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第21話 蝋梅の香りに包まれて 

 冬の終わり、寒い風とのどかな陽光の元、蝋梅(ろうばい)の匂いがかすかに漂っている。建物に囲まれた内庭といえど外は外。梅林などにある蝋梅の香りが流れてきているのであろう。  そのほのかな甘さを楽しむ余裕もなく、士匄(しかい)はこのバカと怒鳴り続けていたし、趙武(ちょうぶ)はポカンとしていた。 「おま、お前、いや本当にこの、バカだ、鈍いにもほどがある、いい加減にしろ、バカ」  常であれば多彩な言葉とともに繰り出されている士匄の罵倒であるが、語彙が完全に死んでいた。そのくらい士匄は動転していたのである。当然であった。なんの関係もない第三者、しかも趙武と同類のクソ真面目な人間に、組み敷かれて抱かれていることを暴露されかけたのである。何が恋の相談か、と殴りたいほどであった。  何度もバカと言われるうちに趙武も剣呑な目つきとなっていった。この青年としては、士匄の気持ちがいまいちわからない。彼の言う恋が良いものか計りかねている。何より己の心を持て余していた。ゆえに、尊敬する先輩に相談しようとしたまでなのだ。 「私たちはこのような関係になってもう半年は過ぎております。かつて義兄弟を提案した私に、あなたは恋をすれば良いと仰った。あなたは私を恋しいとして抱かれます。私もあなたといると嬉しい、抱いているときはこの上なく喜びがございますし、あなたを誰にも見せたくないと思うばかりです。でも、本当にこれが互いに恋をしている、てやつですか。……あなたが満ち足りていたら申し訳ございません、私は少し寂しさがある」  士匄をまっすぐと見上げ、言い募っていた趙武が、少しずつ目を伏せ、最後にはうつむいて士匄の袖を柔らかく掴んだ。 「これからどうしていいかわからず、賢き先達にご教示たまわろうとしただけなのです。そう……。一緒にいて、嬉しいはずなのに、どこか寂しい。でもあなたがそうでなければ、私の独りよがりな想いなのかもしれません。ただの貪欲な卑しさかもしれず、言い出せないのは臆病かもしれず……臆病で卑怯な私などあなたは捨ててしまうのではないかと」  今も、何故かバカと怒っておられますし、と趙武が軽く口をとがらせた。士匄は呆れて 「捨てるとされたら、どうする」  と、はずみで試すようなことを返した。趙武がはじかれたように頭をあげ、 「あっ、あの、我が領地の(おん)は良いところです」  と、いきなり言った。何の話か、と士匄はとまどい、眉をひそめる。趙武は士匄の態度に気づいていない様子で、まくし立てていく。 「穀物だけでなく様々が豊かな場所なのはご存知でしょう。東の国々に近く、色んな文物が入ってまいります。珍しいものも多く取り寄せることもでき、ご希望あらば娯楽も呼び寄せましょう。邸は壁に貝を砕いたものふんだんにお入れして、美しく立派な、あなた好みの豪壮なものを建てます。けしてご不便感じさせません。()氏はあなた以外にも男子がおられると伺っておりますので、問題は無いですね。楽しく過ごしていただくよう、趙氏の長として全力で努める所存です」  最後、浮ついた恍惚とした声をもって、趙武が言葉を締めた。士匄は恋心も怒りも飛び越えて、ドン引き、半歩後ずさった。必死に訴える趙武の姿は、今花盛りの梅のように清廉で、甘い香りが匂い立つような麗しい。しかし、言っていることは独りよがりで飛躍しすぎている。  趙武は、士匄が捨てると言うならば、捕まえ連れ去り、監禁すると言っているのである。温などという趙氏の本拠地に連れ帰り、一生出さぬ、と宣言したのだ。 「あ。もし范叔(はんしゅく)がお望みであれば、今すぐにでも」 「そんなわけあるか! おっっまえ、ほんとうに、なに、バカだ、バカ」  3ヶ月の、ズレのある逢瀬はなんだったのか。士匄が古詩や即興詩にたとえ趙武への恋しさを謳っても、このガキには伝わっていなかったのだ、とバカバカしくもなる。体を貪りあうだけでは嫌だと言うから、恋愛をしようと努めたのである。士匄は己で言うのもなんだが、見事に成している。本気で趙武に惚れていると自負しており、ゆえにこの期に及んで煮えきらぬ趙武に苛立ちもあった。  心が欲しい、魂が欲しいと抱きしめ言祝(ことほ)ぎ、体が欲しいと犯しつくす。その上、とうとう人生まで欲しいと脅してきた。  鼻につく蝋梅の、優しくも甘い香りが厭わしいほどである。冬の終わり独特の冷たい空気が、頬に痛い。 「お前は恋がわからぬ、恋など肉欲の言い訳だと言っていたな。ゆえに己の気持ちは違う気がする、と。わたしの体を貪るために自領に閉じ込める、などというお前が言うことか、それが。その浅ましさこそ、お前の言う恋というものだ。わたしがいくら恋しいと言っても受け取らず、おのが恋心だけで浮かれて道を見失う。バカバカしい。何が范叔の心が欲しいだ、わたしの心などお前には関係あるまい」  趙武が、違う、と小さく反論したが、士匄は聞く耳持たなかった。 「全くお前()臆病だ、わたしに全て言えばよかったのだ。それをせず他人を巻き込もうとした挙げ句に、思い通りにならねば私を監禁すると言う。お前の手管はわたしには合わぬ、しばらく会いたくない」  腹立ち紛れに言い放てば、趙武が袖を握り、 「いやです」  と蒼白な顔をして声を震わせながら言う。 「体を重ねているときだけ、あなたは寄り添ってくれますけど、それ以外は違う。戯れに恋の詩を投げてきて私の反応を楽しみ、慣れた手管で弄んでおられますが、別に相手が私でなくてもそれはなさっていること。あなたにとっての恋がそうだから、ルーティンワークのようにやってるだけじゃないですか……。私は、私の誠心誠意以てあなたと心を添わせたい、あなたが欲しいし。きっと、欲してほしい。……私はあなたに欲しがってほしいのでしょうか?」  ぽつぽつとした言葉は、最後に疑問形となった。強張った顔で趙武が見上げてくる。儚げな風情であるのに、士匄の腹の奥まで食い尽くし溶かすような熱情がありありと見えた。  手癖で恋を語っている、と指摘され、士匄は怯んだが、趙武の手を払い除けて 「お前の望みなど知るか!」  と身を翻して去っていった。趙武がなおも話しかけていたが、振り返ることなく、聞く耳持たず、歩き去った。  翌日から宣言通り、士匄は趙武をただの後輩として扱った。趙武から切なそうな視線が来るが、知るか、と無視をする。己でも何がこんなに腹立たしいのか、わからないほどであった。

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