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第20話 恋がわからない。
恋をすればその人のことを常に想い、会えぬときを憂いてはため息をつき、募る情に切なくなる。などという繊細さを士匄 は持ち合わせていない。食事も喉を通らず、ということもなく毎食ぺろりと食う。男ぶりあり、精力的でもあるこの青年は、当然健啖家であった。
「食事、か」
出仕すがら、馬車の中で士匄は一人呟いた。体だけだと互いに戯れていたとき、趙武 からもたらされる食事も共にしたし、泊まりもした。が、本気で恋をしようとなれば別である。
「ったく。わたしが恋しいと言うのに、あいつは何が不満だ」
溺れるほどの情を注がれていても、それが趙武の恋情なのか、士匄ははかりかねている。他者が見れば、あれは恋する若者そのものだと苦笑したであろうが、士匄はどこか疑っていた。
恋愛は美しく清らか、などと士匄は思っていない。わきあがる情に任せて欲し手に入れ、共に溺れるものであり、バカバカしい陶酔に浸る。
どうも、己と趙武はそのあたりの噛み合わせが悪い、と士匄は苦々しい顔をした。
以前の、濃厚な一幕を思い出す。最後、潮を吹いたがために趙武の幼稚さが現れ興ざめではあったが、それまでは悪くなかった。士匄は確かに、趙武を恋しいとし、そちらが想うがままに心を捧げたいと思った。趙武も、想いを注ぎ心がほしいとなった。そこは、良かった。
趙武はギリギリのところで、自分のあふれる想いを恋情と定義づけることを拒絶した。そのうえで、士匄の気持ちも疑っている。
――恋と謳えば、体の関係を正当化できるわけではない
端的に言えば、こうである。趙武は浮かれながらも、この部分は譲らないように見えた。士匄の体に溺れ、己のものにしたいとするくせに、それを恋しているからだとは、したがらない。フワフワとした関係は嫌だと言いながら、お前こそがフワフワしている、と士匄は口をとがらせた。
あれ以降、士匄と趙武はしばしば定期的に会っては睦む。ほぼ、趙武の邸である。嗣子 である士匄が趙氏の長を呼ぶとなれば、大仰なことになりかねない。貴族とはめんどくさいところが多い。
ふたりきりで士匄が恋を語らうと、趙武が照れ、
「あなたといると、喜びがわいてきます」
と言いながら、手を重ね笑い、そうして体も重ねる。どう見ても恋人同士のそれであるが、終わると士匄はさっさと帰り、趙武も名残惜しそうな顔をしても止めない。
そういったやりとりを経て、なんと冬の終わりであった。3ヶ月近く、熱情を交わしては一瞬だけ燃え上がり、燃え尽きる前に妙に冷め、はがゆい生ぬるさで次に続くという、なんとも言えない逢瀬が続いていた。
最高潮の盛り上がりを経て緩やかな愛となった、と人なら見るかもしれない。だが、士匄に言わせると、
何かズレている、満ちているがそれだけだ
と、なる。
馬車が宮城に着き、士匄は思考を止めた。外に出れば、冷たい空気に柔らかな陽光が暖かく、春の近さを感じさせる。そろそろ、雪解けも近かろう。
士匄は、春は恋の季節と言うが、などと少々陳腐なことを考えながら、歩いていった。
さて、趙武である。こちらが満ち足りていたかといえば、そうでもない。士匄と二人きりで他愛のない話をするのも、体を重ねるのも、心に喜びがあふれていく。しかし、どこか繫がっていない、という気持ちはある。それを、趙武はどう訴えれば良いかわからなかった。もし、士匄が満ち足りていたとき、
私は足りないのです
などと言えば、不快であろう。何より離れてしまうのでは、という不安が襲ってくる。趙武は、己がなんと卑しく臆病かと情けなくなった。
士匄は隷属は好むが、卑屈は嫌悪している。彼はそのあたり、好みがわかりやすい。バカは楽しむが卑しさには侮蔑の目を向ける人間であった。もし、侮蔑の目で見られるようなことになれば、どうすればよいのか。
「……それは困ります、士 氏の嗣子を勝 手 に世 話 を さ せ て い た だ く 、というのは少々問題ですもの。でも不自由の無いよう立派な邸はご用意いたします、この絳 都は騒々しいですから我が領地の温 に招きましょう。古くは華やかな東国の方々の地です。豊かで商人もよく来る、当家自慢の場所。ここより娯楽も多く入ってきますから、きっとご満足いただけるはず。もし、何 か 変 事 ご ざ い ま し た ら ず っ と お 過 ご し い た だ き ま し ょ う 」
朝の、始業前、皆が揃うのを待ちながら趙武はポソポソ独り言を呟いた。仲の良い先達が、領地が何か? ご心配なことでも? と優しく話しかけてきた。趙武はあわてて、いえ何でもありません、ありませんから、と必死に返す。この先達は趙武の後見人の息子であった。常に親身になってくれており、見識あり経験も豊かである。いっそ相談すべきかと思いなおし、趙武は口を開いた。
「……あの。宮中、おおやけの場で私的な問いをお許しください。恋というもので悩んでおります。私はいまいち恋がわからないのですが、実は、はん――」
趙武が士匄の字 を言おうとしたとき、扉が開き、士匄が朝の挨拶とともに拝礼した。ウブでオクテでオボコな感覚の趙武は笑顔を向け、ちょうどよかった、と小さく言った。
「おはようございます、范叔 。今、私とあなたのことで先達に相談しようかと思ってまして」
とんでもない威力の焼夷弾を落とそうとする趙武に、士匄が顔を引きつらせ歪ませた。顔を向けてくる先達が、
「恋について聞きたいと趙孟 は仰っている。范叔に何か関係が?」
と静かに問うた。
「ああ、それなのですが、私は」
「おおやけの場、宮中にて私事を述べること先達にお許しいただきたい。趙孟は嫁を迎えてはいても、儀礼以上のもの、つまりは恋をしていないとのことで、わたしもお話伺い、まあ成り行き上相手をしております。趙孟は公私お分けになるかたであるが、この件に関して少々浮き足立つようで、以前もこの場にてわたしに相談を蒸し返す始末。お若いためしかたがあるまいが、あなたとわたしの年かさ二人が、ああだこうだと言うのは野暮であり、また聞こえが悪い。この部屋ではなおさらです。そもそも趙孟も家族に近いあなたでなくわたしに漏らしたのは、距離が楽だからだ。あなたも、弟のように近い人間の、そういったものを聞きたくはあるまい」
趙武の言葉を遮って、士匄が長台詞をすらすらと流れるように言った。すると、先達も深く頷き
「私では力になれぬやもしれぬ、すでに范叔にお願いしているなら、横から口を出さぬがよろしい。何より、宮中で私事を相談するのはよろしくない」
と勝手に話を終わらせてしまった。趙武は何が起きたのかわからず、年上二人を見たが、先達は何やら瞑想するように目をつむっており、士匄としては、平静を装いながらも趙武を絞め殺さんばかりに睨んできている。趙武は、士匄がそこまでの怒りを覚えている理由がわからず、さりとて私事はするな私語をするな、という会話の流れであり、問いただすこともできない。仕方なく、姿勢を正して行儀よく座した。
この日、全ての議、学びを終えて、趙武は士匄に引っ張られ、人目のつかぬ狭い内庭の隅に引っ立てられた。
何をするのか、と言う前に、
「こ、の! どこまでオボコだ! 真面目で許されると思うな! バカヤロウ!」
と、士匄に怒鳴られた。趙武は、まず己で考える人間であるが、わからないことは自分だけで悩まず、経験深い有徳の賢い先達に相談すべし、という至極真っ当な価値観を持っている。ゆえに、彼は自分と士匄が肉体関係にあり恋愛になろうとしているのだが恋がわからない、と素直に相談しようとしたのである。
士匄が怒り散らしながら怒鳴っても、仕方がなかった。
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