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第18話
「麻野になら、なにをされてもいい」
前からひそかに思っていた。それはいままで付き合ってきた男たちには、頭の片隅によぎったことさえない感情だ。ぼくは自分の中にそんな感情があったことを知らなかった。だからこそ別れようと思った。ぼくは麻野に言わなければならないことがある。
「麻野」
ずっと言えなかった。でも、いま言わなければ後悔する。ぼくは意を決して、麻野の唇にキスをした。
「ごめん。別れたいなんてうそだ」
麻野はぼくを抱きしめて、ぽんと頭に手を載せた。
「知っている」
「黙って聞け」
麻野の腕を抓ると、短い悲鳴を上げた後、続きを促した。
「怖かったんだ。麻野に触れることで、自分が弱くなるんじゃないかって。いままで平気だったことが平気じゃなくなることに、焦燥感があった。一人でいることも、暴行されることも、あんなに怖いと思ったことはない。というか、他人に触れられることに不快感を覚えたのは初めてだった。たかが性欲処理だと思っていたのに、違ったんだ。
麻野に触れて、いろんな感覚を発見したからだと思う。だから行島たちに犯されたことが我慢できなくて、抵抗できなかった自分が悔しくて、もう麻野には触れられないって思った。麻野を穢してしまうって思うと、怖かった」
麻野がぼくの背中を撫でる。ぼくは麻野にしがみついて、胸に頬を擦り付けた。
「別れたくない。保留を撤回させてくれ」
ぼくの背中を撫でながら、麻野は耳元で笑い、「仰せのとおりに」と囁いた。
「それから」
麻野のシャツのボタンを外しながら。
「本当は実家に帰ってなんかない。入院していたんだ」
「入院?」
麻野の声がとがったものに変わる。そりゃそうだ。ぼくは頷いて、続けた。
「行島たちに犯される前からずっと調子が悪かったんだ。だから病院に行った。そうしたら、神経性胃炎と、貧血の悪化が発覚した。オプションとして犯されたのが原因での発熱と、それから、左の肋骨が2本折れていた」
「はあっ!? なんですぐ言わないんだよ!」
「言ったらおまえは復讐しに行っただろ」
「決まってんだろ、殺しても気がすまねえ」
くそっと言い放ち、麻野がぼくをぎゅっと抱きしめる。ぼくは「落ち着け」といなした。
「復讐ならもう自分でした。けりをつけたから話したんだ。いまさら余計なことは考えるな」
「俺がおまえの顔についたこの痣を見るたびに、行島への殺意を募らせるとは考えなかったのか?」
「考えた。だから別れようと言ったんだ。その気になれば痣はいくらでも消すことができる。でも」
「でも?」
ぼくはいったん言葉を切る。麻野が不思議そうに問いかけてきた。ぼくはなんだか気恥ずかしくなってきて、麻野の胸に顔を埋めた。
「‥‥わかるだろ、察してくれ」
麻野の体が揺れる。笑っているのだろう。麻野はぼくの襟足を長い指に絡めている。
「いや、わからない」
ぼくが弾かれたように顔を上げると、麻野はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべていた。
「言えよ。言わなきゃ、集がしてきたことも水の泡だぜ」
くそっ。ぼくは口の中で呟いた。麻野の顔を見ているとイライラしてくる。麻野に? いや、自分にだ。麻野には言わせておいて、自分はまだ奥を見せずにいるつもりなのか。そんなに麻野が信用ならないか。答えなら、初めからわかっているくせに。ぼくは自問自答し、再度くそっと吐き捨てた。
「お口の悪いお姫様だな」
麻野が楽しそうに笑ったあと、ぼくの額にキスをした。「さっき姫扱いしないと言っていたくせに」とぼやくと、麻野は「普段はしないよ」とまるで居直るように言った。
「ほら、言えって」
余裕すら伺える麻野の態度が妙に鼻につく。ぼくは麻野の背中をどんと殴った後、首筋に噛み付いた。
「っ、おまえの歯、いてえよ」
麻野の肌は柔らかかった。なるほど、こんな感覚なのかと、もう一度噛む。麻野がくすぐったそうに肩を竦めるのを見ながら、膨れ上がってくる感情を抑えるように、つばを飲んだ。
「これは誠意だ」
「誠意?」
「ぼくが、麻野をどれだけ好きか。求めているか。その誠意だと言っている」
「わかったから、早く言えよ」
ぼくは麻野が背中を撫でるのを感じながら、息を呑み、乾いた唇を舌で潤わせた。
「別れようと思ったけどできなかったのは、ぼくの隣には麻野が必要だと思ったからだ。おまえがいない世界は味気ない。美しさすらない。ぼくはそんな世界に身を投じたくないと思った。
昔はそれでも平気だった。無こそ神秘だと思っていた。だけど麻野に会えない間ずっと苦しかった。胸が張り裂けそうなくらい辛かった。そのときぼくは初めて、心から麻野を好きなんだと気付いた。誰かと対等でいたいと思ったのは、本当に、初めてなんだ」
麻野に口を挟む余裕さえ与えないほど矢継ぎ早に言ってやる。麻野はそれを黙って聞いていた。言い終わった後もなにも言わない。茶化してこないのはぼくの言葉を誠意として受け止めてくれたからなのだろうか。顔を上げ、麻野を見る。ぼくは麻野を見て、ぶっと吹き出した。
麻野の顔が、熟れすぎたトマトほど赤い。こんな麻野は初めて見た。
「くそっ、反則だ」
麻野がぼくを抱きしめる腕に力が篭る。ぼくは麻野の腕にキスをして、体に寄り添った。
「だから、もう一度ぼくと付き合ってくれ」
「ああ。好きだ、集」
「ぼくも好きだ」
ぼくが言った途端、麻野が突然ぼくの肩を押し、体を無理やり離した。
「はっ!?」
驚いて声を上げたぼくを見て、麻野が言う。
「いまの、もう一度言ってくれ」
「ぼくも好きだ」
「そのあと!」
必死の形相で、麻野。口の中でごにょごにょ言ったつもりだったが、聞こえていたらしい。ぼくは自分の失態に舌打ちをした。
「佐和」
麻野の頬に手を伸ばし、言う。
「好きだ、佐和」
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