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第39話 愛は食卓にある
初恋と、未知の恋が出会ったのは、二人にとって極めて運が良かったのだろう。趙武 が、初めて感じたひとつひとつを確かめるように出してくる。その感情、想い、心、そして付随する行動は、士匄 を喜ばせる。
士匄は、生まれてはじめて相手をそのものを見て、やりたいことをし、受け止めた。類型に放り込んで手前勝手の恋をしかける彼にとって、初めてのときめきであったし、趙武はもちろん幸せとなった。
想いを確かめあって半年が経った。
狂乱の春を超えて、情熱の夏は雨季であり、邸のなかで暑さかまわず汗をすりつけあいながら体を絡める。晴れた日は湿気含む庭を歩き花を愛で詩を吟じ、気づけば愛を語る。
その夏が過ぎた秋は、森に入れば熟した香りが漂い、それぞれの領地は豊作の祀りをしている。肥え太った獲物は良いと士匄は趙武を狩りへ連れ出した。馬車を使った本格的なものではなかったが、山裾で駆け回るそれに、趙武はヘトヘトになった。士匄の体力が無尽蔵すぎたのである。
「……お前は軽い。食っているのか。肉をもっと食え」
疲労困憊、疲れてへたりこむ趙武を、士匄は抱き上げた。趙武は細く背も低いとはいえ一応成人男性であるのだが、士匄にとってたいした重さでもない。
「食べてますよ、ご安心を」
女子供のように抱きかかえられながら趙武が苦笑した。
うさぎや狐だけでなく、鹿という大物も仕留めた士匄は得意顔である。この若者は自分を自慢せずにはいられないたちである。趙武といえば素直であり、こういったことへの劣等感がないため、裏表なく称賛した。そして、弓をつがえ放つ士匄がいかにかっこよかったかも陶酔を込めて絶賛した。
「あなたのようなかっこいい人が、とてもかわいらしいなんて私だけの秘密です」
少し色を乗せて言うものだから、士匄はがらにもなく照れ、
「あれはお前にしか見せん」
と、小声でささやいた。
そんな秋であった。その日も士匄は趙武の邸に来ていた。宮中での学びが終わるのが昼ごろであるから、静かに過ごすときも激しく睦むときも、夕方には逢瀬を終えて士匄は帰っている。体だけの関係のときは、平気で泊まっていたくせに、心が通じたとたんに、まるでそれが節度と言わんばかりに帰る。
趙武も引き止めない。寂しそうな顔はするが、引き止めていない。
しかし、この日、趙武が士匄の言葉に先んじて口を開いた。
「お食事されて、お泊まりください」
士匄は少し鈍い顔を趙武に向けた。そこには困惑は無く、かすかな拒絶と何故かという問いかけがある。趙武の顔は一瞬ひるんだ。
「……なんだ、自慢の食事か、それとも珍しいものでも饗応したいのか」
士匄は低い声で言った。探るような言葉になった、と己で眉をしかめる。やはり、というべきか、趙武が首を振る。
「なんの変哲もない、我が家で用意された羊ですよ。まあ、大切に育てた良い羊。白い牛もございますが、それは……あなたはさすがにお断りされるかと」
「当たり前だ」
なんの染みもない白い牛は、生贄として最高位である。先祖の祀りか国の祀りで使うものだ。そんなものを出されては、さすがの士匄も断るしかなくなる。
「私が肉を切り分け、あなたに饗応します。あなたは好きにお食べください」
「……お前は以前、わたしをおのが領地に連れ閉じ込めたがっていた。それか?」
士匄の、値踏みするような目に、柔らかく微笑を返し、趙武が首を横に振った。
「いえ。約定ごっこ、です。あなたが昔、恋の戯れと仰ったように、これはままごと。ただ、共に食したい」
趙武の、しずしずとなされる言葉に士匄は肩の力を抜いた。嘘も詐術もない。ままごとという言葉も嘘ではない。ただ、士匄は自嘲を嗅ぎ取った。ままごとという自己欺瞞を恥じる心が趙武にはあった。
「……お前が口に出したのだ、覚悟あってのことだろう。わたしはまだ嗣子だ、真似事程度であればその儀を受けよう。……わたしもお前の想いを受けるのは喜びとなる」
その、柔らかで静かな笑みは全く士匄らしくない。面映そうでもあった。趙武が安堵の顔を見せたあと、幸せそうに頬を染めた。
あとは、差配して待つだけである。その間、二人は何も話さなかった。なにか言えば、空気が壊れてしまいそうでもあった。
一頭分の焼いた羊が運ばれ、膳など食事の場を設けると、小者たちはさっと去っていった。
趙武が真剣な顔をして、羊の肉を一口大に切った。そうして、士匄の皿へと載せる。士匄は右手で掴もうとして、やめた。その素振りに、趙武が怖じる顔を見せる。壊れかける寸前の顔にも見えた。
「お前が食わせろ、趙孟 」
「え? えっ?」
士匄の言葉に趙武が動転した声をあげた。目をきょときょとと動かし、つばを飲み込む。
「あっ! あの! それは。それはその、儀には、外れ、いえ無いわけでは! ……ないですが……」
途方に暮れた顔をする趙武に士匄は手を伸ばし、その鼻を軽くつまんで笑った。
「いっそわかりやすいだろう。わたしは食わせてほしい」
趙武が、意を決したように唇を一度噛むと、皿の上にある肉を持って、士匄の顔に近づけた。開けた口に肉が入り、閉じれば趙武の指を口の中で美味いとしゃぶった。士匄が咀嚼を始める前に、趙武の指は出ていった。
士匄が姿勢正しく座りながら咀嚼する。飲み込んだあと、趙武を引き寄せ抱きしめささやいた。
「ままごとであるが、この身は魂はお前のものだ。共に生き、同じ廟で祀られ、黄泉にて過ごす。わたしは士氏の嗣子にてこの約定は守れんが、いま瞬間は、趙氏の長のものだ、つまりお前のものだ」
「ままごとですから、わかってます。あなたは誰のものにもなりません。でも、いま瞬間、范叔 が私の家族になったというお言葉、我が喜びとします」
趙武が、心底嬉しさを滲ませて言葉を返した。
名を問うのが求愛であり求婚であれば、主人の切り分ける肉を食うのは結婚である。同じ氏族、共同体の一部となり、運命をともにする儀式である。
やめるときも健やかなるときも、共にいるのを誓いますか。趙武は肉を切り分け渡して問い、士匄は食べることで応えた。ままごとだと前置きせねばできぬことではあったが、やった。
士匄が己で食わなかったのは、理屈ではない。あえて言えば趙武に委ねたかっただけである。
「ままごとでも、馬鹿にできぬ、遊びと流せぬ。我が国の祖は、幼きころ、兄王とのままごとで渡された爵位で国封じられた。ごっこ遊びでも儀であり約定だ」
余った肉など放置し、士匄と趙武は抱き合いながら愛を語り合う。
「そのような古き貴き方々に、私のような卑賎なものの想いは遠い。しかし、あなたの人生を私は手に入れることなどできませんが、寄り添うくらいは許される。そう、思うことにします」
趙武の、誠実だがクソ真面目な言葉に、士匄は、お前は妙にかわいげがない、ともみくちゃに抱きしめながら、愛しそうに頬ずりをした。
さて、この切り分けた肉の余りをどうしたかとか、二人がこのあとどのくらい愛を確かめたかなど、蛇足なので語らない。
士匄は二十代半ばで本人が思うよりは未熟者、趙武は成人したばかりで初恋さえ知らなかった未成熟。その二人が、互いの人生や価値観を越えて、恋をして愛し合った時、今までになく幸せなのだから、それでいいのだ。
少なくともこの日、彼らは密やかにふたりきりだったけれども、永遠に共にいようと誓いあった。まあ、それで今は十分だろう。
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