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第32話 もう、いりませんか

 士匄(しかい)は身勝手だが精力的な大臣候補であり、理由なくダラダラとサボる人間ではない。野心家の気質がある人間は、勤勉でもある。  真面目ゆえに勤勉な趙武(ちょうぶ)は、3日を超えるとさすがに心配し、書信を送った。挨拶と、お加減悪いのですか、と、一日も早く会いたいです、と。彼らしく常識的で誠実にあふれ、そして恋情に満ちている。  返事はなかった。  趙武はもちろん、不安と焦燥で半泣きになった。 「え。私、何かしましたか。何か……嫌われるようなことをしてしまったのでしょうか。それとも范叔(はんしゅく)が以前からおっしゃっていた恋の駆け引きですか、いやあの人のことだから、飽きられ……」  確かな想いだと、これこそが恋なのだと自信をもっていたはずなのだが、それは士匄が隣で保証してくれていたからだと、気づく。士匄がもういらぬと言えば、どうすればよいのか。追いすがっても許されるのか。恋愛に関して上っ面の知識と偏見を越えての初恋である。趙武は作法がわからぬ、と懊悩した。 「きっちり話し合うのが良いですよね。もしかするとお体に何かあったかもしれませんけど、どちらにせよ我が温にお招きする方が良い気がします。あの方は派手好みですから、立派な邸宅をご用意して……壁に混ぜる貝をたくさん取り寄せないといけません、氏族をお捨てになるのです、祖を祀る楠は省略しますから、邑宰に良い材や職人を手配させて……」  夢想に満ちた監禁計画をブツブツ呟いたあと、趙武は己の両頬を軽く叩いた。 「これは私がしたいことでした。范叔が何も仰ってないのに決めつけるのはよろしくない。鈍いと笑われても確かめませんと」  趙武は、士匄がサボって5日め、再度書をしたため、使者を送り出した。挨拶と、お加減悪いのですか、と、一日も早く会いたいです、とても恋しい。誠実で思いやりある、恋情あふれた書であったが、使いの者は返事を何も渡されず戻った。むろん本人に手渡ししたわけではないため、状況はわからない。昼の終わり、夕闇にもならぬ時間に戻ってきたわけだから、とんぼ返りに近い。つまり、返事をする気がない、ということである。  趙武は使者を労うと、一人部屋でため息をついた。誰かに相談すべきではないか、と思ったが、士匄の気まぐれであったり、事情開かせぬ氏族の都合、本当に体調が悪い、などであれば、大仰であるし迷惑であろう。何より、趙武は自分が不安で焦っている理由を、人に言えない。  私がいらなくなりましたか。  その言葉は恐怖でしかない。趙武への愛情そのままに、他者を優先するなどいくらでも、ありえる。そうして、()()()()()()ことも、ありえる。  育ての親は二十年面倒を見た趙武より、とっくの昔に死んだ趙武の父を選んで自殺した。――成人し氏族の長になったのだ、思い残すことはない、あとは黄泉(こうせん)にいる友に報告するだけだ――。このように、士匄も趙武をいらぬと立ち去ってもおかしくはない。  それを、口に出せるか。自分が不要かもしれぬ、などと悲しいことを趙武はさすがに、後見人にさえ言えぬ。 「明日、来られれば書をお読みになったか伺いましょう。来られなければ、そうですね、信書を送りましょう」  そう結論づけた時には日が落ちかけており、藤色に染まった春の夕闇と、白い月が出ていた。  さて、士匄と言えば意外にサボり続けた。この精力的な男は邸にじっとはせず、狩りに興じたり、邸にいても詩吟を楽しんだり正妻の顔を伺ったりと、プライベートを満喫し、父に苦い顔をされたりした。  その間、趙武の信書が届き続ける。士匄を思いやる心にあふれたもので、心が安らいだ。それでは返事を、となると腰が重い。恋情の深さに溺れるのを楽しみつつ、どう返してよいかわからなくなったのだ。  恋に戯れているとき、調子の良い言葉でつれなさを詰る言葉を混ぜっ返して遊ぶことは多かった。が、趙武にそれをしたくない。会いたい、と一言書いて返せば良いのだが、妙に引け目がある。 「……わたしは何を怖れているのか」  士匄にもわからず、頬杖をつきながら趙武の文字を眺める。端麗で柔らかな書であり、本人の性質が表れている。その文字ひとつひとつが、士匄を絡め取るようで心地よい。余人なら、毎日のように送られる書に怯えそうなものだが、士匄は楽しかった。そのくせ、駆け引きでもなく返事をしない。  単に、他の男に襲われかかったのを知られたくないだけなのだが、士匄に自覚がない。そのくせ肌の渇きもあり、 「書だけが来てなんとする」  と、趙武に八つ当たりじみた文句まで言うしまつであった。  なんとまあ、士匄は半月近くサボり、常は粘り強く待ちの姿勢である趙武が根を上げた。この青年は、士匄にこれ以上、書を送っても話が進まぬと断じ、後見人を通して()氏へ伺う算段をとりつけてしまった。  士匄が気づいたときには、趙武が己の棟、嗣子(しし)の室に通されたときであった。当時の室は堂の形である。士匄は動転して堂から飛び出し、庭への階段を踏み外して転んだ。趙武が慌ててかけより、手を取って立たせる。なんとも、間抜けすぎる久々の逢瀬であった。 「なぜ来た」  開口一番、士匄は言った。拒絶でしかない言葉である。士匄の手を取る趙武がひくりと震える。 「あ。もう、いりませんか」  趙武も動転し、思わず言った。士匄が弾かれたように顔をあげ、趙武を凝視した。趙武はぐすぐすと泣きだしており、何より傷ついた顔をしていた。意図して傷つけるのは慣れている。しかし、今、士匄は趙武を傷つけたいわけではない。己の弱さに思わず舌打ちをした。勘違いした趙武が、ますます眉をひそめ、唇を噛みしめる。 「中で話す。泣くな」  士匄は趙武の頬を指で優しく拭うと、促す。趙武が頷いて後に続いた。  春も終わりかけ、夏に近い。庭の木々は新緑の青さが眩しい。そのような景色などいらぬと、士匄は庭に向かう扉を閉じた。趙武は床に座り、一点を見ている。そこには、趙武が送り続けた書簡が積まれていた。 「それは私の……」 「ああ。休んでいる間の無聊を慰めるに最も良いものだった。お前がわたしを恋しいとしたためた言葉は、心地よい。わたしも恋しいと思った」  士匄が心底幸せそうな笑みを浮かべた。そこで趙武がつられて笑みを浮かべれば話は終わるのだが、そう簡単にはいかない。 「私には伝わってません。あなたの恋しいというお返し、一度もございませんでした」  その冷たく暗い声に、士匄はむくれた。 「今、言った」 「あなたの言葉ではございませんが、半月放置されました。……以前仰っていた、恋の駆け引きとやらなら、さすがに不快です。いえ、先ほど来てほしくないと仰った、私はいらないですか」  士匄の子供じみた返しに、趙武がたたみかけるように強く言う。  来ちゃった。そう、軽く挨拶する前に、逃げられ、なぜ来た、である。舌鋒強いが、趙武は内心、怯えていた。ここまでの、あからさまな拒絶をされるとは思わなかったのである。

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