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第1話 死刑囚・アルバ
かつてバイオリニストとして名を馳せた青年・アルバは、神妙な面持ちで裁判長の言葉を待っていた。
自分は何も罪を犯していない。ただ、王族の前でヴァイオリンを弾いていただけだ。そばにいた貴族たち、奏者たちはみな、それを目撃していたはずだ。
なのに、なぜ自分は処罰を待っているのだろう。王族殺しの濡れ衣を着せられ、無実の証明ができずにいただけなのに、なぜ自分は今この場にいて、罰せられるのを待っているのだろう。
「汝に死刑を言い渡す」
裁判長の口から無情にも死を言い渡され、傍聴人と検察官は席を立ち、拍手を送って喜んだ。新聞社の記者は、スクープだと言わんばかりに急ぎ足で法廷を出る。
アルバは絶望の淵に立った。もう死んでもいいかもしれない。こんな不条理な世界で生きていたって意味など無い。
むしろ今、自分をこの場で殺してくれても構わない。隣の警官の拳銃を奪って、自分の頭を撃ち抜こうか。証言台の角に頭を打ち付け、頭蓋骨を割ってやろうか。一瞬迷ったが、それは妄想で終わった。もうその気力すら湧かなかったのだ。
裁判官は死刑の理由をつらつらと読んでいたが、アルバの耳にはもう何も入ってこなかった。そのまま裁判は何事もなく閉廷し、アルバは車に乗せられ、ヴィヴァーチェへと連行された。
──音楽の国の監獄都市・ヴィヴァーチェ。
そこでは、死刑囚が『最期の贖罪』として刑の執行前に演奏を行う。観客は政府高官や貴族たち。彼らが満足すれば刑期は延長されるが、失敗すれば即時に刑が執行される。他の国にはない、音楽の国らしい死刑執行方法である。
ヴィヴァーチェの周りは、囚人が脱走しないように高い壁が築かれている。まるでベルリンの壁のように周囲と断絶し、一般人は特別な事情がない限り、立ち入ることができない。
車はヴィヴァーチェの門をくぐり、死刑囚の収容区へと向かう。アルバはぼんやりと空虚な目で車窓から景色を眺めた。今は冬の終わりで、街にはうっすらと雪が積もっている。そろそろ春が訪れるだろう。恐らくその頃には、こんな馬鹿馬鹿しい世界に別れを告げているが。
そうして車に揺られているうち、死刑囚の収容区が見えてきた。灰色のコンクリートでできた箱状の建物。いかにも死刑囚の寝床らしく、どこか無機質さを感じさせる。だが、自分の余生を過ごす場としては十分すぎるほどだ。
その建物の前で車は止まり、警官に降ろされる。
「これから、お前は死刑棟で過ごしてもらう」
アルバが静かに頷くと、警官はアルバの手錠に縄を括り付けて、アルバを引っ張った。その様は散歩に連れていかれる犬そのものだった。普通なら屈辱的に感じるだろうが、アルバにとっては、もはやどうだってよかった。
死刑棟の中に入ると、警棒を持った看守が出迎えた。警官は看守に縄を引き渡すと、すぐに帰っていった。アルバは看守に引っ張られながら、ある部屋の一室へと連れていかれた。
看守が鍵を開けて部屋に入ると、三人の死刑囚たちが一斉にこちらを見ていた。
一人は裏のありそうな微笑みを向け、一人は目をしばたたいてこちらをじっと見つめている。
そして、もう一人は明らかに不満そうな顔をし、こちらを睨んでいた。
「新しい団員だ」
そう言って、看守は面倒そうにアルバにかけられていた手錠を外した。
「お前は明日の演奏会に出てもらう。それまでヴァイオリンの腕を磨いておけ」
それだけ言い残して、看守は部屋の扉を閉めて鍵をかけた。この部屋には内側に鍵は存在せず、中からは開けられない部屋にアルバは閉じ込められた。
「君が新しいバイオリニストか」
先程こちらに微笑みかけていた男が、アルバに歩み寄った。そして握手を求めて手を差し伸べた。
「私はヴォルター。チェリストなんだ。これからよろしく頼むよ」
アルバはおずおずと手を握り返した。
「は。こんな腑抜けた奴がヴァイオリンを弾けると思えねえけどな。どうせ前の奴みたいに首を刎ねられるのが関の山だろ」
不満そうな男が悪態をつく。それをもう一人の男が「まあまあ」と止めながら、アルバの方を向いた。
「ごめんね。カミーユは人に楯突かないと生きていけないんだ」
そう言うと、男もヴォルター同様に手を差し伸べた。
「ぼくはロラン。ヴィオラを弾いてるんだ。あっちの悪態ついてる男はカミーユ。第一ヴァイオリンを担当している。よろしくね」
アルバは何も言わず手を握った。その様子を快く思わなかったカミーユは、アルバを気にくわないと言わんばかりに、舌打ちをしながら睨んでいた。
「下手くそな演奏だったら許さないからな」
カミーユがなぜ自分を気にくわないのかは分からないが、もう演奏する気はなかった。いつ死んだっていいのだから、今更生き延びるためにヴァイオリンを弾く意味も無かった。
「僕は、もう弾かない。処刑されたってかまわない」
アルバがそう呟くと、三人は目を丸くした。
「君は、死刑を受け入れているのかい?」
「ああ」
アルバは一言だけ呟いて、壁に凭れながらその場に座り込んだ。
「もう、何もしたくないんだ。放っておいてくれないか」
「それは困る。演奏会は四人一組で行うんだ。君がいなければカルテットは成立しない」
ヴォルターの反論は、アルバには響かなかった。
どうせ自分は死ぬ。いくら演奏して刑期を伸ばされたとしても、どうせいつかは死の瞬間が待っている。人生なんて意味がない。これまで歩んだ楽しい日々も辛い日々も死ねば消える。
目の前で狼狽しているヴォルターが死んだって、自分が死んだって同じことだ。
「悩みなら聞こうか?」
見かねたロランがアルバに声をかけた。だが、もう返事する気も起きず、無視して蹲った。
「もういいだろ、ほっとけ。こいつが生きようが死のうが俺たちには関係ない。今は練習だ」
カミーユはヴァイオリンを構える。そして、優雅に演奏を始めた。
彼が弾いているのは、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弦楽四重奏曲第76番ニ長調、『五度』だ。かつて何度も弾いた曲なので、ヴァイオリンの旋律の入り口を聞いた瞬間、曲名はすぐに分かった。
カミーユの演奏に、アルバは思わず顔を上げる。
──そして、目を見開いた。
彼の佇まいは、今まで見てきた他の奏者とは一線を画していた。
威風堂々、まるで音楽を我が物と主張するような、圧倒されるオーラ。そこから紡ぎ出される旋律は繊細で、寛雅だ。端的に表すなら、美しい。その一言に尽きる。
彼の紡ぐ旋律に、無意識に脳裏で旋律を思い浮かべる。
そして、首を傾け、体をゆっくりとしならせながら、弦を引く。脳内で彼の旋律と合わせ、一つの重厚な音を作り出す。
そんなことも露知らず、彼は演奏を続ける。自分も演奏を続ける。自分の中でハーモニーが完成され、アルバはその心地良い音楽に浸っていた。
「いい表情だね」
不意にヴォルターの声が聞こえ、我に返った。
どうして自分は死の淵にいながら、音楽に浸っていたのだろう。今更、そんなことをしたって無意味じゃないか。どうせ死ぬことは決まっている。なのに、なぜ自分は彼の作る音に魅了され、それを楽しんでしまったのか。
「君の表情、音楽を欲してるんでしょ」
違う。今更欲したところで、どうにもならない。自分に課せられた運命は、誰にも変えることは出来ない。
「欲してない」
「強がりだね。さっき、体を揺らしていたのに」
ヴォルターの目元が柔らかくなる。自分は今、カミーユの音に無意識に浸ってしまった。その事実を突きつけられ、アルバは戸惑った。
「諦めるにはまだ早いんじゃないかな」
「……早いも何も、死ぬことは決まっているじゃないか」
ヴォルターは否定するように、首を横に振った。
「いいや。音楽は世界を変えられると思うんだ。私は変えたい」
「どういうこと?」
「私はこの制度をひっくり返す。音楽は万人のものだ。死刑の道具ではない」
この国には表現の自由はない。音楽も例外ではなく、庶民は音楽を楽しむことを許されない。音楽は貴族や王族といった上流階級の人間のものなのである。
しかも、この国は他国との交流を断つ独裁国家なので、他国の音楽やジャンルも聞くことさえ許されない。唯一許されるのは古くから伝わるクラシックのみだ。
「いくら旋律が拙くても、皆が心から楽しむことで音楽は完成される。私はそう信じている」
ヴォルターは、ヴァイオリンを弾いているカミーユに目を向けた。
「さっき、君は音楽を心から楽しんでいた。それが彼の演奏を完成させたんだ。私はそういう音楽を望んでいる。死刑のためではない、万人のための音楽を」
ヴォルターの瞳が心なしか輝いている。まるでベリドットのように、オリーブグリーンの瞳は輝いていた。
「さて、私も弾こうかな。ロランは?」
ロランは既にヴィオラを持ち構えていた。
「ちょうど、ぼくも弾こうと思ってたさ。君はどうする、アルバ?」
二人はアルバの方を向いて、答えを待っている。
だが、どうしても弾く気は起きなかった。
ヴォルターの話を聞いても、自分に訪れるであろう死に対し体が強張り、前に進むことを本能的に拒んでしまう。恐怖と虚無感が入り混じった複雑な感情が、体をコンクリートのように固めてしまう。
アルバは首を横に振った。二人は残念そうにしていた。これでいい。これでいい。アルバは僅かな罪悪感を見ないふりしてやり過ごした。
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