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第44話
――ぼくと麻野は無事進級することができた。
雪弥さんはいつみの家庭教師を続けることになった余波で、いつみの友達の面倒まで見ることになり、何気に忙しい毎日を送っている。
ぼくはとくに変わりがない。課題で描いた絵が教授の知人の目に留まり、アシスタントとしてバイトを始めたくらいだ。
麻野はというと、真澄くんに見事にはめられて、雑誌の取材に答える羽目になって怒っていた。基本的に麻野は露出をするのが嫌なようで、幼いころから劇団員としてやってきていて、かなり評価も高いのにメディアへの露出がないから、ぼくは最近芝居を始めたのだとばかり思っていた。麻野はポジションにはこだわらないからと、主役から逃げてきたらしいし、環境が変わるのを嫌がるからじゃないかとふと思った。
テレビのなかの真澄くんはすごくいい表情をしているのに、その隣にいる麻野の顔が引きつっている。これは怒っているなと思いながら、ぼくは麻野を横目に見た。
「せめて怒っていない演技でもしたらどうなんだ?」
麻野はふんと鼻で笑って、コーヒーを啜った。
「アイツの肩を持つなんて、いつから集はそういうキャラになったんだ?」
「肩を持つつもりはない。ただ、テレビの取材くらいにこやかにするべきだろう」
「はっ、これっきりだからいいんだよ。次はだれがどう頭を下げても金を積まれてもでねえ。俺はああいうチャラチャラした世界が嫌いなんだ」
「臨場感がないから、だろ?」
ぼくの問いに、麻野は少し口元を綻ばせた。ぼくは麻野に跨って、頬にキスをした。
「ぼくはこっちの麻野のほうがいい」
言いながら少し腰をゆすると、麻野は喉の奥で笑って、ぼくの背中を撫でた。
「一晩中したのに、まだ足りない?」
「足りない。今まで以上に麻野に言い寄ってくるバカ女が増えると思うと腹が立つ。だからお前がしばらくセックスなんてしたくないと思うくらい搾り取ってやる」
麻野はぼくの台詞に吹き出して、あははと笑いながらぼくを抱き締めた。
「嫉妬か?」
「嫉妬だ。いままででも何気にイライラしていたのに、これから先を考えるとぞっとする」
「素直でいい」
麻野はぼくの唇にキスをして、ぼくの下着の中に手を潜り込ませた。
「おまえしか抱かないってことを証明してやるよ」
ぼくの耳元で呟いた麻野の声は、いままで以上にぼくを熱くさせた。
* * * * *
「そういえば、中村ってどうなってるんだ?」
情事のあと、それとなく麻野に尋ねると、麻野は首を傾げた。
「聞いてねえの?」
「うん、なにも」
「行島を庇って投獄中なんだと。庇って・・というか、行島をはめたからというか。
とにかく、啓のじいちゃんが傷害罪ってことですませてくれたのと、桑島から直接指示を仰いでいたのが行島じゃなくて中村だったから、厳重注意で済まされたらしい。中村がやばい奴らとかかわっていたことを、行島は全く知らなかったみたいだしな」
「ふうん。真澄くんも泳がされていたってことか」
「‥‥なんか今頃腹が立ってきた。おまえ、行島に甘すぎなんだよ」
不機嫌そうに麻野が言う。甘いもなにも、ギブアンドテイクだ。
「仕方ないだろ、真澄くんは売出し中で大人しくしていなきゃいけない身なんだから」
「だからってフェラするか? それ以上ヤッてないだろうな?」
「してない。それに舐めてやったのは1回だけ。
それより、雪弥さんはどこに行ったんだ? 用事があるんだけど」
「知らねえよ。そのうち帰ってくるだろ。‥‥つーか、もしかして行島の相手してるのって雪弥‥‥じゃねえよな?」
「まさか」
そんなはずはないという意味を込めて言ってみたけれど、そういえば最近雪弥さんは帰りが遅いし、なにか満足げな顔をして帰ってくることが多いと麻野が言っていた。前みたいにべたべたしてこないし、妙に色っぽい時がある、とも。ぼくと麻野が顔を見合わせた時だ。階段を上る足音が聞こえてきた。
麻野が部屋のドアを開けると、雪弥さんはきょとんとした顔で首を傾げた。
「なに変な顔してるの?」
何気に声が掠れている気がする。麻野はガシガシと頭を掻いて、雪弥さんを部屋に引きずり込んだ。
「わっ、な、なに?」
「雪弥、正直に言え。行島とセックスした?」
単刀直入な麻野の問いに少し眉をひそめた後、雪弥さんは大きなため息をついて肩を竦めた。
「どういう想像をしているの? するわけないじゃない。万事解決したけど相変わらず機能不全なんです」
失礼なと若干怒った様子で雪弥さんが言う。雪弥さんに恋人の影ないのはそういうことなのかと改めて知ったぼくをよそに、麻野は不満げに眉をひそめた。
「じゃあなんで帰りが遅いんだよ? それに最近ときどき妙に色っぽい時があるし、行島じゃなかったら誰と‥‥」
「だから、してないってば。たぶんそれ、病院に行った後だよ」
「相手は医者なのか?」
「そうじゃなくて、すっっっごく可愛い子がいるの」
見たことがないくらいうれしそうな表情の雪弥さんを見て、ぼくと麻野は顔を見合わせた。
こんなに嬉しそうな雪弥さんの顔を見るのは初めてかもしれないというくらいだ。
「相手、どっち? 男? 女?」
「看護師さん。小柄でね、細くてね、ウサギの赤ちゃんみたいに可愛いんだよ」
「‥‥なるほどな、それでお前のエロフェロモンが全開だったのか」
「その子とはなにもないよ。エッチできないし、あの子みたいに可愛かったらもっとまともな人に巡り合えるだろうし。だから見てるだけでいいんだ」
「いつもの病院の看護師ですか?」
「うん。最近外科病棟から移ってきたみたい。明さんも知っている子だよ」
「雪弥、明にはいうなよ。絶対に合コンのセッティングだなんだとか言い出すから。やっと雪弥に春が来たって浮かれること請け合いだ」
「春はもう過ぎたよ?」
不思議そうな顔をして雪弥さんが言う。麻野はそれを鼻で笑って「比喩だ」とだけ言った。
雪弥さんは初めて会った時とは表情が全然違う。顔色の悪さは相変わらずだけれど、とても穏やかで柔らかくなったような印象だ。それは麻野にも言えるし、もちろんぼくにも言えるだろう。
昔から人嫌いのぼくが、こんなにも長く麻野と付き合っていることも不思議だし、麻野や成瀬以外の友達もできた。劇的な変化というわけではないが、たった数人との出会いがこうも人生観が変わったように思えるのは、強がって生きていても結局人間とは一人ではなにもできない生き物だからだろう。
人間の原動力は愛だとのたまった哲学者を馬鹿にしていたが、ここ最近ぼくはその哲学者の台詞は言い得て妙だと思うようになった。ぼくはその変化を大切にしようと思う。
「検診の結果は? なにもなかったら3日後に成田まで行くんだろ?」
麻野がそう切り出すと、雪弥さんは眉を下げて笑った。
「おかげさまでなにもないよ。貧血気味だから鉄分を含むものをよく食べろって言われたくらい」
「意外だな。会いたくないってごねるかと思った」
雪弥さんは麻野に一瞥をくれると、少し唇を尖らせた。
「しつこいよ。ちゃんと理由も解ったし、なるべく平静を装う努力をしているんだから、余計なことを言わないで」
そう言って、雪弥さんは麻野の膝に蹴りを入れた。
半年前とはまったく違う表情が、ぼくをほっとさせる。数日前、雪弥さんから実の母親の話を聞かされた。
ぼくも麻野も麻野たちのお父さんが雪弥さんの母親を捨てたから自暴自棄になったのだと思っていたけれど、それは真実ではなかった。お父さんと彼女との意間に雪弥さんが生まれたが、その際に彼女はシングルマザーとして生きる道を選んだのだそうだ。それはお父さんがいずれ日本に戻ることを知っていたこともあるし、彼女の中に日本に渡り生活をするという選択肢がなかったからだと言っていた。
雪弥さんが4歳の時にお父さんは日本に戻り、10歳ごろまでは普通に生活していたが、急激に体調が悪化し手術をすることになったせいで彼女は職を失い、お父さんからの養育費だけで生活する日々が始まった。体調のせいで学校にもろくに行けず、彼女は雪弥さんの看病もあるせいでちゃんとした職にもつけず、次第にアルコールに走るようになり、ガラの悪い男たちと付き合うようになった。
そして雪弥さんが14歳になったころ、彼女が連れてきた男に性的虐待を受けるようになり、それが明るみに出るまで5年も続いたのだ。彼女は雪弥さんが性的虐待を受けていることを知っていたが、それを止めることはなく、むしろ男たちが置いていくお金でお酒を買いに行っていた。そして、お父さんが出張の合間に雪弥さんたちが住んでいたアパートを訪ねたとき、雪弥さんが性的虐待を受けていることと、彼女が精神的におかしくなっていることを知り、親権裁判をすることになった。
かなり重たい内容だというのに軽い口調で話す雪弥さんを見て麻野は呆れていたが、そのくらい吹っ切れているのだと思うと逆に安心する。
「精神的におかしくなったのはおれの看病に疲れたせいもあるみたいだし、ちょっと前に送られてきた手紙にも、しつこいくらいに謝罪の言葉があった。べつに、謝ってほしいわけじゃないんだけど」
そうはにかむように言って、雪弥さんが笑った。ぼくが良かったですねと言うと、雪弥さんは集くんのおかげだよと言って、ぼくの頬にキスをした。
「君に会えてよかった。本当に」
「大げさですよ、ぼくはなにも‥‥」
「ううん、君が話を聞いてくれなかったら、たぶんおれはあの状況から抜け出せなかったと思う。佐和にも感謝しなきゃ」
「謝礼金は5万円から受け付けています」
「5万円ならあるけど‥‥」
「麻野、雪弥さんをからかうな!」
「からかってねえ、本気だ」
「もっと悪いわ!」
ずうずうしく突き出している手を叩きながら言うと、雪弥さんは嬉しそうに笑って、ぼくと麻野を両手で抱きこんだ。
「おれが帰ったら、焼き肉食べに行こう。啓祐くんも呼んで」
「あいつ、金欠だから、よだれたらして喜ぶな」
「あらかじめロースとバラとハツしか食べるなって言っておかないと上カルビとか三角とかサガリとか高価なものを頼み始めるぞ」
「そういう場合は雪弥のおごりだろ」
麻野が言うと、雪弥さんは少し不満げに眉を顰め、言った。
「集くんと啓祐くんのはおれが出す」
「はあっ、不公平だろ!?」
大げさに両手を広げながら、麻野。それを見て雪弥さんが吹き出した。
「冗談だよ。ちゃんとおごってあげるから」
おれの可愛い弟だしと、雪弥さん。麻野は不満げに鼻で笑った後、雪弥さんの頭をつかんだ。
「頭の弱いお兄ちゃんを護ってやってるんだ。ありがたく思え」
雪弥さんは楽しそうに声をあげて笑っていた。
なんだか本当に不思議な気分だ。こんな気持ちになったのは初めてかもしれない。麻野や雪弥さんとの出会いがこうも自分を変えてしまうなんて思ってもみなかった。ぼくは麻野の体温と幸せを感じながら、麻野の体に寄り添った。
ぼくは麻野が好きだ。いままで生きてきた中で出会った誰よりも。笑わない、人付き合いをしない、誰にも好きにならないと決めていた、過去のぼくがばかばかしく思えるほど、麻野が好きだ。どうしてあんなに虚勢を張っていたんだろうと思う。もし、もっと早く麻野に会っていたら、――なんて思ったことが何度かある。でもきっと、その頃のぼくは、麻野の良さに気付きながらも、麻野を受け入れようとはしなかっただろう。
好きだ、麻野。小声でつぶやくと、麻野は雪弥さんが目の前にいるにも拘らず、ぼくの額にキスをして、言った。俺は集を愛している、と。
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