるよ、励まそうとしてくれたんだろ?俺は大丈夫。それより、この子に料理を」
分かっている、自分が大丈夫と言えない状態であることくらい。それでも、強く彼にそう言えば、もう一口ビールを飲んだ後に
「お待ちくださいね、ピザを焼いております」
と言いながら厨房へと去っていった。
「なあ、悠真」
「どうしたんだい、もっと食べる?」
不意に商夜から声を掛けられる。叶斗は絶対に俺を呼び捨てでは呼ばなかったな、なんて思いながら皿を差し出すと、押し返して遠慮された。
「これ美味いしお前も食え!って、そうじゃなくて…叶斗って、誰?」
無垢な瞳でそう問いかけられれば、隠しているわけにはいかないと罪悪感にも似た何かが浮かび上がってきた。答えなければ、どんなに辛くても。
「…俺の弟。自殺したんだ、1ヶ月前に」
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