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第33話 お仕置き、しつけ、八つ当たり

 士匄(しかい)は押し黙った。趙武(ちょうぶ)の顔を見たとき、喜びよりも恐怖が何故か来た。わかりやすく言えばびびった。反射的に逃げ、思ってもみなかったことを口走る。女の腐ったような己に、自分で苛つき、優しくしてくれない趙武に腹が立った。たいへん身勝手な思考をお持ちである。 「あなたは酷い。恋がわからぬ私に恋を教えて、こんなに幸せでぽかぽかするものだと知らしめておいて、ちくちくする苦しさもお与えになる。今は、身が引き裂かれそうです。私を見て逃げて。もう、いらないならいらないってしてください」  趙武がてんで見当違いなことを言った。いや、趙武としてはこう捉えても仕方がない。士匄はもう一度舌打ちする。 「手は! ……手は払わなかったろう」  取られた手を払わずそのままだったろう。そう言われ、趙武が、あ、はい、そうですね、と平坦に返す。だからなんだ、という顔でもあった。士匄はますます苦い顔をした。鈍い趙武への苛立ちもあったが、自己嫌悪である。この己が自己嫌悪など、と思えばのたうち回りたい気分となった。 「……お前が悪いわけではない。少し、嫌なことがあって、だから、わたしの都合だ。お前がいらないとかではない。わたしは趙孟(ちょうもう)が必要だ、うん、いる、お前がいい」  ぽつぽつと、言い訳しながら士匄は顔を伏せて頬を染めた。真正面から必要などと、今まで言ったことがあろうか。どこぞの誰かと恋を語ったときに、お前がいないと生きていけぬと軽く交わしたことはあるが、こんなどストレートに、必要などと言ったことはない。口に出しているうちに、照れくさくなり、とうとう片手で顔を隠した。趙武の泥臭さに引きずられている、とも思った。  趙武は()()()()()有頂天になった。口に出して、趙武が必要などと言われたことはない。そうであってほしいという願いはあったが、永遠に確かめることはできない。それを、士匄はさらりと出してきた。趙武は、()()()()()幸せに胸がいっぱいになった。 「申し訳ございません。私が早合点してしまって、あなたにも不快な思いをさせてしまいました。お嫌なことがあれば、誰しも気分が優れませんものね。ねえ、范叔(はんしゅく)。軽く酒宴などいかがでしょう。あなたと私だけです、儀礼もなにもない。民が気軽にするように飲みませんか。私はあまりいける口ではないですが」  優しく労るように微笑む趙武に、士匄はカラリと笑って頷いた。逃げようとしたことなど忘れ、ころっと機嫌を良くなり、小者を呼びつけ差配させる。そのさまを、趙武がニコニコと微笑みながら見ていた。  酒と、肉を(しおから)に漬けたものとで、静かに呑む。趙武はいけぬ口と言っただけに、のんびりと少ししか呑まぬ。士匄はそれなりに好きなため、くいくいと呑んだ。  ところで、士匄は頭が切れて口も回るが、回りすぎて舌禍であり、その浅さで残念なイケメンである。柔らかな雑談が際どくなっていっていることに、迂闊にも気づかなかった。油断もあり、気も緩んでいたであろうし、趙武に心を置きすぎていたのであろう。  ゆえに、口が滑った。 「それだ、実は欒伯(らんぱく)が――」  己が隠そうとした、もしくは隠すべきことをペロッと言ってしまった。趙武が痛ましそうな顔で全てを聞き、深く頷いた。 「それはそれは、大変でした。胸が潰れそうな思いです。私に良い考えがあります。厄祓いのまじないのようなものです。とりあえず范叔。目をつむって両手を前に出してくれませんか。私が良いと言うまで動いてはだめですよ。まじないが解けますからね」  楚々とした声音に士匄は何も考えずに頷き、目を閉じて両手を差し出した。趙武は冷たい顔を晒すと、己の帯をざっと抜いて、士匄の両腕を手早く縛った。 「は?」  違和感に目を開けた士匄は、間抜けな声をあげ、趙武を見た。そこには、静かに赫怒し、泥のような目つきの趙武が睨みつけている。こういったのは美しい顔であるほど、怖ろしいものである。 「私は常々、あなたは脇が甘い、頭が良いからと油断して火傷されると思っておりました。そしてこうも申し上げました、お二人の間が近くて妬ましいとも」  いや、そこまでを暴露していたか? と士匄は思わず考えた。今、考えるのはそこではない。 「私はあなたの無事と安寧、幸せを常に願っております。でも自衛くらいお考えください。ええ、ええ、できていると仰りたいかもしれませんが、できていたらそんな目に合わないですよね」  趙武がため息をつきながら、ぎゅうぎゅうに腕を締め付ける。そのまま士匄に乗り上げ、体重をかけて押し倒した。士匄の目の前に趙武の体があらわになり、さらにポカンとなる。趙武は己の肌を晒してまで何をしているのか、恥ずかしくないのか、と余計なことを考えた。  床に倒され、冠を止めるかんざしを取られたあたりで、士匄の混乱は最高潮となる。冠を取られるのは、肌を見られると等しいか、それ以上の恥辱である。冠なくても(きん)という布で結い髪を覆っていればまだしも、今はない。  かんざしを以て、両腕ごと帯が床に縫いつけられる。趙武が、はっ、と強く息を吐いたあと、士匄ににこりと笑みを向けた。 「こういうの何でしたっけ。お仕置き? しつけ? 八つ当たり? どうでもいいです。お覚悟を」  そう低く唸るように言うと、趙武は士匄の帯を解いた。

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