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第15話 あなたに心をあげる

 結局、それ以上に心も体も近くなることなく、士匄は趙武の邸に招き入れられた。趙氏はこの国有数の大貴族であり、その家屋も威風あり典雅でもある。そんな自邸の室で、趙武(ちょうぶ)(あまざけ)を差配しようとした。それを士匄(しかい)は止めた。 「そういう、もてなしはいらぬ」  士匄の言葉に趙武が少しうんざりした顔を向ける。 「少々がっつきすぎではございませんか? えっと……あなたが恋愛をしたいとおっしゃったのでしょう。私はこういう作法に詳しくないのですが、ゆっくり語り合うのも必要なのではないでしょうか」  古詩か伝聞か。趙武は恋愛のお作法というものを調べたらしかった。わからないなりに形だけでも真似ようとしたのであろう。士匄は鼻を鳴らすと、その薄い肩を掴み引き寄せる。足がもつれたのか、軽く身を腕の中に預け、趙武が目を丸くして見上げてきた。 「さっきの言祝(ことほ)ぎで十分だ」  士匄は親指で趙武の目尻を撫でながら言った。趙武が心地よさげに目を一回つぶり、すっとまぶたを開いて見てくる。目を長いまつげが彩り、濡れたような瞳は水辺の菖蒲(あやめ)が揺れているさまを思い起こした。おずおずと桃色の唇をが開く。 「言祝ぎというつもりではなかったのですが……でもそのように受け止めていただき嬉しいです。なんだか、あなたを確かめたくてやっただけなんです、何を確かめたいのか自分でもわからないんですが」  趙武がわからなくても士匄はわかっている。お前の底まで知りたいという感情がじわじわと溢れ出し、焼き尽くさんばかりであった。その命、魂さえも求めたい、などとされれば、これ以上いらぬ。形だけの語らいなど茶番であり、盛り下がる。  士匄はこのあたり、己を陶酔させるのが上手かった。趙武はそのあたり鈍く、士匄と歩調が合わない。それでも、士匄のつややかな視線に当てられ、ふ、と甘い吐息をついた。 「私が恋しいと思われました?」  趙武が覗きこみ、試すような声音で言う。士匄は迷わず 「お前に想われたいと思った。恋しいと言うことだ」  と返した。趙武は赤面せず、疑うような目を向ける。何やら詐欺めいている、と感じたのだ。それは一面正しい。士匄はその場で、瞬間風速で盛り上がる人間である。今は恋しいと思っているが、明日にはわからない。目の前で焦がれるように見つめてくる顔は、いつかの古詩で恋焦がれた演技、戯れと同じである。恋心を遠くに置こうとする趙武が、警戒しても仕方がなかった。  士匄としても、焦れったさがある。趙武の鈍さと冷えは、予想外であった。この気持ちをなぜ受け入れぬのか、といっそ不快である。その奥に、餌を投げたのだから受けとめろ、という身勝手さがあった。  士匄は動くに早いがじっと耐えるのは苦手である。 「……わたしの心はいらないか、趙孟(ちょうもう)。お前が想うだけ、渡す」  腕の中に入れたまま少し屈んでささやくと、趙武がさすがに頬を染めた。しかし、その眉に憂いが残っている。士匄の言葉が本気なのかあざとい駆け引きなのか、読めない。これは趙武を責められぬ、士匄は本気でもあったし、あざとい餌とも思っていた。自己陶酔で恋を語るものには往々にしてこんな輩もいるというだけである。  趙武は少し迷ったあと 「あなたの……あなたの心はどのようなものか、私にとって喜びなのか、気になります。欲しい、のかもしれません。ええ、ください。私のやりかたでもらいます」  と、言った。最初はおずおずと、最後には力強い口調であった。そうして、腕で士匄の体をまさぐり、襟の合わせにそっと手をかけた。 「ねえ、范叔(はんしゅく)。肌を見せてもらえませんか」  趙武の言葉に士匄はうろたえた。この時代、貴人は肌をさらさない。セックスも着衣で行う。趙武の言葉は極めて非常識であり、辱めに近い。 「それは」  士匄は呻いた。矜持高い彼からすると、奴隷になれと言われたレベルの言葉だった。あの言祝ぎも愛玩物扱いか、と心が沈む。  散々股を開いて受け入れていたくせに何を今さら、と趙武は言わなかった。ただ、安心させるように布越しから胸を撫でる。 「あなたは切れ者で口もなめらか。恋しい想いが美しい言葉になってどんどんあらわれるのでしょう。でも私はいまいち言葉にできない。恋しいとささやいても、きっとなにか違う。だから、あなたに触れたい。首筋の血潮みたいに、お体の暖かさに触れたら、私の想いが出ると、思います。少し、はだけるだけでいいです、袖脱ぎしろとも帯を解けとも、申しません」  趙武が静かに、染み入るような声で言った。粘るような静かな炎が士匄の手足を絡めとり焦がしていく。この後輩がもたらす経験したことのない延焼が、恐ろしくもあり、酔いたくもある。どちらをとるか考え、逃げるのは趣味ではないな、と士匄は目を細めた。 「好きにしろ」  士匄の言葉に趙武が嬉しそうに頷き、そろりと衿に手をかけ引っ張っていく。少しずつ丁寧に引っ張り、肩や腰の部分を整えたりずらしたりしながら、肌をさらしていく。ひやりとした空気がじかに伝わり、士匄は心もとない気持ちとなった。  あらわになった胸へ趙武が頭をすりつける。肌を探るようにてのひらを這わせていき、細い指が詰まったような筋をなぞった。そうして何度も士匄のたくましい胸板に頬ずりする。 「ふふ、生きてる」  思わず出たのであろう、その趙武の声は、少し色味が乗っていた。士匄は迂遠さも感じながら、趙武のうなじを撫でた。ただ立ってるだけでは手持ち無沙汰であった。  趙武は、触れた瞬間だけびくりと肩をふるわせたが、それだけで、あとは己のやりたいことに没頭していった。士匄は一定のリズムで趙武のうなじを軽く撫で続ける。  そのうち、趙武の唇が肌を滑り、ついばむようなくちづけをはじめた。これは色味よりも、祈りを感じ、もっと言えば祝福でもされているようであった。  ――言葉にできない恋情を祝福で表す。  春の訪れ、雪解けの祝い、愛しい人と会えた喜び、幸せを願う花を差し上げる。想うあなたに芍薬を。そんな古詩を思い出しながら、士匄は趙武の白く形の良いうなじを丁寧に、指でなぞった。今この瞬間、間違いなく、士匄は趙武を恋しいと思い、触れられる胸が熱い。このように、全身で言祝がれ愛しさを注がれれば、誰だって恋い焦がれるとまで、士匄は思った。重すぎる情念がまとわりつき脳が痺れるようでもあった。  趙武が士匄の乳頭に口づけし、ちゅっ、と吸う。それはもう祈りは無く、欲がある。丹念に乳輪を舐め、舌先で乳頭をつついてくる。そしてまた、口づけし吸った。士匄は妙な怖気と痺れで顔を歪ませたが、逃げることなく、趙武の体に腕を回す。  嫌悪感さえ感じる刺激は、徐々に痺れと疼きに変わっていった。執拗なほど舌が這われ、ねぶられ、吸われて、乳頭がぼんやり腫れていくような心地にもなる。趙武の歯が、赤く染まり立った乳頭を、軽く噛んだ。 「あ」  思わず声をあげたあと、士匄は息を小さく吐く。趙武がようやく胸から離れ、見上げてきた。手を伸ばし、士匄の頬や顎を指で撫でる。士匄は一瞬だけ目を閉じた。目元は軽い興奮で赤い。 「范叔、かわいい」  趙武は嫣然(えんぜん)と微笑み、仕上げとばかりに、士匄の乳頭を爪で引っかいた。部屋に、ん、と士匄の小さな吐息が響いた。

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