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四月・ユウ「転入生」

 車の後部座席に誰かと二人、寄り添って座っている。一定速度で進む車内は暖かく快適で、僕はとてもとても満ち足りた気持ちだ。  誰かの右手が僕の左手にそっと重なり、指でリズムをとっている。温かい体温が伝わってくるその手の持ち主は、機嫌が良さそうに鼻歌をうたっていた。僕はメロディを口ずさむ人の顔が見たくて、横を向こうとするけれど……。 「クシュン。う、寒っ」  掛け布団がズルズルと愛犬スピによって剥がされて、夢の世界が霧散した。 「ワンッ」 「あぁ、スピ。……おはよう。もう起きるの?」  春になったとはいえ、朝方はまだ気温が低い。僕は眠い目を擦りながらベッドを降り、大きく伸びをしてから、自室のドアを三十センチほど開けてやる。 「先に下にお行き。手塚が朝ご飯を用意してくれるよ」  くるくる巻いたチョコレート色の毛を纏った大型犬のスピは、僕の顔を見上げたあと、ゆっくりとした動作でドアから出ていった。  僕もそろそろ着替えて階下の食堂に行かなくては。萌葱色のカーテンを勢いよく開ければ、曇天の中、庭の老木ソメイヨシノが堂々と咲き誇っているのが見えた。  ついさっきまで見ていた温かな夢を思い出そうとしたけれど、それは少しも叶わなかった。    今は春休みで、実家である郊外のお屋敷に帰省中だ。  身支度を整え食堂に降りていくと、父の秘書をしている手塚が僕に紙の束を渡してくれた。 「おはようございます、ぼっちゃん。カードが届いております」  一番上の二つ折りを開けば、達筆な字体で祝いの言葉が書かれていた。 「城伊侑太(しろいゆうた)様、十七歳のお誕生日おめでとうございます」  このカードの束は全て、父の仕事関係者からだろう。うれしいというより、お礼状を書くのが億劫だと思ってしまったが、顔には出さない。 「ありがたいですね。後で父にも見てもらってください」  手塚は「はい」と心得たように頷いた。  そう。本日、四月二日。僕は十七歳の誕生日を迎えた。普段は仕事柄、セキュリティがしっかりした都心のマンションで過ごすことが多い両親も、夕食の時間に合わせてお屋敷に帰ってくるだろう。  陽が暮れてライトアップされた満開のソメイヨシノが正面に見える部屋に、お祝いの席がセッティングされていた。どこかの料亭からやって来た板前が腕を振るってくれるのは、繊細で豪華な懐石料理だろう。  しかし乾杯のあとすぐに父が口にした話題で、料理を味わう気持ちは半減してしまう。  父が懇意にしている占い師の「予言」の話を持ち出されたからだ。占い師は僕に対して「十七歳で運命を変えてしまう出会いがある」と意味深なことを告げたらしい。  父は数年前にこの占いを聞いてから、事あるごとに話を持ち出す。振り回される僕がうんざりしていることにも、構わずに。 「いいか、くれぐれも注意しなさい。人生どんな形で、誰に足元を掬われるか、わからないんだぞ」 「承知しています。この一年間、できるだけ人と出会わないようにします。そのために僕を寄宿舎のある蓮ノ池(はすのいけ)学園高等学校へ入れたんでしょ?閉ざされた男子校では出会いなんて心配する必要ないですから」  僕は不快な気持ちを必死に隠し、できるだけ笑顔で返事をした。中学からエスカレーター式に進学するはずだった高校へ進むことも、占いのためだけに辞めたのだ。 「新年度から入学してくる新一年生のリストを学園に提供させチェックしたが、問題を抱えた家の者はいなかった。それでも新しく接する者には特に用心するように」  リストのチェック……。そんなことまでしているのか、と権力があり過ぎる父に呆れるしかなかった。  今晩のうちに都心へ戻るという両親を見送ってから自室に戻り、そっとため息をつく。いよいよ、十七歳という年齢の一年間が始まったのだ。期待感はどこにもなく、無難に過ぎるのを願うばかりだ。 「ガリッガリッ」とノックのような音がするから、僕はドアを開けてやる。 「来てくれたんだね、スピ」  愛犬を部屋に招き入れると飛びかかってきて、慰めるかのようにペロリと顔を舐めてくれた。そんなスピをベッドの上で抱きしめ、チョコレート色の毛を撫でてやりながら「占いなんて、馬鹿らしいよね」と愛犬にだけは本音を伝えた。  占い師による余計な予言がなければ、僕も世の高校二年生のように青春真っ只中の輝かしい日々を過ごせたのだろうか。  四月一週目の日曜日。あんなに見事に咲いていたソメイヨシノの花は全て散って、新緑の木となっていた。次の春がくるまで、これが桜の木だと意識しないで過ごすだろう。  僕は久しぶりに学園の制服である灰黄色のブレザーと紺色のスラックスに着替え、よく手入れされた芝生の庭で、スピとの別れを惜しんだ。 「行ってくるね、スピ。次に会えるのは夏休みかな」 「ワンッ」 「そうか、そうか。寂しいよね。でもお利口にしているんだよ」  僕の周りをクルクルと回って、もっと遊んで欲しいとアピールするスピは、誰よりも僕に懐いている。頻繁に出入りしている手塚にも決して飛びついたりしないから、僕は勝手に優越感を感じている。寄宿舎入りが決まったとき、最も辛いと感じたのはスピに会えなくなることだった。  父の秘書である手塚に、いつもどおり黒塗りの車で学園に送ってもらう。手塚は数人いる父の秘書の中でも、主に家のことを担当してくれているから、僕にとって身近な存在だ。今年で三十歳の独身らしい。銀フレームの眼鏡にダークグレーのスーツがトレードマークで、いかにも仕事ができそうな男性だ。  お屋敷からは車で二時間の道のり。余計なことは話さない手塚と特に会話はなく、僕は流れる景色を見て過ごす。  学園は山の中にあり、常緑樹の深い緑に覆われている。見晴らしも悪く麓の景色が見えたりはしない。初めて来たとき、まるで山に囚われているような閉塞感に襲われたが、もう慣れた。  一年間過ごしてみた感想は、予定調和で物事が進み、刺激が少なく面白みのない場所。周りから見たら優等生だろう僕にとって、ただそれを演じる場所。  十七歳となったここからの一年間も、おそらくこの山の中では父が心配するようなことは起きず、何事もない淡々とした日々が過ぎていくだろう。  学園の周辺には、頻繁に霧が出る。そういう地形なのか、年間を通して晴れの日より、ジメジメした日の方が多い気がする。  今日も朝から霧が煙る中、新一年生を加えた全生徒がホールに集合した。なんの変化もなく新学期がスタートすると思っていたが、始業式で同じ学年に転入生が来ると紹介された。  この学園へ転入生が来るのは異例なことで、クラスメイトたちがザワザワとしている。  転入生の名は丸河海斗(まるかわかいと)。僕も背は高い方だけれど、彼の方がさらに高く細身で、首の長さが目立つ。どことなくミステリアスな雰囲気を漂わせている佇まいは、育ちが良いおぼっちゃんばかりのこの学園には、あまりいないタイプだ。 「丸河です。これからどうぞよろしくお願いします」  壇上で挨拶を促されたとき、全生徒を見渡した目つきが鋭く、ちょっと怖そうだと思ってしまった。言葉少ない転入生を補足する学園長の説明によると、彼は帰国子女らしい。  一学年二クラスしかない中、彼は僕と同じクラスの二年B組になった。担任から学園内、寄宿舎内の案内役を任され、僕はその日の午後、彼を連れて学園の敷地中を歩いて回ることにした。 「なぁ、なんて呼べばいい?」  教室を出ですぐの廊下で、彼はぐっと顔を近づけてきた。茶色に少し緑がかったヘーゼル色の目で、品定めするかのように僕の顔を無遠慮に覗き込む。 「えっ、あっ、僕は皆にユウって呼ばれてる。君のことはなんて?」 「ユウな、了解。俺のことはカイって呼んで。よろしく」  手を差し出されたので、戸惑いながらも軽く握り返した。  学園の建物は全て、昭和の終わりの景気がよかった頃に建てられたらしい。よく手入れがされていて古くても頑丈で使い勝手はいい。  寄宿舎も学園の敷地内にあり、校舎と屋根のついた渡り廊下で繋がっている。食堂、大浴場、談話室は寄宿舎の一階にある。  校舎の山側には裏庭があり、その向こうには大きなガラス張りの温室が建っている。一年中一定の温度に保たれ温室に入ると四角いプールのような池があって、赤やピンク、白や黄色のカラフルな熱帯睡蓮が咲き乱れている。睡蓮の花は、ぽっかりと水の上に浮かんでいるようでいつ見ても幻想的だ。  池の中で泳いでいる小さな熱帯魚のプラティを見て、カイは「いい場所だな、ここ気に入った」と笑顔を見せた。笑うと鋭かった目がクシャっと垂れて、第一印象で感じた怖さは消えてなくなった。  温室は専門の庭師さんが管理している静かな場所。人の出入りは極めて少なく、いつでも温かい。花の甘い匂いが漂っていて、僕も好きな場所だ。  ちょうど庭師さんが終わった花を摘む作業をしていて、「こんにちは」と挨拶をすると会釈を返してくれた。手塚と同じ年くらいの男性で、いつもモスグリーンのつなぎ服を着ている大柄な人だ。僕がこの学園に入った年に、高齢になった先代の庭師さんからこの職を引き継いだらしい。  体育館や図書室を案内しながら、カイの質問に一つ一つ答える。 「なぁ、ここの食事は何が美味いの?」 「定番だけれど、僕はカレーが好き。結構辛いんだよ。豚の生姜焼きも人気かな」 「風呂は何時頃が混む?」 「消灯時間間近は混むから、早く入ったほうが空いていて快適だよ」 「ユウは部活とかやってるのか?」 「僕はなんにも。二年生からは生徒会の仕事をするつもり。カイは入りたい部活があるの?」 「いや、ないない」  僕にフレンドリーに話しかけてくれるカイ。父が与党の大物政治家だからと、全校生徒から距離を置かれている僕にとって、とても新鮮でうれしいことだった。  通常の授業が始まり数日が経った放課後。非常口扉の向こうでクラスメイトがカイに忠告しているのを、うっかり耳にしてしまう。 「おい、カイ。ユウの父親、あの有名政治家「城伊丈一郎(しろいじょういちろう)」だって知ってるのか?一般市民があんまり馴れ馴れしくしないほうがいいぞ」  あぁ、バレてしまった。サッと自分の体温が下がったように感じる。カイが父のことを知ったら、僕との関係を改めてしまうだろうから。他のクラスメイトと同じように、一線を引いたような関係になってしまうのは、残念でしかたがない。  けれど、そうはならなかった。 「親が政治家だからってなに?そんなの関係ないだろ」  即答したのが聞こえたとき、僕は自分の口角がニッコリと上がったのを自覚した。  僕たちが毎日を過ごす寄宿舎は、二階が一年生、三階が二年生、四階が三年生と分かれている。二年生は二段ベッドが一つある二人部屋だ。しかし二年生の部屋は満室で、カイは一年生の四人部屋に入れられてしまった。  彼は一年生と一緒の部屋を「狭い」と嫌がり、毎晩消灯時間の二十三時ギリギリまで、僕を誘って一階の談話室のソファーで過ごそうとする。 「ユウ、談話室行こうぜ」  毎晩、部屋まで誘いに来てくれるから、いつしか課題を早めに終わらせて時間を作って待つようになった。  一年生の頃の僕は談話室を使うことが少なかったけれど、出入りしてみると楽しい場所だ。皆が思い思いに喋ったり、ふざけ合ったり、テレビを見たり、パソコンを触ったり。ガヤガヤしている感じがむしろ落ち着くというのは、初めての経験だ。  カイは談話室の奥まったところに置かれた、茶色くフカフカなソファーがお気に入りらしい。  彼はいつもそこに座り、僕に好きなものの話を聞いてくる。 「ユウは、どんな小説が好き?」「どんな音楽を聴く?」「映画はどんなの観てる?」  僕が答えるとかなりの頻度で、カイもそれを知っていて驚く。 「あっ、俺もそれ好き。面白かったよな。後半めっちゃハラハラしてさ、だけどラストは泣けるんだよ」  少しマイナーなものにも、的確な感想をくれる。こんなにも誰かと好きな事柄を共有でき、語れるのは初めてだった。僕も談話室でカイと話すことが楽しい日課になった。

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